はちみつどろぼう「甘い……」
そのリップクリームを唇に塗った瞬間、はちみつの甘い香りがした。きれいで、純粋で、粘度のある、何かを絡め取るような香りだった。
ぺろ、と舌を這わせれば味も甘い。制汗剤のCMに出たときに新発売だからともらったリップクリームは僕の趣味ではないけれど、かといって使わないほど嫌いなわけじゃない。買わない、けど、あったら使う。そういう存在がこのリップクリームだった。
使ったのはたまたまカバンにこれが入っていて、ちょっと唇が乾燥していたからだ。アイドルとしての僕は立派な商品なわけだから、ちゃんときれいに保たないと。
そんなことを考えていたら事務所についた。ぴぃちゃん、休憩中かなぁ。そうだったらいいなと思いながら扉を開く。おはようございます。僕の挨拶に帰ってきた声はひとつだけだった。
「おはようございます、百々人先輩」
「おはよ、アマミネくん。……ぴぃちゃんは?」
アマミネくんがムッとするのがわかる。それでも彼がなにも言い出せないのは、アマミネくんの告白を受けるときに僕から言い出した取り決めのせいだ。僕がキミよりぴぃちゃんを優先しても怒らないこと。それを聞いたアマミネくんが「妬くくらいならいいでしょう?」と言ったから、僕らが恋人である限りアマミネくんは嫉妬くらいしかできることがない。
「出かけてますよ。ついでに山村さんはコンビニ。……今いるのは百々人先輩のかわいい恋人ひとりです」
「なんだ。アマミネくんしかいないんだ」
かわいいって思っちゃうから、アマミネくんにちょっとだけイジワルをするのがやめられない。こうやって言葉ではそっぽを向いたくせに僕はアマミネくんの隣に腰掛ける。僕らふたりはひとつのソファにきゅっと収まって、向かいのソファが退屈そうに人を待つ。
「……百々人先輩、なんだか甘いにおいがしますね」
顔が近づいたからだろう。さっき塗ったばかりのリップクリームがふわりと香ったに違いない。アマミネくんは少しだけ僕に顔を近づけて、視線を少し上に向けて首を傾げた。
「ああ、リップクリームかな。はちみつのリップクリームなんだって」
ふ、とさらなるイジワルが浮かぶ。このリップクリームを塗ってあげるって言ったらどうなるんだろう。もちろん、わざわざ「間接キスだね」って伝えるつもりだ。照れるアマミネくんが見られるなら、間接キスくらい安いものだ。そもそも、そういうのがイヤじゃないから付き合っているんだし。
「これね、味も甘いんだよ」
「そうなんですね。おいしそう」
「でしょ? アマミネくんも試してみ……」
続くはずの問いかけはアマミネくんの唇に奪われた。アマミネくんは唇を触れあわせたあと、僕の唇にぺっとりと塗られたリップクリームをぺろりと舐めて、にやりと笑う。
「……本当にあまいですね」
ごちそうさま。そう言って顔を離す後輩の肩を軽く叩いた。
「なんですか?」
「かわいくない」
「いつもの仕返しですよ」
「こんな子じゃなかったのに……」
かわいくない。もう一度呟けば、アマミネくんはわざわざ上目遣いで聞いてくる。
「……そんな俺は嫌いですか?」
わかってるくせに。僕が一言「嫌い」と口を尖らせれば、アマミネくんが笑う。
「わかってますよ。ねぇ、もう一度、今度はちゃんとキスしましょ?」
「絶対しない」
僕はリップクリームを塗り直す。やっぱりおいしそう、ってアマミネくんが楽しそうに言ってきた。かわいくないなぁ、ほんと。