終わりの前に手を引いて げほ、とむせて真っ赤な花を吐いた時、僕の脳裏によぎったのはこの恋を終わらせられるかもしれないという希望にも似た絶望だった。
なんだか難しい名前のついている、俗称で呼ばれる方がよっぽど多いこの病は「花吐き病」と言われていた。片思いをしている人間が、花を吐くっていう病気。
花吐き病を治すにはその恋を成就させるしかない。それを知った時、僕は叶わぬ恋を持て余しながら際限なく花を吐き続ける老婆を想像した。水分を失った唇から溢れるみずみずしい花を受け止める皺だらけの指先を想像して、そのイメージを打ち消す。そんな一生涯の恋、存在するわけがない。
恋には終わりがあると思っている。ただ、それを選べるのは自分自身のはずだ。そういう、祈りにも似た心を奪うのが、最近流行りだした花吐き病の変異株だった。
変異株にかかった人間は、最初に真っ赤なバラの花を吐く。その次は黄色いチューリップ。その次は桃色の滲んだ百合。その次は真紫の桜。そうして、決まった順番で決まった花を吐く。それが通常の花吐き病との見分け方。
変異株が変異株たる所以は吐く花だけではない。変異株には結末があって、明確なタイムリミットがある。変異株の花吐き病を患った人間は、66の花を決まった順番で吐いたあと三日間の眠りにつく。そうして、目覚めたときには恋心のすべてを忘れてしまうのだ。
二度目、僕は黄色いチューリップを吐いた。通常の花吐き病なら一度目に吐いた花と同じ花を吐くはずだ。つまり僕は変異株に疾患している。僕の恋はあと64の花を吐ききれば終わる。終わってしまう。終わらせることができる。
恋について考えるとき、僕は何度やってもマユミくんを思い浮かべてしまう。正しいくせに優しすぎるところが好きだ。凛と伸びた背筋が好きだ。愚直とも言えるほどにまっすぐな視線が好きだ。僕たちを呼ぶ普段より柔らかい声が好きだ。おいしそうに果物を食べる口元も、その無邪気なところに無自覚なところも好きだ。それらすべてを忘れて、こんなに大切なことを手放さなければならないのはつらい。でも恋の成就を望むことが難しいくらい、僕は僕という存在に対して臆病だった。
忘れてしまえるなら都合がいいのかもしれない。マユミくんに迷惑はかけたくなかったし、僕はアイドルとして成功したい。こんな恋、考えれば考えるほど邪魔でしかない。そうやって、隠せるだけこの気持ちと病を隠していた。
けほ、と毒のような真紫に染まった桜を吐く。恋を忘れるまでのカウントダウン。いいこと、のはずだ。それなのに、なんでこんなに泣いてしまいたくなるんだろう。「いやだ、」と言葉を吐きだす。向き合った気持ちが真実だと知る。ああ、どうしようもないほどに、僕はマユミくんが好きなんだ。
花吐き病はコントロールできるようなものじゃないから、僕はぴぃちゃんの前で真っ青な彼岸花を吐いた。ああ、と僕が泣き出す前に、ぴぃちゃんは僕の背中をさすってくれた。そうして、僕が花を吐き終えるまで待ってから、温かい紅茶をいれてくれた。なにも言えない僕に、ゆっくりとぴぃちゃんが言う。
「きれいな色の花ですね」
「……うん。……これ、9個目の花なんだ……」
縋るように、僕はぴぃちゃんの腕を掴む。
「だから、大丈夫」
アイドル活動の邪魔になる気持ちはもうすぐ消えます。だから、僕を『アイドル・花園百々人』でいさせてください。声にならなかった願望を全部拾い上げて、ぴぃちゃんは僕を安心させるように笑う。
「うちの事務所は恋愛自由ですよ」
「……ほんとに?」
「ええ。だから、百々人さんが気に病むようなことはなんにもありません」
紅茶が少しずつ冷めていく。僕は震える声を一生懸命に叱咤して、懺悔のように口にする。
「変異株なんだ」
「……そのようですね」
「だから、忘れられるの。大丈夫」
「百々人さん、無理に忘れる必要は……」
「好きになっちゃいけない人を好きになったの」
だから忘れるよ。涙で喉がつかえた。背中をぽんぽんと優しく叩くぴぃちゃんの手は温かい。「聞いてもいいことですか?」とぴぃちゃんは僕に問う。僕はぴぃちゃんにいくつかの隠し事があって、それがひとつ増えただけだ。
「……言えない」
「そうですか。……大丈夫ですよ。手伝えることがあったら、何でも言ってください」
ぴぃちゃんは優しい。なんでも任せてしまいたくなる。だけどマユミくんのことを言えない以上、僕が頼れるのは『プロデューサー』としての彼だけだ。
「……じゃあ、お仕事はどうしたらいい? アイドルが花なんて吐いていいの?」
「いいんですよ。アイドルだって恋くらいします」
「なら、僕はファンにちゃんと伝えたい」
今度こそ、ちゃんと笑えたはずだった。
「変異株だって。ちゃんと、忘れるよって」
僕は笑えたはずだ。だから、ぴぃちゃんにも笑ってほしかったのに。
マユミくんやアマミネくんに打ち明ける前に、僕はすぐさまSNSで自らが花吐き病であること、それが変異株であることを真っ青な彼岸花の写真を付けて公表した。ぴぃちゃんは苦しそうな顔をしながらそれを見守ってくれた。
『僕はアイドルだから、忘れようと思う』
僕の言葉にはたくさんのリプライがついた。少なくとも僕の目に見える範囲の人はみんなが恋を諦めることはないと言ってくれる。
『百々人くんの恋を応援してます!』
『思いを伝えなくていいの?』
『百々人くんの幸せを願っています』
『きっとうまくいくから頑張って!』
「……きっとうまくいくから頑張って……?」
無責任な言葉に、怒りではなく吐き気がした。うまくいくわけがない。うまくいったとして、じゃあ僕はどうしたらいいっていうんだ。
僕がひっそりと忘れられれば、それは僕だけの問題でいられるんだ。マユミくんに知られてしまったら、その瞬間これはマユミくんの問題にも、ユニットの問題にもなる。どう考えたって僕がこの気持ちを忘れるほうがいい。いまは気持ちが手元にあるからつらいんだ。忘れてしまえば僕はこんな気持ちを知る前に戻れるんだ。そうやってマユミくんの隣で、三人の輪の中で笑えるほうが、絶対に幸福だ。
「……百々人さん。大丈夫ですか?」
よっぽど酷い顔をしていたんだろうか。少なくともファンのみんなに──いや、こんな顔は誰にだって見せない方がいい。
「……大丈夫」
冷めきった紅茶を飲み干す。花の湿った感触で重くなっていた喉が少しだけスッキリとした。
「コメント」
「え?」
「みんな優しいね。恋しててもいいって、みんな言ってる」
見えている分だけだ。ちゃんとわかってる。きっと僕の恋を望まない人はいて、そういう人は表に出てこないだけ。それを知ってるのにぴぃちゃんは僕に笑いかける。
「……百々人さんが決めたことなら、きっとみんな納得してくれますよ」
「……ぴぃちゃんも? ぴぃちゃんも僕が決めたこと、応援してくれる?」
「私は応援しますよ。それでも……」
ああ、聞きたくないな。それでも僕は聞き返す。
「……それでも?」
「私の気持ちを言うなら……私は百々人さんには諦めてほしくないです」
「……そっか」
スマホを閉じると同時に、僕はけほ、と素朴なたんぽぽを吐き出す。大丈夫、あと少し。だから早くこの恋から僕を開放して。
「ごめんね、ぴぃちゃん」
からっぽになったマグカップを手に、逃げるように給湯室へと向かった。なんだか通知音がうるさい。いろんな人が僕にメッセージを送ってきていた。
「……うるさいなぁ」
ありがとう。でもね、放っといてほしかった。
***
アマミネくんは真っ先にメッセージを送ってきたし、適当にスタンプを返していたらコール音を鳴らしてきた。メッセージには勢いがあったから怯みながら通話を繋げば、アマミネくんはガラス細工に触れるような繊細な声で「……大丈夫ですか?」とだけ聞いてきた。
大丈夫。なんとも自分に言い聞かせた言葉を返す。アマミネくんはひとつも納得なんてせずにヒーローみたいなことを言う。
『俺にできることがあったら何でも言ってください』
「……じゃあ、放っといて」
『できれば、それ以外で』
「あはは、なにそれ」
それ以外に望みはなかった。少しだけ雑談を挟んで通話を切ってから、アマミネくんは花吐き病の話を一回もしていない。
今日はアマミネくんがいないけど、なんてことはない。だってアマミネくんの不在を同じくらいマユミくんがいないときはあるし、僕がいないときもある。今日はアマミネくんがいない日。それだけ。
誰がいようがいまいが、僕は花を吐く。これは36個目の花。忘れる日が怖くって、だけどそれに縋っていて、僕は律儀に数えている。
「げほ……ぇ……」
僕は喉を通るわけがないほど大きなダリアを吐く。不思議だなぁ、だなんて思っていたら、向かいのソファーに座っていたマユミくんが僕の隣に来て背中にそっと手をおいた。
「大丈夫か? 百々人」
「……ん、大丈夫。ありがとう」
そう返した瞬間に堪えきれないほどの嘔吐感が迫り上がる。げほげほとむせた僕はたくさんの花を吐いた。
「百々人!」
「っぇ……げほ、うう、だいじょ、っ……」
「すまない。無理して喋らなくていい」
優しい手が背中を優しくさすってくれる。僕だけのための声が寄り添ってくれる。甘くて、苦くて、幸せだ。
こういうの全部、忘れちゃうのかな。忘れるのは恋心だけだっけ。じゃあ記憶は残るのかな。まるがつばつにち、マユミくんが背中をさすってくれました、だなんて。
きっと事実は覚えている。でも、こんなに心が動いたことは忘れちゃうんだ。
「……百々人」
マユミくんの手が僕の頭を撫でる。その指先が僕の頬を拭って、僕は初めて自分が泣いていたことを知る。
「……あれ?」
「えづいたからなんだと、思う。だが……」
気がついてしまったら涙が止まらなかった。嘘を吐くなら今なのに、僕の心は、喉は、涙は、悲しいという気持ちに支配されていた。
「忘れることが、つらいんじゃないか?」
そうだよって、思い知ったばかりの気持ちを吐き出せたらどれだけよかったんだろう。忘れたくない。叶わない恋でも、ずっとキミを想っていたい。キミからもらったものを失いたくない。キミを好きなまま、キミの隣にいたいだけなのに。
僕の沈黙は肯定と否定のどちらに見えたんだろう。マユミくんが一生懸命に言葉を探しているのがわかる。
「……俺は、百々人が苦しいんじゃないかと思う」
「……うん」
「好きな人からもらった気持ちはかけがえのないものだろう。それを受け取った心ごと失くすのは……つらいと思う」
本当に苦しそうにマユミくんは言った。マユミくんも忘れたくない気持ちがあるんだろうか。どうしても忘れたくない恋をしているんだろうか。
「マユミくんはそう思うの?」
「ああ」
「そっか……」
もう一度、僕はきれいなダリアを吐く。神様、はやく、はやく、66個の花を吐かせて。
「……自分を好きになってだなんて、僕は言えないよ。そんなこと、願えない」
花吐き病が治る条件はひとつだ。その恋の成就、ただそれだけ。
「好きな人に自分を好きになってほしいと願うのは、間違っていないだろう」
「キミも?」
「そうだ」
「キミも、好きになってほしい人がいる?」
「ああ。……そんな資格はないのにな」
資格が無いとマユミくんは言う。それは僕と大差のない臆病に思えた。
「……俺は、百々人の恋を応援したい」
たくさん聞いた言葉だ。だけど、それはマユミくんが言うだけで鋭い刃になって僕の胸を貫いた。
「どうして」
「大切な仲間だ。幸せになってほしいし……成就しなくても、悔いを残してほしくない」
悔いってなんだろうとか幸せってなんだろうとか、引っかかるところはたくさんあった。でも、どうしても、僕はたった一言が肺に刺さって抜けてくれない。
「仲間……」
「ん? ああ」
「キミにとって僕は、仲間なんだね」
口にした瞬間に涙が溢れた。喉がつかえて、肺が痙攣する。耐えようとキツく閉じた口が酸素を求めて開いた瞬間、僕は自分でも信じられないほど大きな声で泣き出した。
しばらく聞き分けのない子供のように泣いていた。この年になった人間の泣き方じゃなかったものだから、マユミくんはうろたえながら僕の背中を必死にさする。泣いて、泣いて、マユミくんの差し出したハンカチをぐしょぐしょにして、それでも僕はまだ落ち着くことができない。
「うぅ……っく……」
僕はキミが好き。キミは誰が好きなんだろう。でも、もしも許されるなら、成就することのない恋でも存在した証がほしい。
「うぅ……まゆみく……ひっく……、あのね、きいて……」
「ああ。ゆっくりでいい。大丈夫だ」
なんにも大丈夫なんかじゃないよ。僕は今からキミにとんでもない迷惑をかけるんだ。許さなくていいよ。ただ、勝手に思いを伝えて勝手に忘れていく僕を許して。
「……ぼく、まゆみくん……が、すき」
「え……」
「ごめっ……ごめん、なさっ……っく……う……ごめんな……さ……っ」
なにかが壊れちゃったみたいに、涙と嗚咽が止められない。でも聞いて、僕の罪を、願いを、絶望を。
「ぼくはわすれちゃうけど」
息が途絶える隙間を割くように、僕は言葉を紡ぐ。
「キミだけはおぼえていて」
溺れた人間がするように、強い力でマユミくんの腕を掴んだ。そのまま呼吸を整える。マユミくんはただ僕を見守っている。
「……僕がキミを愛した証明に、なってください」
言いたいことは全部だった。なんだかとても疲れてしまって僕はソファに沈み込みそうになる。そのからだを、そっとマユミくんが抱きとめた。
「百々人も忘れないでくれ」
「そんな酷いこと言わないで。僕は花を吐ききって、眠って、キミのことを忘れるの」
「俺が忘れさせない」
僕はマユミくんの胸の中にいた。キツく抱きしめられて、息が詰まるけれど苦しいほどにあたたかい。
「こういうこと、しないで。全部忘れちゃうんだから」
「お前が俺を好きなら遠慮はしない。俺は百々人が好きだ」
呆然と開いた僕の口から花は出てこない。ただ、僕の止まりそうな呼吸が細く流れるだけだ。
「……同情だ」
「違う」
「だって、違う。キミは……」
「どうしたら信じてくれるんだ?」
マユミくんは腕の中から僕を開放して、その若葉に似た瞳で僕をじっと見つめた。恋の証明なんて僕にはわからなけれど、まるで前世からの決まりごとだったみたいに目を閉じる。数秒の沈黙があって、くちびるに柔らかいものが触れた。
「……マユミくん」
「信じてくれるか?」
返事の代わりに僕はマユミくんの背中に腕を回して抱きしめる。言い訳のように、マユミくんはぽつぽつと喋り始めた。
「……すまない。最初はよくないことを思っていたんだ。百々人が恋を忘れてしまえば、俺にもチャンスはあるのかと」
そういうの、言わなくていいのに。だけど律儀なマユミくんは口にする。
「だが、それは悪徳だ。だから応援することにしたんだ……好きな人の幸せを、願っていたいから」
「うん……」
「病はなくとも忘れるつもりだった。……そのことが、お前を苦しめていたんだな」
すまなかった。そう言ってマユミくんは僕を抱きしめる手に力を込めた。
「……好きだ。百々人」
「うん。僕もマユミくんが好き」
僕はマユミくんの肩に顔をうずめる。じわじわと、目元が熱くなるのを感じる。
「……泣いちゃうかも。マユミくんの服、ぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
「泣くことはないだろう。俺たちは両思いなんだ」
「嬉しくて泣いちゃうの。あとね、安心して……気が抜けちゃった」
きっとまた僕は何も言えないくらい泣いてしまう。だから、その前に伝えなきゃ。
「……僕はキミへの恋を覚えてていいんだね」
嬉しい。そう伝えたのをきっかけにしたように、僕はまた子供みたいに泣いてしまった。