花園百々人は忙しい やけにドラマチックだと思った。絵画のようにわざとらしい夕日は線路を茜色に染めながら、俺と百々人先輩がはぐれるまでのタイムリミットを刻んでいる。
夕日、踏切、思春期。おおよそ青春に必要なものはこの程度だろう。そのすべてがここにあって、俺か百々人先輩が口を開くだけでそれは始まる。それなのに百々人先輩は横に立って一言も発さないまま電車が通り過ぎるのを待っている。カラフルなパーカーが、燃えるような朱に照らされていた。
ありきたりな放課後だった。ただ何気なく、悪意なく、それでも明確な意思を持って俺は百々人先輩だけを誘ってクレープ屋に行って、一緒にいる理由が目減りすることに耐えきれずにカラオケボックスに先輩を引っ張っていった。きっかり六時まで俺たちはそこにいた。
電車が通る。それなりに大きな音のはずなのに、当たり前すぎて驚くことも忘れている。引き起こされた風が舞い上がって俺たちの髪や服を揺らした。目の前をいくつも通り過ぎる車輪。変わらぬ茜とそれに滲んだ紫陽花色をした瞳。呆れるほど平坦な鼓動。情報として処理されることのない人の群れ。神様からレンタルしたひとつひとつを繋ぎ合わせて、そういうものとして額縁に収まった俺たちを見つめる存在はどこにもいない。ただ、関わることのない人生がそれぞれにあるだけだ。
踏切は開かない。もうひとつ、電車を待っている。
「俺、百々人先輩のこともっと知りたい」
驚くほど日常的に、限りなく劇的に、俺は百々人先輩に視線を向ける。さっきまでの俺と同じように真正面を向いている百々人先輩とは視線が絡むことはない。電車が通り過ぎて百々人先輩の色素が薄い髪を揺らす。百々人先輩の唇が動く。
「──しちゃう?」
ほら、嫌になるほどドラマチックだ。電車の音にかき消された百々人先輩の誘いはなんだろう。逃避行も、心中も、ごめんだ。だけどそれ以外なら別にいいかなって思ってしまう。
音が止む。幕があがるように遮断器が俺たちを開放する。人の波に逆らわずに向こう岸に渡る数歩の間に、俺は本当のことを言う。
「……聞こえませんでした」
「そう? 知りたいならさ、僕たち付き合っちゃう? ……って言ったの」
嘘付き。口に出してそう言ってやればよかった。絶対にさっきはこんなこと言ってなかったじゃん。続いた嘘がこんな魅了的な提案じゃなかったら、きっと文句の一つも言っていた。
「……付き合いましょうよ。俺と百々人先輩、恋人になるんだ」
柳のように百々人先輩が笑う。そういえば、好きっていうのを忘れてた。
***
俺の恋は好きの言葉を持たず、春に雪が溶けるように、あるいは夏の終わりに蝉が死ぬように始まった。秋の紅葉はまだ見えず、冬を待つには熱が足りない。
誰かを深く知りたいと思うこと、それを恋と呼ぶことに違和感を感じない。きっと気がついたら恋をしていて辻褄合わせみたいに好きになった。恋愛だと思い込まないと、知らないことは怖いことだから。
知ったつもりになることは気分が良かった。波打ち際で遊ぶだけにしておけばいいのに、答え合わせがないのをいいことに深くに足を進めている。気まぐれに波が高くなればきっと死んでしまうってわかっているのに、無責任に脅かされることはないと信じていた。
事実、百々人先輩は穏やかだった。ときおりじゃれつくように笑うことが増えた。夏の暑い日に、他人の体温すら煩わしい熱のなかで百々人先輩の指先が俺の手に触れる。蝉の声がやけにうるさい。
「……嫌?」
返事の代わりに指先を絡めた。イタズラに弄んで、人の目に触れる前にパッと離す。
なんだかひどく笑えてしまい、口元を隠しもせずに盗み見た百々人先輩も笑っていた。ふ、と幸せを意識して、胸が苦しくなるほど目の前の人間の幸せを願う。それなのに、どうしようもなく言葉が出ない。
「……百々人先輩、俺、」
「何も言わないで」
「え……?」
「蝉の声がうるさいから……きっと何も聞こえないよ」
百々人先輩が一歩を踏み出して先に歩き出す。「ごめんね」っていう百々人先輩の小さな声が、俺にはハッキリと聞こえた。
***
最近の百々人先輩は幸せそうだ。あの日以来、俺たちはたまに誰にも気づかれないように手をつなぐ。二回だけ、キスをした。
「……僕ね、最近なんだか幸せかも」
ぶどうを摘み上げながら百々人先輩はそう言った。鋭心先輩のくれた果物を齧りながら、合わないとわかってて俺にコーヒーをリクエストした矢先の言葉だった。
「幸せ、ですか」
「うん」
俺は椅子に座りなおす。コーヒーを淹れるために立ち上がったっていうのに。この人の愛おしいワガママを聞こうと思っていたのに。
「……それ、俺のおかげじゃないですよね」
「ううん。アマミネくんのおかげだよ……でもね、アマミネくんだけのおかげじゃない」
口元に運ばれたぶどうの皮をそっと剥きながら百々人先輩はそっと俺を見る。
「……悔しい?」
「……いいよ。先輩が幸せなら」
返事を待たずにもう一度立ち上がった。だってどう考えてもぶどうに合わないコーヒーを、百々人先輩がねだったのは間違いようのない事実なんだから。
***
「幸せだなぁ」
百々人先輩が呟く声を聞く。先輩は幸いを口にすることが多くなった。それはだいたい独り言で、認識というよりは祈りに似ていた。
言葉は切なくなるほど当たり前の時間に溶けて消える。コーヒーに溶ける砂糖のようだ。何かがハッキリと変わって舌にざらざらと残るけど、どんなに目を凝らしてもわからない。
俺が取りこぼしてしまうささやかな時間を拾い集めるように百々人先輩は世界を見つめる。彼が幸せを口にするとき俺はどうしようもなく幸福で、哀れなほどに胸が苦しい。
幸せに形を与えて仕舞いこむように呟く声は星を零すようで、そういうときの百々人先輩はやわらかくきらきらとしている。月明かりと割れたガラスに似ている。遠くで傷ついて、ぼんやりと光っている。
***
きっとどこかで何かが変わっていたんだろう。いくつもの幸せを口にするようになった百々人先輩が、同じ唇で俺に好きだと言った。
「僕、好きかも」
「ん? どれがですか?」
俺は最初、差し出した飴の話をしているんだと思っていた。ぶどう、りんご、れもん、いちご。色とりどりの甘いものには手を伸ばさず、百々人先輩は俺の頬に触れて笑った。
「アマミネくんのことが、だよ」
おかしいね、と百々人先輩が表情を崩す。俺は考える間もなく返していた。
「百々人先輩、俺も百々人先輩が好きです」
「……そっか。……ふふ、へんなの。僕らもう付き合って何ヶ月も経つのに」
なんだかひどく笑えてしまい、俺たちは顔を見合わせて同じ表情をする。ふ、と幸せを意識して、胸が苦しくなるほど目の前の人間の幸せを願った。
「ねぇ、百々人先輩」
「なぁに?」
「俺、きっともっと前から百々人先輩が好きだった。ずっと」
「うん。そんな気はしてた……ううん、そうだったらいいなって、思ってたよ」
百々人先輩は視線を落とす。指先が選んだのはいちごの飴だった。
「でも、ようやく言ってくれたんだね」
遅いよ。そう言って百々人先輩はいちごの飴を口に放り込んで噛み砕いた。アンタが言わせてくれなかったんじゃん。言ってやりたかったけど、言い訳みたいだったからやめた。
***
「百々人先輩、俺とふたりっきりの時は幸せだって言いませんよね」
思いの外拗ねるような声が出た。俺はただ、疑問を投げかけたかっただけなのに。
「……恋人なのに」
俺の部屋には百々人先輩がいる。ベッドによっかかりながら隣で漫画を読んでいた先輩はゆっくり、のんびりと顔を上げた。
「俺といるときって、あんまり幸せじゃないですか?」
今度は詰るような声が出た。責めるようにも縋るようにも聞こえる声に返すには当たり前すぎる口調で百々人先輩が「うん」と言った。
「嘘じゃないけど、本当でもないよ。幸せ、なのかな? そんなことより、それ以上があるの」
どうでもいいような場所に、どうでもいいように漫画が置かれた。これ以上ないってくらい百々人先輩は俺を見て、口にする。
「ふたりきりだとね……ドキドキするんだ」
「え……?」
そっと百々人先輩の指先が俺の頬に触れる。
「いつキミが触れてくるんだろうとか、」
ゆっくりと動いて唇を軽く押す。
「どうやってキミは僕にキスをねだるのかとか、」
指先は伝うように滑って喉を撫でる。
「どんな表情でキミは僕を求めるのかとか、」
とん、っと胸を押して百々人先輩は息を吐く。
「どんな声でキミは僕を押し倒すのか、とか……」
俺はどんな顔をしていたんだろう。百々人先輩は一瞬だけ目を伏せて、少しだけ目線を逸らす。
「……ドキドキするの。幸せを感じる暇もないくらい」
瞬間、唐突に距離が近づく。俺の動揺を吐息ごと飲み込んで、唇が触れ合いそうな距離で百々人先輩は呟いた。
「……キミは?」
「俺は……」
数秒、見つめ合っていたんだと思う。どちらが仕掛けたかなんてわからない。気がついたら、って言葉がぴったりくるくらい、それくらい当たり前に俺たちはキスをしていた。普段するようなふれあいじゃなくて、お互いが深く探り合うように求めあった。酸欠になりそうになって一度唇を離しても、どうしようなく足りなくてまた交わる。数十秒か数分か、唐突に百々人先輩が顔を離し、俺を腕の中に閉じ込めた。
「……ねぇ、聞こえる? 僕の心臓がこんなにうるさいの」
「……はい」
どくどくと、俺の耳元で鼓動が聞こえる。百々人先輩はそれきり、なにも言わない。
「ねぇ、百々人先輩」
「……なぁに?」
「俺の心臓の音も、聞こえますか? なんか笑えるほど早くて、うるさいんです」
「うん……」
「でも、俺は幸せだから」
本当はちょっと足りないってわかってる。俺にはまだ塞がってない穴があって、それはこの人じゃ埋まらない。それでも俺たちふたりにとっての幸いがあるのなら、俺はその欠片をもう掴んでる。
「先輩だってドキドキしたままでいいですよ。そのまま、幸せにしますから」
パッと先輩の腕から抜け出して、なんだかビックリしている百々人先輩を今度は俺の腕に閉じ込めた。額にキスをして髪を撫でれば、くすぐったそうな笑い声が聞こえる。
「……じゃあ、たくさん幸せにしてね」
「任せてください。……でも、百々人先輩が幸せになろうとしてくれなきゃ、いやです」
「そっか……うん、そうだね……」
いま、幸せかも。そう言った百々人先輩をずっと抱きしめていた。窓から差し込んだ夕暮れが、あの日のように百々人先輩の髪を茜に染め上げていた。