ジェリィ・サファイア 二十歳になるとお酒が飲める。タバコも吸えるけど、昨今の喫煙者は肩身が狭いようで二十歳を越えて勧められるのは大抵がお酒だった。
僕はもうお酒が飲める。アマミネくんは飲めない。マユミくんは一足先に飲んでいるけど、酒に溺れることはできていない。そんなマユミくんは定期的に大量のアルコールを浴びて帰ってくる。
なんでも懇意にしている映画監督がたいそうな酒好きらしい。それが単なるアルコールを用いたハラスメントならばぴぃちゃんが黙っていないだろうけど、マユミくんはその監督とだけはどうしても飲みたいと言って譲らない。彼の語る映画論に惚れ込んでいるマユミくんはアルコールで彼が饒舌になることを望んでいる。別に一緒になって飲む必要はないだろうに、それはマユミくんの性格が良しとしないんだろう。
だから、じゃないけど。今日のマユミくんは酔っていた。
二十歳になるとお酒が飲める。それだけ。僕にとってはそんな節目よりも高校卒業の瞬間のほうがなによりも嬉しくて重要だった。高校を卒業したら、こうやってマユミくんと暮らすって決まっていたから。だから制服を脱いだ日は、マユミくんと恋人になった日と同じくらいかそれ以上に嬉しかったのを覚えてる。
鮮烈な喜びに上書きされていて、僕は自分の二十歳という年齢に特に思い入れはない。ただ、僕が二十歳だってことはマユミくんが二十一歳ってことで、つまりマユミくんは当たり前にお酒が飲めるってこと。もっとも飲めるっていうのは法律が許すってだけの話で、マユミくんの肉体がいきなりアルコールに順応するってことじゃない。マユミくんは僕よりもお酒が弱い。
「ももひと、」
「どうしたの?」
ソファーに座り、愛しい人の頭をふとももに乗せる。こんな男の柔らかくもない膝にマユミくんが頭を預けるのは酔っている時だけだ。
「ももひとの耳はうすいな」
「ふふ、なにそれ」
寝転がったマユミくんの指先が僕の耳たぶをぷにぷにとつまむ。くすぐったい、と呟いて僕も同じようにマユミくんの耳を弄る。
「ピアスをつけているな」
「そうだね。ずっとつけてるよ」
「よくない」
よくない、ってマユミくんはもう一度呟いた。「親からもらった体だから?」と聞いてみたけれど、マユミくんは「違う」とだけ答えてイタズラに動いていた指先を僕の首筋にと滑らせた。
「俺はピアスをつけない」
「うん」
「つけられないんだ」
「そりゃ、耳に穴があいてないもんね」
「氷に穴が空くのはなんでだろうな」
いきなり話が飛んでいく。慣れている僕はそっと緋色の前髪をかき上げてその額にキスをした。そのあいだにも、マユミくんはよくわからないことを言う。
「砕けるなら、スープにいれてもいいのに」
多分マユミくんって帰ってきた時はそこまで酔っていないんだ。いや、けっこう酔っているんだけど、一応一人で帰って来れるほどに理性はある。
でもこうやって、二人きりになると自分で自分をアルコールに沈めるみたいに支離滅裂なことを言う。酔ったふり、ってわけじゃないんだろうけど、ある種の自己暗示に近いんだろう。だからこういうめちゃくちゃな言動をするとどんどん酔いが回ってきて、自分がなにを言っているか本当にわからなくなっていくんだと思う。それはなんだか、僕がセックスの時にわざと声を出して自分を追い立てていく行為に似ていた。
そして、自覚してる。僕はマユミくんのそれをひどく好んでいる。
「ひどい男だ」
「ひどいね。もうあの監督と飲むのをやめればいいのに」
「ちがう、ももひとがひどい」
耳が薄い、と言いながらマユミくんは無関係な僕の指を取ってやわく歯を立てた。耳が薄いとひどいんだろうか。僕は人の耳が厚いのか薄いのかだなんて気にしたこともない。
「僕の耳が薄いとひどい?」
「耳が薄いとひどいのか?」
「僕が聞いてるの」
本当はうっすらわかってる。いや、望んでる。その顔が幼く歪むのを。
「朝はつけていなかった」
そういってマユミくんは僕の耳を──そこにくっついているピアスを強く掴んだ。その痛みに背筋がぞくぞくするのを感じる。やっぱり、気がついていたんだね。
「いたい、いたいよ。ねぇ、マユミくん」
「俺はこれがきらいなんだ」
「……ふふ、そうだったね」
でも、痛いよ。そう言えばマユミくんは素直に指を遠ざけた。顔を背けて、僕の腹にぐりぐりと押し付ける。
「今日だけだ」
「今日だけじゃないでしょ?」
「いつもは気にしない」
「知ってるよ。酔っているときだけだもんね」
「おまえだって、酔ってる時にだけつける」
そうだよ。だって、こうなった君がどうしようもなくかわいいから。
「お気に入りだもん。宝石みたいにきれいで真っ青な……アマミネくんの色をした、このピアス」
マユミくんの頭が僕のお腹から離れて、頭突きになって帰ってくる。「うー、」にも「ぐー、」にもなりきれない唸り声が聞こえるものだから、僕は思わず笑ってしまう。
「おれのピアスは?」
「いつもつけてるよ。見てるでしょ?」
キミからもらった大切なピアスだもん。そう言えばマユミくんはまた不満げに呻いた。
「よるはピアスを外しているだろう」
「うん。ピアスって四六時中つけとくものじゃないし」
「なのに、なんでいまは……」
「ナイショ」
気付いて言ってるのか本当に気がつかないのかはちょっとわからない。キミが酔ってる時にだけピアスひとつに嫉妬してるって自覚してくれれば、こんなの簡単にわかるのに。
「なんでその色のピアスを買ったんだ……」
だってキミが子供みたいだから。知ってるんだよ、キミがかわいらしい独占欲で僕に真っ赤なリンゴみたいな色をしたアクセサリーを贈ったことを。
「どうしてだろうね? ねぇ、本当にわからない?」
「わからない」
嘘なのかな。本当なのかな。僕にわかるのは、キミが酔っている自分のことを嫌いじゃないってことくらい。
「わからない……酔って、いるから」
「そうだね。キミは酔ってるんだよ」
「ああ。だから仕方ない。仕方ないだろう……」
そういってマユミくんはくったりしてしまった。これはきっと寝てしまうんだろう。触れた手はぽかぽかとしていて、本当に子供みたいだ。
「変なの」
アルコールに溺れる子供。そんなちぐはぐな存在が僕と恋仲だなんて。
「普段はあんなに完璧なのにね」
酔って半開きになった口に舌を滑り込ませたら、マユミくんの綻びを束ねたようなアルコールの匂いがした。僕はこれが大好きで……大っ嫌い。
「嫉妬してるのは僕なんだよ」
僕の前でもこれくらい酔ってくれるなら、こんな幼稚なことなんてしない。
「だから、仕返し」
だってマユミくんはカッコつけで、僕の前では憎たらしいほど完璧であろうとする。こうやって酔った顔は見せてくれるけど、マユミくんはあの監督としか、こんなになるまでお酒を飲まない。
「……ひどい男はどっちだろうね」
マユミくんがあの監督と飲む日には、僕は真っ青なピアスをつける。だって、そのために買ったんだもん。