街角探偵の幻覚 収束した事件の現場。もう自分の役目はないだろうと手持ち無沙汰にしていた男に声がかかる。
「イチくん」
灰咲の言葉に振り向いた緋色の顔はこれ以上ないほどに歪んでいた。嫌悪というよりは怒りが強い瞳を見ても怯むことなく、灰咲は感心したように呟く。
「ほんとにこっち見た」
「なんでテメェがその呼び方で俺を呼ぶんだよ……おい、そう呼んでいいのはセンセーだけだ」
上背のある緋色が凄むと迫力があるのだが、仕事柄強面の人間は嫌というほど見ているのだろう。灰咲は「知ってるよ」と事も無げに呟いて、くるりと後ろを向いた。話を終えたのだろう。涼月を連れて渦中の人が戻ってきた。
「おい……ん? なんだこの空気は。灰咲、お前うちのにまたなにかしただろ」
「別に? あだ名で呼んだだけ」
「だから! 俺のことをイチって呼んでいいのはセンセーだけなんだよ!」
「あー……なるほどな」
イチ、と言うのは自らを慕う舎弟に泉家がつけた愛称だった。探偵業をなにと勘違いしているのかわからないが、コードネームのようなものがほしいと言い出した緋色にねだられて、戯れ半分でつけた名だ。しかしこれが意外に馴染んだものだから、泉家はこの愛称をその場限りのものにせず継続して使っている。そもそも、泉家が緋色の名前を呼ぶこと自体があまりないのだが。
「知らなかったから物珍しくてさー。泉家さん、普段は君のことを『おい』とか『お前』とか呼ぶから」
「まぁ、それで通じるからな」
そういえば、というように泉家は同意する。意識していなかったが、そう言われてみれば舎弟のことを古女房のように呼んでいた。それを受けて灰咲が思いつきのように言う。
「僕もそうしようかなぁ。ねぇ?」
「先輩と僕はそこまで親しくないでしょう」
先輩を一呼吸でぶった切った涼月の言葉に緋色がふふんと胸を張る。つまり自分は師と仰ぐ泉家と仲が良いと言われた、という判断だろう。
「そっかー……」
灰咲は少しだけ考え込む素振りを見せた。彼は悪人ではないが──いや、悪人とカテゴライズされるべき人間なのだが──戯れに藪をつついて蛇を出すような悪癖がある。その蛇を酒に浸して飲むように愉しむわけではなく、たんなる興味本位だからたちが悪い。
「……ねぇねぇ、ずみやん」
「……は?」
灰咲の言葉に場にいる全員が固まった。矛先が誰に向いているのか、灰咲以外には誰もわからない。それを察した灰咲は泉家の腕をつんつんとつつきながら、もう一度同じセリフを言う。
「ずーみやん」
「はぁ?」
「あだ名。僕も考えてみた」
「おいテメェ! ふざけんなよ!」
固まっている泉家の代わりに吠えたのは緋色だった。ふるふると震えているのは怒りだろう。しかし灰咲は仕事柄、以下略。ひるまない。
「お前、センセーに向かってへんてこな名前つけやがって……センセーもなんか言ってやってくださいよ!」
ふむ、と泉家は悩むような素振りを見せた。数秒ゆったりと考えて、何も面白いことなどないというように言葉を吐く。
「なんだ、しゅーたん」
「しゅーたん!?」
緋色の絶叫に涼月のため息がかき消される。泉家はポーカーフェイスを全く崩さずに、緋色と涼月に投げかける。
「どうした? ずみやんだぞ」
「セ、センセー……」
「ずみやんだって」
「……す、涼月……」
「緋色さんには難しいと思いますよ。ずみやんさん」
「お前も呼ぶのかよ!」
涼月は騒ぐ緋色よりも面倒な先輩を取った。あっさりと緋色を見捨てて「しゅーたん先輩、さっきの資料ですが……」と業務連絡をし始める。
「センセー……どうして……」
しゅん、と大型犬がうなだれるような表情をした舎弟に、泉家は魚屋で今日のおすすめを聞くような口調でさらりと告げる。
「いや、考えてみたらお前に名前を呼ばれたことってなかったなって」
「ぁう……だって、センセーはセンセーじゃないっすか」
「だからずみやんだって。ほら、言ってみ?」
「…………灰咲! テメェのせいだぞ!」
思えば灰咲は緋色に怯んだことがないかもしれない。いつものように、さらりと返す。
「言ってあげればいいじゃん。あ、まこりん。こっちの資料はさ……」
「それなら二課にあると思います。あとでまこりんが持ってきますよ。しゅーたん」
涼月は完全に諦めたのか、あるいは順応したのか、先輩のことをキュートな愛称で淡々と呼ぶ。泉家は相変わらずのポーカーフェイスだし、灰咲はけしかけたくせに完全に興味を失っている。
「ずみやんが難しいなら別の呼び方でもいいぞ?」
「……センセー……」
「……もしかして俺の名前、忘れてるとか」
「忘れるわけないじゃないですか!」
声デカ、と言う灰咲の呟きにも、飽きないでくださいよ先輩、という涼月の声にも緋色の意識は向かわない。ぐるぐると考えて、考えて、蚊の鳴くような声を絞り出す。
「い……いず……いや、こう……こーの……」
頑張れ、と気のない声を出したのは誰だったのだろうか。ほとんど悲鳴のように緋色は叫ぶ。
「こ……こ……こうのすけさん! ……うう……言っちまった……」
ぱちぱちと二人分の拍手が霧散する。ガックリとうなだれる舎弟の頭をぽんぽんと撫でて泉家は言った。
「いやー、照れるかと思ったけど面白さが勝ったな」
「なんも面白くないですよぉ……」
しおしおになってしまった舎弟の肩を叩きながら、もう用はないかと問いかける視線を投げる。灰咲がひらひらと手を振ったので、泉家はくるりと背を向けた。
「じゃ、帰るか。イチ」
「ぇ……はい!」
言葉一つをもらっただけでこんなに喜ぶ人間もそうそういない。さっきまでの浮かない表情をかき消すように満面の笑みで緋色は応えた。それに苦笑しながら、泉家は去り際に灰咲へと向き直る。
「……こんなに怒ったり喜んだりするんだ。もううちのをイチって呼んでやるなよ」
「はーい。いいなぁ、そんなにかわいい舎弟がいて」
「かわいい後輩とお仕事がいつでもそばにいますよ。しゅーたん」
「かわいいなぁ……お仕事にもあだ名つけよっか」
「しごとのごっちゃんでいきましょう。はい、ごっちゃんがあっちで待ってますよ」
テキパキと後輩によって運搬されていく灰咲を無視して、上機嫌で緋色が歩く。
「ねぇ、センセー」
「なんだよ」
「もっかいイチって呼んでくださいよ」
「やだよ。意味もないのに呼べるか」
「……照れてます?」
「お前が俺のことをずみやんって呼べたら考えてやるよ」
「無理ですよぉ!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ舎弟を受け流したあと、泉家はいつものように「おい、」と彼を呼んで帰りに何を食べようかと問いかけた。