所詮は塞がる傷だけど 百々人先輩はよくわからない。恋人になってようやくこの人のことを知れるのかと思ったのに、わからないことのほうが増えたくらいだ。
ベッドの上に座って投げ出した足の、たいして柔らかくもない俺の太ももに頭を乗せて百々人先輩はだらだらと本を読んでいた。たまにこういうスキンシップを取ってくるくせに、定期的に「人肌は苦手」と言うのが先輩だ。なら俺が特別なのかと問い掛けても「別に?」と笑う、そういう人間が彼だった。
俺の恋は怖いもの見たさなんだろうか。百々人先輩のことを知りたいと、『好き』を持たずに投げかけた告白に百々人先輩はひとつだけキスを返して、双方明言しないまま俺たちの『お付き合い』は始まった。さして日常は変わらずに、たまに百々人先輩はワガママを言ったり、俺の家に行きたいと言うようになった。そして、そういうときだけ「僕たち、恋人じゃん」と宣うのだ。
ソシャゲのデイリーを消化する、その画面越しにふと見た百々人先輩は俺を見ていた。俺の意識が完全にスマホから剥がれたのを確認すると、そっと手を伸ばして俺の頬に触れてくる。
「アマミネくん、きれい」
頬を辿る指先がくちびるに触れてくるから俺はその指先を甘く噛む。そうすると百々人先輩は短く「だめ」と言って俺の動きを止めたあと、またマイペースに俺の顔をするするとなぞっていく。
「ほっぺも、くちびるも。……あと、耳も」
きれいなみみ。百々人先輩は感嘆と呆れが混じったような声色で呟いてキツく俺の耳たぶをつねる。俺は文句を喉奥に押し込めて、百々人先輩の耳に柔らかく触れた。
「百々人先輩もきれいですよ」
「うそ。穴ぼこ開いてるよ」
白く曲線を描く、収まりのいい耳をなぞる指先がピアスに引っかかる。そういえば俺はこの人がピアスを取っているところを見たことがなくて、百々人先輩が着飾るためにどれくらいの傷を負っているのか知りたくなった。
「ピアス、取ってみてくださいよ」
「だめ」
いや、ではなく、だめ、と言われた。なんだか俺の方がワガママを言ったみたいに感じるのは被害妄想だろうか。こうなると苦し紛れの反撃みたいになってしまうから、ああ、もっと早くに伝えておけばよかったと後悔してしまう。それでも口にしないのはいやだった。
「きれいかきれいじゃないかとか抜きに、俺は好きですけど」
百々人先輩のなにもかもを好きになれるわけじゃないから、俺はこういうふうに『好き』を見つけるたびに明け渡すようにしている。百々人先輩はそのたびに笑ったり、眉間をきゅっと寄せたり、俺の声が聞こえないふりをしたりする。今日の百々人先輩は聞こえないふりだった。
「ねぇ、おそろいにしようよ」
蛇のように囁いて、百々人先輩は俺の耳に爪を立てた。
「ピアス、開けない?」
かわいくもない恋人の願いは叶えてあげたかったが、この提案は飲み込めない。
「ダメです」
俺の意趣返しに百々人先輩は口を尖らせる。
「いやなだけでしょ」
開けるだなんて一言も言っていない。それどころかダメとまで言っているのに、百々人先輩は「僕が開けたい」と言いだした。ぎぎ、と爪を立てられた耳たぶはわずかにじわりと熱くなっただけで、やっぱりここは痛みをさして感じないんだなってぼんやり思う。
「……からだに穴は開けませんよ。爺ちゃんが怒りますもん」
百々人先輩が少し黙る。百々人先輩の家族がどうかはわからないけど、爺ちゃんは怒る、気がする。確認を取ったわけではないしアイドルの仕事で必要になったら何も言わないだろうけど、そうでもない限りからだに穴を開けるのは嫌だった。
「いまは簡単に開けられるよ。僕がぱちん、ってやってあげる」
「嫌です」
「おそろいにしようよ。僕がアマミネくんの目の色のピアスをつけるから、アマミネくんは僕の目の色のピアスをつけて、」
「百々人先輩」
「穴の位置もおそろいがいいけど、逆側にしてシンメにしてもいいかも」
「先輩」
全く話を聞いていないくせに百々人先輩はまっすぐに俺のことを見ている。俺はその言葉を塞ぐ口づけの代わりにその鼻先にがぶりと噛み付く。
「痛っ」
「だってキスしたら百々人先輩怒るでしょ」
開けるときは先輩に頼みますよ。そう妥協案を示せば百々人先輩はそんな日は一生こないんだと嘆きながら、俺を無視して読みかけの本を開いた。
***
百々人先輩に俺の耳たぶが狙われてから、ほんの数日後のことだった。
次の仕事の打ち合わせの資料を並べながら、プロデューサーが問い掛けてくる。
「そういえば、秀さんは金属アレルギーなどはありますか?」
「え? いや、ないけど……ああ、これ?」
資料には衣装の他にアクセサリが数点書かれていた。そのなかに、ピアスがある。
「……プロデューサー、俺、ピアスは」
ピアスはなるべくなら開けたくない。もちろん耳に穴を開けたくないのが一番の理由なんだけど、つい先日百々人先輩のお願いを突っぱねているというのもためらう要因ではあった。別に百々人先輩が俺の耳に口を挟める道理はないが、やっぱり少しは意識してしまう。
「あ、こちらはピアスではないので安心してください。マグネットピアスなので穴を開ける必要はありません」
「マグネットピアス……ああ、そうなんだ」
それなら開ける必要はない。会話は衣装の話になってマグネットピアスに対しての思考は置き去りになってしまったけれど、帰り道でふと思う。これなら百々人先輩と、おそろいに限りなく近いことができる。
百々人先輩のことを考える。同じ色と同じ形のピアスとマグネットピアスを探そう。それか、百々人先輩が夢想したようにお互いの目の色を身につけるのもいいかもしれない。
それよりも、青いピアスを贈ろう。青は俺に向けられるサインライトの色だから、先輩を俺色に染め上げるような気がして少し気分が高揚した。決して褒められることのない感情が背中を後押しするものだから、まっすぐに家に帰らずに街をうろついた。
撮影で使ったアクセサリは買い取ったりできるんだろうか。俺は資料で見たマグネットピアスによく似た形の青いピアスを買って、少し浮かれた柄の包装紙でプレゼント用のラッピングをしてもらった。
***
撮影は問題なく終わった。いつもは先輩たちと一緒に行動しているから、こういうユニットの関係ない仕事は新しい刺激になる。
「あれ、それ買い取るのか?」
「うん。プロデューサーにはオッケーもらってる」
「似合ってるぜ。自分で買い物するのもいいけど、自分じゃ見に行かないものに会えるから買い取りさせてもらえるのはありがたいよな」
雑談をしながらマグネットピアスをつけなおす。百々人先輩とおそろいでつけるなら、慣れておこうと思っていた。
違和感はあるけれど、何かに集中したら気がつかない程度の痛みだ。オフショットにと撮った写真を百々人先輩にも送る。
『今度おそろいにしましょうね』
返事はすぐにきた。
『似合ってるよ』
『当然です』
もっと喜ぶかと思ったんだけど、それきり返事はこなかった。
***
百々人先輩と次に会えるのは三日後だ。近いけれど、渡したいプレゼントがあると途方もなく遠く感じてしまう。そのうえ会えるのはレッスン室だ。プレゼントを渡すには少しばかりときめけない。
三限目の終わり、トークを開いてメッセージを送る。
『どっかで二人きりで会えませんか?』
送ってすぐ、『どっか』っていうのが場所なのか時間なのかわかりにくいなって思った。そういうのを確認し合うこともせず、百々人先輩は俺にメッセージを返してくる。
『キミの家がいい。今日か、木曜日』
『なら今日で。駅前待ち合わせでいいですか?』
すんなりと決まっていく約束を見ながらぼんやりと思う。こんなにわからない先輩だけど、俺は百々人先輩の時間割を知っていて、何時に駅に着くかも知っている。
なんとなしに学校ではつけられなかったマグネットピアスをつけて迎えに行こう。四限のチャイムが鳴るまで、俺は百々人先輩のことを考えていた。
***
百々人先輩は俺のマグネットピアスを見てもなにも言わなかった。
並んで俺の家に帰る。並んで靴を脱ぐ。並んでベッドに背を預けて座る。肩が触れあわない距離は恋人らしくなくて、俺はそれを存外気に入っている。
「俺、百々人先輩に渡したいものがあって……」
鞄からプレゼントを取り出そうとして背を向けた。あの派手な包装紙はぐちゃぐちゃの鞄に飲まれてしまっていて少し手間取る。それでも時間にしたら十秒にも満たない、それだけの空白を埋めるように、百々人先輩に後ろから抱きしめられた。
首に、するりと百々人先輩の腕が絡まる。背中に体温が押し当てられて、耳に吐息がかかる。そのまま綿菓子で絡め取るように、百々人先輩は掠れた甘い声を俺の耳に流し込んだ。
「嘘吐き。ピアス、してる」
ぺろ、と耳たぶを舐められてそのまま耳飾りに噛み付かれた。かち、と硬質な音を立てたあと、百々人先輩はこの距離で、情欲とはかけはなれた冷たい声を出す。
「……このまま、噛みちぎっちゃおうか」
俺を抱きしめる腕に力が込められる。俺はそれを無視して、見えもしない百々人先輩の頭を適当に撫でた。
「お好きにどうぞ。これ、マグピですよ。マグネット」
「……そうなの?」
つまらなそうに、百々人先輩の腕がだらりと下がって離れていった。いきなり解放されて呆気なく距離が生まれる。振り向いた百々人先輩は思ったよりもきょとんとしていて、なんだか可愛いくせにちょっとズルい。
「マグピ」
「そうですよ。俺、からだに穴は開けたくないって言ったでしょ」
百々人先輩のピアスを強い力で摘まむ。百々人先輩は痛いだなんて言わなかった。もしかしたらもうこの人は、このくらいじゃ痛みなんて感じられないのかなって思う。ちょっとだけ悲しくて、ひどく虚しい。
「引っ張られても取れるだけです……こうやったら、怪我するのは百々人先輩だけです。耳、ちぎれちゃったりするんですかね?」
どうだろうね。なんの感情もなく百々人先輩が呟くから、俺は傷をつけないように指を離す。
「百々人先輩、だけ。……俺はちょっとズルいですか?」
気がつく。俺は傷一つつかないまま、百々人先輩と『おそろい』になろうとしているんだ。
「なんにも。そっか、アマミネくんが約束破って、僕に頼まないで開けちゃったのかと思った」
「開けるときは百々人先輩に頼みますよ。そもそも開けるは予定ないですけど」
見せつけるようにマグネットピアスを外した。ぱちん、と一度は離れた磁力同士がくっついて手のひらに収まる。
「ピアス、ぴぃちゃんが言ったから開けたのかと思った。……僕のお願いは聞かなくても、ぴぃちゃんのお願いは聞くでしょ?」
「それは百々人先輩じゃん」
お互い様、と吐き捨てれば百々人先輩は否定も肯定もせずに笑う。俺はプロデューサーに頼まれればからだに穴を開けるんだろうか。わからないけれど、百々人先輩はプロデューサーが言えばきっとプロボクサーとだって殴り合いをするし、全身がペンキまみれになったって特別な絵を壁一面に描くんだろう。
「……そういうとこですよ」
そういうとこ。思うとこはたくさんある。でもなんにも言葉にならなくて、全部、ひとつだって言えやしない。
「……嫌いになった?」
「俺、百々人先輩のどこが好きなんだろ。それでもトータルで、絶対に好きだから嫌なんですよ」
今度こそ俺は背を向けて鞄に手を突っ込む。がさごそと動かした手につるつるとしたラッピングが触れる。取り出して、百々人先輩に差し出した。
「プレゼントです」
小さい、手のひらくらいのプレゼント。俺を示す色をした装飾品。
「……開けていい?」
「むしろ、いま開けてくれないと嫌です」
百々人先輩は繊細な指先でラッピングを破いた。ピアスを取り出して、笑う。
「……アマミネくんの色だね」
「改めて言われるとむずむずしますけど……そういう意図で買いました」
そっか。そう呟いて、百々人先輩は自分のピアスを外した。俺に初めてぽっかりと開いた穴を晒して、それをすぐに真っ青なピアスで埋める。
「……似合う?」
「似合いますよ。……俺がつけてるやつと、形が似てるでしょ? おそろいです」
百々人先輩の望みって、こういうことじゃないのかもって気がしている。だけど望みを打ち明けてくれたって俺の全部は百々人先輩のためにはない。それは真実だけど、意地でもある。本当はからだに穴くらい、開けたっていいのに。
「おそろいじゃないよ。アマミネくんには傷なんてひとつもない」
「……そうなんですよね。さっき気がついて、黙ってました」
正直に打ち明ける。百々人先輩はそっと手を伸ばして、俺の頬に触れた。
「……でも、それがいいな。アマミネくんは一生傷ついたりなんてしないでほしい」
ぴり、って。胸の中が引きつった。
俺はきっと百々人先輩を傷つけるんだけど、百々人先輩だって大概だ。この人、もしかしたら俺が傷ひとつない、傷ついたこともない人間だとでも思ってるのかもしれない。
「きれいで、完璧な天才でいてほしいよ」
でも、それが百々人先輩の望みなら仕方ないのかなって思う。そういう『天才』が好きなら、それでもいい。
「……ピアスを開けてほしいときは頼みますよ」
それでも、傷を晒したくなったら、俺はアンタに穴を開けてもらいたい。目に見える、傷が必要になる時がきたら。
「うん。キミを傷つけるなら、それは僕がやる」
傷つけたいよ。
加虐の色もなく、むしろ被虐の悲壮さを滲ませて百々人先輩は口にした。