星屑の灯る部屋で「寂しい」
そう言った百々人の表情はうっすらとした逆光で少しだけ不鮮明だった。暮れかけた陽の茜を背に、うっすらとした色の髪がきらきらと輝いている。
「寂しいの」
百々人は困ったようにへらりと笑ったあと、小さな声で「ごめんね」と言った。そうして駅までの道をまた歩き出そうと、俺に背を向ける。
言葉こそ同じではないが、百々人の言葉は先程まで見ていた映画のセリフと同じ温度をしていた。それは恋人の時間が終わろうとしている今この瞬間のためにあるような言葉で、別れの時間にぽつりと落ちる。
俺の家から駅までの帰り道だ。閑静な住宅街には夕刻だというのに誰もいない。猫も、カラスも、神様が脚本通りに消したみたいだ。
百々人の「寂しい」という言葉を引き出したのは俺だ。道すがらふと物憂げな表情を見せた百々人になにか心配事があるのかと伝えたら、百々人は一瞬だけためらうように息を吸って、「寂しい」という言葉を吐き出したんだ。
一歩先を行く百々人の瞳は、唇は、吐息は見えない。踏み込んで、一気に距離を詰める。百々人の手を取った。
「帰らなくていい」
百々人が驚いたように息を吸った。百々人がなにかを言う前に、俺は口を開いた。
「一緒にいよう」
振り向いた百々人は泣きそうな顔をしている。指先を絡めながら、困ったように言う。
「それなら……僕らはさ、どこに行くの?」
不安そうな声だった。脆く、揺れていた。
帰ろう。そう言って俺の家に百々人を匿えばいいだけの話だ。それなのに俺は思いついた逃避行を熱に浮かされたように持ち掛ける。
「星でも見に行こうか」
「……ロマンチックだね」
「どこでもいいんだ。百々人が寂しくないのなら。俺といて、その気持ちがなくなるなら」
「ありがとう。……ねぇ、星が見れる場所があるんだ」
そこでなら夜中になったって叱る人はいない。そう笑う。
「……ついてきてくれる?」
「……どこまでだって、お前となら」
ぐい、と百々人が俺の手を引く。俺たちは寄り添うように歩き出した。
***
「このあたりは百々人の家があるな」
「うん。マユミくんは何回か来たことがあるよね」
アマミネくんは知らない道。百々人の言葉に否定も同意も返さずに俺は百々人と並んで歩く。たまたま秀を家に招く機会がないのか俺が許されているだけなのかはわからないが、恋人という関係性が俺に特別を望ませる。
「……僕の家で星が見れるの」
「そうなのか?」
「うん。……そのはずなんだ。一人で見るのは寂しくて、ずっと誰かと……マユミくんと見れたらいいなって、思ってたんだ」
「そうか……そう思ってくれて、嬉しい」
俺たち以外は誰も乗っていないエレベーターでそっと肩を触れ合わせる。俺の微笑みは独占欲のような醜い感情を滲ませていなかっただろうか。百々人は幸せそうな顔をしていて、そこに恥じるような感情はひとつもないように思えた。
百々人が、重たい扉を開けた。当たり前のように中は薄暗い。
「お邪魔します」
「いいのに。誰もいないんだから」
「そうはいかない。百々人に向けての言葉でもある」
相も変わらずからっぽな家だ。事情があるのだとは思うが、どうしてもやるせない気持ちが拭えない。それでも俺は百々人が自分の口から言い出すまでは聞き出さないと決めている。それが一番いいことなのか、わからないままに、そう決めている。
百々人は自室に俺を招き入れ、見慣れない箱を取り出した。箱の側面には絵本にでてきそうな星空が描かれている。
「それは……?」
「家庭用のプラネタリウムだよ。結構前にビンゴ大会の景品でもらったの」
俺たちは箱を開けて球体を取り出す。この球体が光りだすのだとは思うのだが、星空のイメージはあまりうまく結びついてくれない。
「真っ暗じゃないと、星が見えないね」
百々人は立ち上がって部屋のカーテンを閉め切った。光を通さない分厚いカーテンはあっさりと夜に溶けかけた夕日を遮って、暗闇が部屋を覆う。百々人がスイッチを入れた瞬間、暗くなった部屋に突然光が散った。
「これは……」
「……きれいだね」
満天の星空と言うにはあまりに人工的なそれは自然からかけ離れた美しさを持っていた。雄大ではなく、感動的でもない。縁日で見かける宝石を模したアクセサリのような、そういうきらきらとした、チープで心の踊るものだった。
「……安っぽいね」
「否定はしない。だが俺は好きだ」
めちゃくちゃな星空にはシリウスもスピカも見えない。映し出された光は簡単に手のひらで遮れる。そういう、益体もないものを愛でている。
「僕は……どうだろうな。きっとひとりで見たら、寂しくなっちゃうんだと思う。でもね、今はキミが隣にいるから……」
きれい、と。百々人は消え入りそうな声で呟いた。どちらともなく近づいて、そっと触れ合う。少しだけ触れた場所から熱を感じていると、百々人は言う。
「……ねぇ。ぎゅってしてほしいな」
「……ああ」
そっと百々人を横抱きにして膝の上に乗せた。抱きしめながら、のんびりと作り物の星を見る。百々人は頭をこてんと俺に預けて、そっと口にした。
「……ありがとう」
「……なにがだ?」
「星を見ようって、誘ってくれて嬉しかった」
百々人が俺の手を取った。導かれるまま、俺は百々人の頬に触れる。
「困らせるようなこと言ったのに。……一緒にいてくれるって言われて、嬉しかったんだ」
「……寂しいときはいつだって言ってくれ。出来る限りそばにいたい」
「うん……ありがとう」
百々人は俺に抱きついて、内緒話をするようにそっと囁く。
「僕ね、寂しいと思ったことなんてないの」
変になっちゃった。そう百々人は言う。
「アイドルになってからおかしいの。ひとりが、急に寂しくなった」
寂しさを知らない人間がいることを始めて知った。俺はずっとひとりぼっちだったシアタールームのざらざらとした暗闇を思い出す。
「寂しいに、気がついちゃったの」
「……そうか。誰だって……俺だって、寂しいと思うときがある」
これは嘘なのかもしれない。それなのに嘘だとも言い切れない。幼い頃に感じた気持ちと形は違えど、たまに百々人の不在を色濃く感じるときがある。それはきっと、寂しさと呼べるものなのではないだろうか。
「……マユミくんにもそういうときがあるんだね」
「ああ」
「……寂しいときにね、僕が一番に会いたくなるのはマユミくんなんだ。……この寂しさはきっと、マユミくんだけのせいじゃないのにね」
「……そうか」
「うん。……『寂しい』なんて、知りたくなかったな。でもね、寂しいときにマユミくんがいてくれると、信じられないくらい幸せなんだ……」
ふわふわとした、眠ってしまいそうな声色で夢を見るように百々人は言葉を紡ぐ。百々人の髪を撫でながら、ずっと思っていたことを口にした。
「……大学生になったら、一人暮らしをしようと思っている」
「ん? そうなんだ」
「百々人。お前も一緒に暮らさないか」
「え……?」
「百々人の卒業まで待ってもいい。高校に通える距離のところに住むことにして、来年から同棲してもいい。……俺は、お前と一緒にいたい」
キツく抱きしめた百々人の表情が見えなくなる。百々人は言葉が出ないようで、ぴょんとはねた髪の向こうに作り物の星空が見えた。
「急にすまない。困らせた自覚はある。……ただ、ずっと考えていたんだ。そうなればいいと、ずっと思っていた」
どうしようもない願望を打ち明けた俺を、百々人がぎゅっと抱きしめ返してきた。
「……うれしい」
「……それなら、俺も嬉しい」
「うれしくて、どうしていいのかわかんないよ」
ぐず、と鼻をすする音が聞こえる。泣いているのだろうか。涙を拭いたくてからだを離そうとしても、百々人は腕の力を弱めない。
「……だめ。僕いまきっと、すごく情けない顔してる」
「……お互い様だ」
「え?」
「俺はいま、きっと信じられないほど緩んだ顔をしてる」
「……それはちょっと、見たいかも」
密着していたからだを離して見つめ合った。幸せそうに涙を流す百々人は、俺の顔を見てくしゃりと笑う。
「マユミくんもそんな顔するんだね」
「それは……するだろう。ずっと夢だったんだ」
見つめ合う瞳には星空が映っている。百々人は夜空を閉じ込めるようにそっと瞳を閉じた。暗闇で、俺たちはそっとキスをする。
「……早く大人になりたいな」
「……そうだな」
「大人になったらさ、誰にも叱られずに星空を見に行こう?」
ふたりきりで。そう言って百々人は美しく微笑んだ。作り物の星々が、そっとその姿を照らしていた。