勘違い、もつれて絡まって「マユミくんって、頼んだら抱いてくれそう」
ぴた、と止まった思考を目の前に座った百々人に向ければ、百々人はあやとりのために輪にした毛糸を指先で弄んでいた。事務所の壁と同じ色をした毛糸は秀が持ってきたもので、もふもふえんの子供たちとあやとりで遊ぶためのものだ。先ほどは百々人がもふもふえんと一緒に秀にあやとりを教わっているのをぼんやりと見つめながら、もしも彼らがこちらに来たときに、そして百々人が何かを喋り出したときに、あやとりを知らなかった十七の子供にかける言葉を考えていた。
あやとりで盛り上がる談笑の中に、俺は意図的に入ろうとしなかった。理由もあやふやなくせに百々人のことがどうしても気になってしまっていたし、俺はきっと小さい頃にあやとりで遊んでくれた祖母のことを思いだしてしまう。それではうまく、きっと、『眉見鋭心』をこなせない。それはおそらく最適な対応ではないだろう。
秀はどこかへ、もふもふえんの子供たちはレッスンへと向かった。こういうときに都合よく、あるいは都合が悪く秀がいなくなるのは神様の仕組んだギミックなどではなく、単純に彼が好むゲームのアーケード版がゲームセンターに並びだしたからだ。おそらくは秋山や大河あたりと遊びに行ったのだろう。寂しさは感じる方が間違っている。きっと、秀は正しい。
事務所のホワイトボートを挟んだ奥で卯月と水嶋が宿題をやっているようだ。俺の向かいのソファには百々人が腰掛けて、教わったばかりのあやとりをしていた。俺は台本に目を通しながら、数分に一度、百々人ではなくその指先に絡まる毛糸を見ていた。
マユミくんって頼んだら抱いてくれそう。
俺の思案が意識を駆けめぐる一瞬で、百々人は一度だけ、目が合わない角度でこちらを見た。百々人をじっと見つめる。その口元には柔らかな、揶揄を含まない笑みが浮かんでいた。
「……百々人は、抱いてほしいのか?」
バカな問いを──都合の悪い問いをした。仮に百々人が肯定を返したら、俺はどうするつもりだったんだろう。正しいこと、人の為、正解、倫理。脳を片づけ終わる前に、百々人ははぐらかすように笑う。
「やだなぁ。もしもそういう女の子がいたら、って話だよ」
マユミくんは抱きそう。そう百々人は呟いて、またひとりであやとりを開始した。
数分ほど見ていただろうか。百々人は小指で糸を持ち上げて引く癖があるように見える。動かす、というよりは操られるように百々人は指を動かす。気がついたようにこちらを見て、楽しそうに笑う。
「……ふたりでやろっか?」
「ん?」
「あやとり」
百々人は指先を動かさないように、そっとこちら側のソファにやってきた。俺の隣に座って、体をこちらに向け、糸で縛られた両手を差し出してくる。
「交互にとって、ぐちゃぐちゃにしちゃったほうの負け」
はい、と言われたので、そっと指先を伸ばした。祖母と遊んだ記憶を辿りながら、祖母の知らない固さになった指先で、正しく糸を取っていく。
「マユミくん、上手だね」
百々人が感心したような声を出した。
「昔に遊んだことがある」
「そうなんだぁ」
百々人の手番だ。きれいな形を差し出したのに、百々人は正しい取り方を知らない。百々人が取った毛糸はぐらぐらと、ほろほろともつれ、ぐちゃぐちゃになってくったりと指に絡まった。ああ、と百々人が短く声を出す。声をかける間も与えずに百々人は輪を解いて最初と同じ形に整えた。
「……もういっかい、いい?」
「……ああ、もちろん」
ぼんやり、思う。百々人はきっと勝てない。この子供は正しい取り方を、最適解を知らない。
秀は正解を教えなかったのだろうか。あるいは百々人が忘れているのか、意図的に無視をしているのか。それとも好きに取るようにと秀が教えたのだろうか。
何度かやりとりがあった。何度も百々人は毛糸で出来た輪をぐちゃぐちゃにしてしまう。何度も何度もこんがらがって、全部がいくつもダメになった。思考が巻き戻っていく。望みなら、抱けるのか。俺は見たことのない女性ではなく、百々人の裸を思い浮かべていた。
「マユミくん、上手」
聞き覚えのある言葉だ。ただその声は、感心にも、諦めにも、ともすれば呆れにも聞こえる。
「……あやとりにはパターンがある」
「うん」
「あやとりにも……あやとりには最適解がある。俺はただ、それを知っているだけだ」
知っているからだ。知らずとも、最適解を求めることは慣れている。だから、ずっと、最適解を差し出しているにすぎない。
あやとりはうまく取ればずっと遊んでいられる遊びだけれど、百々人はめちゃくちゃな取り方をしてあーあ、と笑う。
「もう一回」
差し出されるものを、最適解に従って取っていく。こちらから差し出す。百々人はそれを崩してしまう。相手が定石を知らないからゲームがうまく進まない、そういう感覚に似たやりとりを繰り返した。
「……あ、これはどう?」
その形には見覚えがあった。よく覚えていると我ながら内心で苦笑するが、そうなったときの俺と祖母の困り切った笑い声を覚えている。
「こちらの負けだな。その形になったらどうしたって取れないんだ」
どう取ってもぐちゃぐちゃになってしまう、どうにもならない、そういう形。それなのに、百々人は言う。
「……とって」
「取れないんだ。絶対に形にならない」
「それでもだよ。ぐちゃぐちゃになっちゃってもいいの。……ちゃんとキミの手で、めちゃくちゃにして」
間違って。そう告げられている気がした。
「ダメになるってわかってても、ね?」
「……わかった」
最適解ではない。ここに解はない。それでも俺は手を伸ばした。橋のように渡された糸に小指をかけて、ぐい、と手前に引いて、交差した糸を人差し指で掬いあげる。親指を下の糸に添わせ、引き寄せて、持ち上げて──そうして、全部がぐちゃぐちゃになってしまった。
「マユミくんの負け」
呆気なく百々人が告げる。勝ったのだから、もう少し嬉しそうにすればいいのに。
「……もう一回」
気がつけば口にしていた。今度は俺から、丁寧に形作った毛糸を差し出す。百々人はそれに指先を絡めて思案する。曖昧な紫陽花の色をした瞳を少しだけ下に落とし、隠し事のように囁いた。
「正解じゃないってわかってても」
少し呼吸がもつれる。
「ぐちゃぐちゃになっちゃうってわかってても」
百々人はまためちゃくちゃに糸を取った。祖母はそんな形を作らなかった。またきっと、ダメになってしまう。そんな最適解は俺の中にない。
「ダメになっちゃうとしてもさ。……そういうマユミくんが見れるなら……抱かれるのも悪くないのかもね」
百々人の差し出した見たことのない形に伸ばす指先が震えた。糸をとろうとして、俺たちの指先が音もなくぶつかる。
「……そう望まれているなら……正解を、最適解を求められていないのなら……」
わからない。
「……抱いてくれる?」
「……わからない」
大きく息をはいた。口にした言葉には懺悔のような沈黙が混じった。
「……どちらがいいんだろうな。蔓延する正しさと、願望を叶えたいという精神は」
人のために生きると決めたのに、相手の望みに疑問を抱いてしまったら。
意図的に、間違った取り方をした。ぐちゃぐちゃになった糸を見て百々人が笑う。
「……抱くとか、抱かないとかは簡単じゃない話だけどさ」
沈黙が返事になるような距離で百々人は柔らかい声を出した。
「あやとりはさ、楽しいか楽しくないかでいいよね」
めちゃくちゃにしちゃえ。間違いをそのまま受け入れて、百々人は俺の手から不正解を受け取った。形にならないあやとりが、死骸のように百々人の指先に絡まっていく。
「……おしまい、にしようか」
百々人が糸をくしゃりとまとめた。その手を取った。
「……どうして、俺にあんなことを言ったんだ?」
「あんなこと……どれのことかな?」
「俺が頼まれれば、誰かを抱くのかと」
ああ、と百々人はなんでもないように呟いて、意地悪に口元に笑みを浮かべた。
「だって……マユミくんってば、ズルいんだもん」
「……ズルい?」
「うん。だって……いつだってキミは正しい」
ぎし、と心が軋む音が聞こえた。俺の痛みには愛も情もいらない。それでも、百々人にそう言われたとき、喉元に何かがつたえた。
何も知らずに百々人は目を細める。そっと笑う。
「……ううん、違うなぁ。キミは優しいんだ。キミのこと、カッコいいなぁって思うんだ。僕もマユミくんみたいに……もう少し人に優しくなりたい」
美しい笑顔だった。悲しそうな声色だった。
「……百々人の方が俺よりよほど誠実だ。それに、お前はたくさんの人を幸せにしているだろう」
「そうかなぁ? でもね、僕はマユミくんとお話してると幸せだから……」
それは俺にとっての成功だ。そうなるために返している最適解だ。それなのに、なんで俺が苦しいのだろう。この心に生まれる痛みよりも、俺には優先すべきことがあるのに。
「マユミくんは知らないだろうけどさ、マユミくんはいつも僕のほしい言葉をくれるんだよ。……だから、かっこよくて、やさしくて、ズルいや」
違う。そう言えたらどれだけよかったんだろう。百々人は夢の余韻を引きずるようにそっと囁いた。
「……僕もね、誰かを……マユミくんを幸せにできたらって、思うよ」
「……そうか」
それが百々人の願いなのか。百々人の中にある俺の形をした虚像が必要なものならば、それを奪わないことが最適解なのか。
わからなくなってしまった。どうすることもできなかった。百々人がテーブルに置いたあやとりは解けて形を失って、意味を亡くしたぐちゃぐちゃの毛糸になってしまった。