繭の中 夢を見た。悪夢と言って差し支えないだろう。もう幾度となく見ている夢なので、いつもの夢と言っていい。
内容はシンプルで、意味の聞き取れない罵詈雑言を浴びせられるというものだった。「眉見」も「鋭心」も「会長」も、一言も自分を表す言葉など読み取れないくせに悪意は俺に向けられているとわかる。日本語なのかも怪しい怒声はひどいノイズに覆われているが、おそらくは同世代の男のものだ。ただ目の前で俺に敵意を剥き出しにしている男の顔は黒のマジックで塗りつぶしたような影がこびりついていて表情がわからない。いや、誰のものかもわからなかった。
夢というのは眠りが浅いときに見ると聞いている。大抵は真夜中に、酷いときには真夜中と明け方に目が覚めた。台所に行って水を一杯飲むまで生きた心地がせず、再度眠るのには労力がいる。俺はあっという間に寝不足になった。
それでも生徒会の仕事は変わらずにある。文化祭が近い今は仕事が増えたと言ってもいいだろう。三年の先輩は受験で忙しく、生徒会は俺を中心とした二年生を主体にまわっていた。
文化祭の準備を主にするのは文化祭実行委員だった。しかしそれは俺があちらの雑務を手伝わない理由にはならない。俺は生徒が借りに来るペンキでジャージをべったりと汚しながら、主に備品の貸出を手伝っていた。
生徒会としての業務もある。文化祭実行委員との話し合いは主な仕事で、いろいろな人間と関わることが増えたがうまくやっていると思う。少なくとも俺と会話をして不快感をあらわにする人間はいない。だからうまくいっている、はずだ。それなのに、なぜか違和感を覚える日々が続く。ちょうど喉仏のあたりに粗悪なコーンスープがべっとりと張り付いたような違和感だ。それでもやるべきことはいつだって目の前にあって、やり遂げるべきことも変わらない。
毎日、両手をペンキまみれにしながら備品を貸出した。総務の男が足りなくなったペンキを補充しながら「アンタがそんな仕事をするなんて似合わない」と笑う。
「生徒会にそういうイメージがあるのか?」
ふと、気になった。とっつきにくいイメージがあるというのなら、それは改善すべき点かもしれない。
「生徒会ってか……アンタにそういうイメージがあるって感じ」
人好きのする笑顔だった。頬の半分くらいに真っ黒いペンキがついていた。
ここ数ヶ月、常に熱狂と活気の中にいたように思う。確実に俺はひとつの輪の中にいた。
文化祭は大成功で幕を閉じた。
後夜祭などをやる学校ではないが、普段は残らないような生徒までが帰らずに夕闇に制服を溶け込ませながら祭りのあとを彩っていた。物悲しさを熱狂で包むようにして、みんなが終わりから逃げるようにして笑い合っている。俺はそれをたったひとりで窓辺から見つめていた。
俺がいる部屋は端的に言えば倉庫だ。正確に言うなら、ここは文化祭に使用するペンキなどの備品が収納されている美術室の倉庫だ。意味もなくひとりを選び、その寄る辺にこの場所を選んだ。埃とペンキと油性絵の具の匂いで肺を満たしながら、ガラス一枚を隔てて校庭を見つめる。ぼやりと尖っていく意識に、男の声がした。
「あれ……会長? え、なんでこんなところにいるんですか?」
ふと視線をやれば、文化祭実行委員で総務を担当している男がいた。変わらない人好きのする笑顔を浮かべて、両手いっぱいにペンキを持っている。おそらく、彼は正当な用事があってこの部屋にやってきたんだろう。男は少しだけ歩を進めて、遠くの太陽を見るように窓の外を見た。
なんだか気になって「祭りはお前の目から見てどうだった」と問えば、彼は喜々として話し始める。それを聞いていると、俺の胸の中にもやもやとした違和感が広がっていった。その霧に飲まれるように、俺は声を出して彼の話を妨げた。
「おい」
「はい?」
冷静に考えれば失礼なことだ。数ヶ月前に出会って人間にやることではない。それなのに、なぜだろう。言葉を止めることができなかった。
「その……」
「……会長がもごもごしてんの、珍しいっすね」
「……すまない」
言うべきことが見つからない。それなのに、言わなければならない何かがあるのだという焦燥感だけがある。
「……いや、忘れてくれ。気のせいだ」
数十秒の沈黙に耐えきれずに俺は彼を開放する。それなのに、彼は言った。
「なんだ……思い出してくれたのかと思ったんだけどな」
「……え?」
すっと、彼からは笑顔が消えていた。
「お前、なにを、」
「俺からはなんにも言えないっすよ。そういう決まりなんだもん」
別れの言葉をひとつも言わずに男は立ち去った。
数分はぼんやりしていただろうか。ふと視線を向けた校庭にいる人間の顔は、当たり前だけれども遠すぎてわからなかった。
夢を見た。いつもの悪夢だ。
怒気を隠しもしない罵詈雑言。だが、ノイズがなくなっていて声が鮮明に聞き取れた。その声に、覚えがある。
「……ああ、そうか」
目の前の男の、マジックで塗りつぶしたような影が晴れていく。はっきりと見えたその顔は、ここ数ヶ月間一緒に文化祭を作り上げた、人好きのする笑顔が似合う男の顔だった。
「そうか……お前の声に覚えがあったんだな……」
違う。違うだろう。俺の中に、俺を糾弾する声がする。
「……俺は……自分が殴った人間の顔も覚えていないんだな……」
数ヶ月も顔を合わせていたのに、まったく思い出せなかった。それでもあの日俺を罵った声や悲鳴はおぼろげに覚えていたんだろう。声を聞いて、夢に見た。夢の中で顔を塗りつぶして、何も思い出すこともなく。
夢の中の俺は口を開く。一切の音も生まれず、夢が終わる。
何をしたらいいのか、何がしたいのかもわからないまま、文化祭実行委員と行う最後の会議の日が来てしまった。
会議が始まる少し前、俺は教室を出た彼に声をかける。すると彼は困ったように口にした。
「……蒸し返さないでほしいんだよね。そういう決まりだから」
決まり、と彼はあの日聞いた言葉をもう一度言った。
「決まり……?」
「やっぱり知らないよね」
彼はいつもの親しみやすい笑顔で俺に告げる。
「アンタ、まだ親に守られてんだよ」
冷たい氷の刃が突きつけられたように心臓が凍る。息が止まった俺に彼は言う。「本当は関わっちゃいけなかった」と。
「なかったことにしたときに決まってるんだ。俺はもうアンタに関わらない……関われないんだ」
すっと、笑顔が消えた。温度の低い瞳に俺が映っている。
「だから……もう勘弁して」
反省してるから。そう彼は言う。それは俺が言うべき言葉だろうに。
「アンタが生徒会にいるのに文化祭に関わろうとした俺が悪い。それでいいだろ」
思い出を作ろうとしてごめん。彼はそう言って笑った。見たことのない、弱々しい笑顔だった。
夢を見た。悪夢だった。きっとこの夢を見るのは最後だとわかっていた。次に彼の夢を見るときは、きっと夢のカタチが変わっている。
俺を責める声は聞こえない。代わりに、聞いたことのない彼の泣き声が聞こえている。それでも言葉には覚えがある。「許して、」と泣いている。
悪かった、償いをさせてくれ、泣かないで、言わなくてはならないことはいくらでもあるのに声が出ない。声が出せないから、手を伸ばす。
俺の手は、真っ赤なペンキで醜悪に汚れていた。