ウイーク・エンド・ロードショー 脆いものを美しいと思うことはないけれど、きれいなものに不格好についた傷には少しだけ惹かれる悪癖がある。完璧にまんまるくてピカピカのビー玉に入ったヒビが反射する光のような、そういう不規則なきらめきが好きだった。
だからというわけじゃないけど、やましいところなんて一つもないとでも言うような鋭心先輩を見ているとドキドキしまうし、正しく整った人に寝癖なんかがついていた日には心臓が跳ねた。こんなものは傷でもなんでもないけれど、この人だって綻んでしまうんだって意識してしまってどうしようもない。きっとこの人が損なわれたら悲しい。どっかの誰かにしてみれば、鋭心先輩の綻びは裏切りにすらなってしまうんだろう。
鋭心先輩が好きなのに、きっと彼の傷は愛おしい。苦しくなるに決まっているのに、どうしようもなく惹かれてしまう。ああ、よくないなって、そう思う。きっと浅瀬で遊ぶように関わっていなければならなかったのに、その水底を望まずにはいられない。
「俺が鋭心先輩のことを好きって言ったらどうしますか?」
俺の目的も、鋭心先輩の気持ちも、百々人先輩の望みだって無視するような問いかけをしたのは気が遠くなりそうなほど暑い日だった。アイドル活動を続けるにはノイズにしかならない気持ちを「恋なら仕方ないじゃん」と言い訳して口にした。鋭心先輩はふ、と考えたあと、柔らかく微笑んでこう言った。
「……なら、付き合うか?」
「へ?」
「俺と、秀で。……そういう話ではないのか?」
そういう話もなにも、衝動的な告白にはなんの意味もなかったんだ。それなのに、ぽこりと結果が浮かんできてしまったから俺は固まってしまう。なんともマヌケな声が出た。
「……いいんですか?」
「ああ。問題ない」
「……そう、ですか……」
問題ないってなんだよ。鋭心先輩は俺のことどう思ってるんだよ。ぐるぐると意識を苛む気持ちはあるくせに、それでも俺は特別な名前を持った関係性が嬉しくて、鋭心先輩に抱きついた。俺たち、恋人になれるんだ。
「よろしくな、秀」
俺の頭を撫でながら鋭心先輩は言う。
「よろしくお願いします……」
最後まで、鋭心先輩が俺を抱きしめ返すことはなかった。
***
ふたりきりで映画が見たい。
鋭心先輩の提案は珍しいものではなかった。恋人になってから数カ月は経っているのだから、ふたりきりになるのはなにもおかしいことじゃない。
ただその声色に違和感があった。悲壮、とまでは言わないけれど、心臓を晒すようなためらいを孕んだような、そんな声だ。
「もちろん。何か見たい映画があるんですか?」
ぱっと脳内でいま上映中の映画をリストアップする。ラブロマンス、サスペンス、コメディ、アニメ、ドキュメンタリー。鋭心先輩はどれが見たいんだろうだなんて考えていたら、鋭心先輩は一瞬だけ目を伏せて言った。
「昔の映画なんだ。DVDがあるから俺の家にきてくれ」
一瞬だけ伏せた目の、人より多くも少なくもないまつげが生んだ影が俺の良からぬ気持ちを引きずり出した。なんとなく、ドキドキする。きっといま、触れたことのない深くに手を伸ばしている。
「鋭心先輩が選ぶ映画は全部いいものだから、楽しみです」
どんな映画なんだろう。ざわざわした心を平坦な言葉に変換して口から吐き出した。それなのに先輩はまた影を見せる。ぎゅっと、心臓が掴まれる。
「……面白いかどうかがわからない。それでもいいか?」
「……鋭心先輩が自信なさそうにしてるの、珍しいですね」
見てみなきゃわかりませんよ。そう言って俺はスケジュールアプリを開いて開いている日を伝える。
三日後、シアタールームで。なんだか胸がざわざわとした。
***
鋭心先輩が見せてくれたのは、有り体な映画のパッケージだった。確か俺が小学生くらいのときに流行っていた映画だったはずで、子供向けの映画ではなかったから俺は見たことがない。流行ったわけではないけれどCMは打たれていたし大きな劇場でも上映していた映画だ。思い入れも、嫌悪もない。
「昔の映画ですよね?」
「ああ。今度オーディションがあるんだが、その舞台の監督が昔に作った映画なんだ。何か参考になるかと思ってな」
「そういうことだったんですね。それなら、俺も気がついたことがあったら言います」
いいものにしてほしいから。そう伝えれば、鋭心先輩は少し困ったように眉を下げた。
「秀」
「はい、なんですか」
「俺は……この映画が怖いんだ」
「え……」
あ、よくない。絶対に向けちゃいけない感情が肺を引っ掻いた。弱みを見せてくれることは信頼の証に他ならないはずなのに、どうしようもなく喉が渇く。きらきら、ちかちか、目が眩む。
「えっと……怖い映画なんですか? っていうか、見たことがある……?」
もう一度パッケージを見る。今日初めて見たはずなのに見飽きそうなほどありきたりなパッケージだ。鋭心先輩はなんでこれが怖いんだろう。
「……小さい頃に一度だけ見た。ただ内容は覚えていない」
「覚えてない、んですか?」
「ああ。ただ、この映画のワンシーンが恐ろしかったということだけを覚えているんだ」
トラウマと読んでも差し支えがないのかもしれないと打ち明ける鋭心先輩の言葉にめまいがした。見たこともない、粉々になった鏡に光が乱反射する様を想像する。きっと、きれいだ。触れれば指が裂けて傷がつく。そういう、鋭利な美しさがそこにはある。
「だから、誰かと……秀と見たいんだ。すまない」
「すまなくないです!」
すまなくなんてない。信頼してもらえて、弱いところを晒してもらえて嬉しい。そう伝えたいのにどうしてもやましさが喉を塞ぐ。言葉にできず、ただ手を取った。
「俺がいるから、」
大丈夫。心配ない。怖くなんてない。全部口からは出てこなかった。必死過ぎたのかもしれない。鋭心先輩が笑う。
「ありがとう。……小さい頃の話だ。いまならもう恐ろしくはないだろう。第一、何が恐ろしかったのかも覚えていないんだ」
大丈夫。俺が言えなかった言葉を鋭心先輩が口にした。まるで俺を宥めるような声のトーンだった。大丈夫じゃないのは鋭心先輩かもしれないのに、クリームソーダにそっくりな色の目を細めてそっと微笑んだ。
***
ぼやりとした暗闇を四角く切り取ってモニターが物語を映している。俺はどうしても集中できず、何度も何度も視線を鋭心先輩に向ける。
鋭心先輩はずっとまっすぐに画面を見ていたし、映画自体はよくあるような恋愛映画だった。ただ雰囲気は独特で、どこかが鋭心先輩の脆い琴線に触れたとしてもおかしくないんだろう。気味が悪いとまではいかないけれど、なんとなしに居心地が悪くなるような、そういう作品だった。
淀みなく映画は続く。しばらく眺めていたけれど、ふと息が詰まる瞬間があった。
主人公の青年が歯の欠けた老婆に手品を見せられるシーンだ。会話がいまいち噛み合わない老婆は主人公が大切に持っていたペンダントを手にとって、握る。うろたえる主人公に見せつけるように開いた手にペンダントはなく、代わりにスイカの種がびっしりと付いていた。
『え……?』
驚くこともできずに呆然と呟く青年から目を逸らして俺は鋭心先輩を見た。相変わらず変化のない表情がそこにはあって、先輩は何にも怯えていないし、まして傷ついてもいない。ただ俺や誰かの望むように、まっすぐとそこにあった。
きっといまのシーンが鋭心先輩のトラウマなんじゃないか。そう思う。だけどそれを言い出すことは出来ないんだと、自分自身で気がついていた。
鋭心先輩が言い出さなかったら、きっと俺は「この映画のどこが怖かったんですか?」ってはぐらかすんだろう。彼が怖いものなどどこにもなかったと言ったのなら、きっとそれが一番いい。わざわざ言う必要はない。わざわざ、彼に傷をつけることはない。そんなことをぐるぐると考えているうちに、映画はいつの間にか終わっていた。
「……どうでしたか?」
怖くないならそれでいい。怖かったなら、抱きしめてあげたかった。そうやって、恋人の顔をして、不条理な傷を愛でてしまいたい。
「ん……おそらく手品のシーンが怖かったんだろうな。だが、記憶ほど恐ろしいシーンはなかった」
「そう、ですか……」
傷はもう古びていた。かさぶたを剥ぎ取るような真似はマナー違反だ。拍子抜けの安堵に後押しされて、俺は鋭心先輩の肩に頭を乗せる。
「……もう怖くない、ですか」
「ああ。秀は怖かったか?」
ここで俺があのシーンがどれだけ恐ろしかったのかを説けば、先輩はまた囚われてしまうんだろうか。それでも俺はあのシーン別に怖くなかったし、嘘を吐くのは反則だ。
本当に俺が心底あのシーンを怖がれたらよかったのかもしれない。そうやって俺が傷ついたら、きっと鋭心先輩は似たような傷を抱えてくれる。いや、ちょっと違うかな。俺を傷つけたことを、うんと後悔するのかも。それは嫌だったし、見たくない。そういう影が落ちるような不幸を望んでいるわけじゃない。そもそも、俺は鋭心先輩のことを傷つけたいわけじゃない。真逆だ。守ってあげたい。幸せにしたい。傷つかないように騎士になることも厭わない。俺の悪徳は普段は息を潜めていて、甘い匂いがすると顔を出すだけなんだ。
知りたいだけ、だったらいいな。この人の弱いところも強いところも、全部。
「……俺はあのドラマのOPが怖いんですよ」
「ん?」
「卵の中に飛行機の模型が入ってる映像。あれ、なんか気持ち悪くて」
くだらないことだ。それに、トラウマになるほどおそろしいわけじゃない。ただ、なんとなく不愉快で引っかかるだけ。それでも、何かを差し出したい。
「くだらないでしょ? でも、そういうの先輩からも聞きたい。どんなにくだらなくてもいいから、先輩のことが知りたい」
「……そうか」
「教えて、先輩のこと、なんでも」
なんでも知りたい。本当は、先輩の知らない先輩のことも、全部。でも知ったって、きっと先輩には教えてあげないんだ。
「……俺は果物が好きなんだ。らしくないし、子供のようで少し恥ずかしいんだが……」
聞けた話は知っていた話だった。知ってるって言ってもよかったけど、それを発見したのは百々人先輩だから言いたくなかった。
「あまり驚いていないな」
「あ、知ってたんで……」
反射的に本当を口にしてしまった。鋭心先輩は少しだけ照れたように言う。
「そうか。バレていたのか……」
気がついたの、百々人先輩なんですよ。あー、言いたくないなぁ。言いたくないから言わなかった。悔しいんだから仕方がない。恋だから、嫉妬くらい、悔しがるくらい勝手にさせてくれ。
「……俺、もっと鋭心先輩のこと理解しますから」
「ん? ああ」
「絶対。この世の誰よりも」
この感情は知りたいだなんて穏やかなものじゃない。きっと俺はこの人のすべてを暴いてしまいたい。加虐にも似た暴力的な感情だ。そんなの、ダメだ。
それなのに先輩は言うんだ。
「……秀にはなんでも理解してほしい」
「え……」
「……だからこそ、知られたくないことがある。矛盾だらけだ」
矛盾だなんて鋭心先輩のイメージからはかけ離れた単語が他ならない鋭心先輩の口からこぼれた。
ああ、この人にも知られたくない秘密や傷があるんだ。きっと俺が愛でようとしている傷は表面的なものにすぎなくて、この人だって深く傷ついたりもする。こんなにもまっすぐで正しい人にだって隠し事がある。俺にだってあるけど、なんだかびっくりした。
理解したい。暴いてしまいたい。隣合わせの衝動は鋭心先輩のことが好きだから生まれるし、彼に恋をしているから加速する。でも、愛しているって言いたいから我慢しなくちゃ。
恋だけど、愛になれたらいいって思うから。
「……じゃあ、鋭心先輩が言ってくれるまで待ってますね。いつか教えてください」
「いつか言う。すべて」
悲しそうな声だった。いいよ、そんなに悲しいなら、ずっと胸に秘めていたっていい。
「……俺も言ってないこと、言いたくないことがありますよ」
なんでアイドルやってるのかとか、そういうの。俺たち、みんなしてなんにも知らない。
「……だから、知ってほしいことをたくさん喋ってほしいです。ねぇ、俺は鋭心先輩の好きな映画が知りたい」
それで、俺の好きな音楽の話も聞いてほしい。そう笑えば鋭心先輩が困ったような顔をする。
「……その話はきっと長くなる」
「そうなんですか? いくら長くたって、」
「朝まで喋れる」
「朝まで!?」
鋭心先輩が笑う。なんだか、傷ついたように笑う。
「俺は……きっと映画の話ならいくらだってできるんだ。これは誰も知らない。いま、お前だけが知った」
これは綻びなんだろうか。ただ、無性に愛おしいと思う。朝までこの人の声を聞いていたいなって、そう思った。
「秀のことも教えてくれ。俺の知らないことで、お前が知ってほしいことを」
そんなのたくさんありますよ。でも、これだけはわかっててほしい。
「俺は鋭心先輩が好きです」
「それは聞いたことがある」
「でも知らないことです。俺は鋭心先輩が思ってるよりも、鋭心先輩のことが好きなんだから」
どうやって伝えたらいいんだろう。愛の言葉を並べてみようか。映画みたいに唇でも奪ってしまおうか。それとも、もっと先の衝動だって。
俺が精一杯悩んでいるのに鋭心先輩は「それなら、わからせてくれ」とからだを預けてくるものだから、困ってしまってどうしようもない。この衝動はやっぱり愛じゃなくて恋で、俺は情けないほどにこの人が好きだった。