転職活動「僕ね、転職活動しようかと思ってさぁ」
「はぁ……」
モモヒトさんが俺に口を開くのは珍しいことで、大抵そういうときはロクなことがない。独り言として聞き流してもよかったが、経験則からして無視するほうが面倒そうだ。
俺たちは報告に向かったエイシンさんを待っているところで、モモヒトさんは飲んでいたバイタルドリンクの瓶をその辺りに投げ捨てて言葉を紡ぐ。コロコロと転がっていく瓶を拾う人間はここにいなかったが、俺はモモヒトさんの言葉を拾うのに手一杯だから見逃してほしい。
「僕はマユミくんと一度、本気で戦ってみたいんだよね」
「はぁ」
知っている。と言うか、この組織に属している以上、知らない人間のほうが少ないはずだ。ここまでは知っている話だったが、流石に続きは知りもせず、見当もつかないことだった。
「だからさ、ここ裏切って敵対しようかなーって思って」
「なっ……えぇ……?」
知っていたことと知りたくもなかったことを同時に脳に流し込まれて脳がバグる。でもこの人の場合、これが本気だとわかるからタチが悪い。頭を抱える代わりに俺はバイタルドリンクを喉に流し込む。むりやりに人体を動かすガソリンは甘ったるく舌にまとわりついた。
「だから僕、マユミくんに言ったんだよ。本気で戦ってくれないと裏切っちゃうよ、って」
声色はふわふわとして捉えるのが難しい。チラリと、いままで合わす気もなかった視線をやれば、声色に反して表情はからっぽだ。ああ、沈黙が痛い。
「……で、エイシンさんは何て言ったんですか?」
「聞きたい?」
「叶うなら聞きたくないです」
「マユミくんったらね、」
「聞きたくない……」
本当に聞きたくないのに、モモヒトさんは口を開く。嫌がらせなのか、俺に対してなんの感情も抱いていないのか。
「マユミくん、僕が裏切った瞬間に『目の前で自殺する』って言ったんだ。お前の大好きなごちそうが、目の前で亡くなくなってしまうぞ、って言うんだよ」
酷いでしょ。そうこぼすモモヒトさんは珍しく、俺相手に感情を見せていた。宥めるにはこの人の癇癪に付き合う気は無くて、慰めるにはちょっと関わりたいと思えない。
「……嘘、じゃ、ないんでしょうね」
「マユミくんは嘘吐かないでしょ」
酷い。酷い。酷い。三回、呪いのように呟いてそれきりモモヒトさんは黙ってしまう。俺はそれをぼんやりと見ながら、うまいこと考えたなぁ、なんて感心していた。確かにエイシンさんの自らを人質にした脅しはこの人間を繋ぎ止めるのにうってつけだ。だってモモヒトさんの執着は誰もが知っていて、それこそエイシンさんがいなければこの組織にいる理由はおろか、自らの存在意義まで揺らぎそうな危うさがこの人にはある。
いや、でも、それはないよなぁ。頭を痛める俺を手持ち無沙汰に見ていたモモヒトさんの目が、急に爛々と輝き出す。正直、嫌な予感しかしない。
「……閃いた」
「……は?」
にこり、モモヒトさんが笑う。珍しいものを見たなぁ。もしかしたら今日は雨かなぁ。洗濯物、干してたっけなぁ。
「マユミくんが勝手に死んだら、アマミネくんを殺すってことにしよう!」
「……はぁ!?」
「マユミくんがマユミくんを人質を取るなら、こっちだって人質を取ればいいんだよ」
「……マジで勘弁してください」
「これならマユミくんも命を大事にしてくれるよね。人質。ふふ、いい考え……あ、マユミくん! ちょうどいいところに!」
ぱっ、と花が綻ぶように──あるいは猫が嬲るためのネズミを見つけたときみたいにモモヒトさんの表情が明るくなった。そちらを見ると、用件を終えたのだろうか、エイシンさんがこちらに視線を向けていた。
「マユミくーん! 聞いてー!」
元気にモモヒトさんがエイシンさんの元に駆け寄っていく。その姿は健気に見えるほどだ。モモヒトさんはまるで子供が今日学校であったことを報告するかのようにエイシンさんに喋りかけて、数秒後には脳天にげんこつを食らっているのが見えた。エイシンさんはまだ用件があるようでどこかに行ってしまい、モモヒトさんはとぼとぼとこちらに戻ってくる。もう、部屋とかに戻ればいいのに。
「……聞いて」
聞きたくない。でも、俺は弱い。
「はい。エイシンさん、なんて?」
「あの人は最悪の人だよ。アマミネくん、あんな男、信用しちゃダメ」
「アンタよりマシでしょ」
うっかり溢れた本音すら聞かず、モモヒトさんは呟く。
「アマミネくんの命がかかってるのに、あの人なんて言ったと思う? 『俺が死んだあとのことなんて知るか』、だって」
「わぁ……」
「最悪でしょ。最悪だよね?」
「はい」
モモヒトさんの次に。言いかけて、やめようとして、やっぱりいいかと思ってそのまま言った。俺の言葉はなんにも響かなかったみたいで、モモヒトさんはちょっとだけつまらなそうに口を尖らせている。
「……嘘かなぁ」
「『マユミくんは嘘吐かないでしょ』、じゃないんですか?」
モモヒトさんがそう言ったんですよ。
そう言えばモモヒトさんは肩で大きく溜息を吐いてどこかに言ってしまった。すると、まるで図ったみたいなタイミングでエイシンさんがやってくる。
「シュウ。……その様子だと、話は聞いているようだな」
「はい。エイシンさんってば、薄情ですね」
助けてくれないんだ。そう呟けば目の前の男はひどく悠長に笑う。
「死にたくなければ強くなることだな」
「はぁ」
エイシンさんは俺の肩をぽん、と叩いてどこかに行こうとする。それを、言葉だけで制止した。
「すごいですね、エイシンさん。俺から離れたら死んでやる、だなんて」
愛の告白みたい。そうからかえばエイシンさんは悪戯を思いついたような顔をした。
「ああ、熱烈に愛されているからな。……裏切ったら、許さない」
お互いに、とんでもない人に好かれている。エイシンさんもモモヒトさんも前世は大罪人かなにかだろうか。
「それなら『俺から離れたら殺す』のほうが、モモヒトさんは喜びますよ」
「思い通りはつまらないだろう。なにより、喜ばす義理も義務もないしな」
「はぁ……」
本日数度目の溜息に微笑みをぶつけて、今度こそエイシンさんはどこかに行ってしまった。それを虚無感と共に見送って、盛大に息を吐く。
「どっちもどっちなんだよなぁ……」
なんというか、本当にどっちもどっちだ。だってモモヒトさんがもしも裏切ったって、エイシンさんが死ぬわけがない。それは俺や、組織や、もっと大切なものを守りたいだとかいう殊勝な心なんかじゃなくて、この人だってモモヒトさんと本気で殺し合いたいからに決まってるからだ。
「……戦うとき、アンタが笑ってんの知ってんですよ」
やってらんない。きっとこうやって俺がさっきモモヒトさんのポイ捨てした瓶を拾ってしまうように、後片付けや始末書は俺の仕事なんだろう。
俺に出来ることは巻き添えを食らわないように離れつつ、出来ることならあの二人の手足を打ち抜くことくらいしかない。
「……失敗したら、二人に殺されるよなぁ」
本当に本当に気が重い。でも、俺に出来ることは殺し合いを傍観できるくらい精神力を鍛えるか、二人を止めるべく銃の訓練に勤しむことのどちらかだろう。
俺はマジメだから瓶も拾うし訓練場に向けて歩き出した。少なくとも、自分の身くらいモモヒトさんから守れるようにならなくちゃ。
ああ、本当にやってられない。