弱くはないのにね マユミくんとふたりきりになるのは珍しいことじゃない。でもそういうのは例えば仕事なんかでアマミネくんが『いないとき』に僕らの意思に関係なく起こる偶発的な事象みたいなもので、僕らが示し合わせてふたりきりになるということはなかった。
でもそれは過去の話で、僕らは自らの意思でふたりきりになることが増えた。理由はとても単純で、僕らはお酒が飲みたかったけれどアマミネくんがまだ二十歳ではないってだけの理由だった。僕らはたまにふたりきりで、僕の家でお酒を飲む。
あと一年の関係なんだろう。アマミネくんが二十歳になればきっと僕らは三人でお酒を飲む。今のうちに特別な約束をしない限り、僕らが明確な意思でふたりきりになることはきっとない。顔色ひとつ変えずに普段では考えられないほど酔っ払うマユミくんを知っているのは僕ひとりだけど、あと一年もしないうちにアマミネくんだって知ってしまう。
そういうのを残念だと思う程度には僕はマユミくんのことが好きだった。でも、そういうのを三人で知った上で飲み明かしたいと思う程度には、アマミネくんのことだって好きだ。つまり、マユミくんのことなんて特別でもなんでもない。それなのにマユミくんが言ったんだ。僕のことが特別だって。
マユミくんがお酒に強い僕のために買ってきた度数の高いお酒を、僕らふたりは同じペースで同じだけ飲み干す。そうなれば先に酔うのはマユミくんだし、反対に脳がどんどん冴えていく──醒めていくのが僕だった。
タチの悪いことに、あるいは都合よく、マユミくんは自分が酔っていることに気がつけない。そもそもマユミくんはお酒に弱いわけじゃないし外では羽目を外すタイプでもないから、自分が酩酊状態になったって気がつけない。知っているのは僕だけだし、僕は誰にも言うつもりはない。
穏やかな、空気の生ぬるい夜だった。うっすらと開けた窓から沈黙が流れ込んでくるから、僕らはひっそりと酒を飲んだ。密約のように、形のないなにかを交わしながら。
僕がそうであるように、マユミくんだって空っぽだった自分っていう器が少しずつ満たされてきてしばらく経つ。まだ空白はあるけれど、それもいずれ、なにかで埋まる。そういう確信めいたものがある。
それなのに、たまに全てを捨てるようにからっぽになって酒を飲む悪癖がマユミくんにはあるようだった。そうすると底のほうで息を潜めている感情が少しだけ見えるような気がしている。マユミくんが見せてくれているのか、僕が覗き見ているのかは、わからない。
悲観的に酒を飲む人ではない。それなのに、今日はどこか泣いてしまいそうな憂いをその新緑の瞳に湛えながらマユミくんは酒を飲んでいた。「悲しそうだね」と問い掛ければ、マユミくんは困ったように「苦しい、」と呟いた。
「……お水を飲んで、ほら」
水を差し出した僕の手首をマユミくんが強く掴む。驚いた僕が落としたコップがわれることはなかったけれど、こぼれた水はテーブルに広がって小さな海を作る。僕はそれを見て、世界で一番小さな海は落ちた涙だと言った詩人のことを思い出していた。
「マユミくん、」
どうしたの、って言うつもりだった僕を遮ってマユミくんは言う。
「好きだ」
「え?」
「特別なんだ」
マユミくんは僕ではなくテーブルを侵食しつくした水がぽたぽたとカーペットに落下していく様子を見ていた。絡まない視線を諦めて、僕は柔らかに伏せられた睫毛を見ている。
マユミくんは誰のことが好きだとは言っていないけれど、それが僕のことだとわからないほど察しが悪いわけでもないし「誰のことが好きなの?」と聞いてしまうほど意地悪でもない。それに、それよりも気になることがあった。
「……キミが僕を好きだと、どうしてキミは泣いてしまうの?」
ゆっくりとマユミくんが顔を上げる。なにもわかっていないって顔で、僕の手首から離れた指先で自分の頬を撫でた。
「泣いてない」
「泣きそうだよ。わからない?」
僕が拒絶をしたわけじゃないのにマユミくんは泣きそうだった。僕が何を言ったらマユミくんが笑うのかよりも、僕がなんと言ったらこの人は泣くのか、というほうが気になった。別に泣かすつもりはないけれど、と考えて、僕はこの告白を受けるのか拒むのか、自分でもわからないことに気がついた。
「泣かない。泣いてはいけない」
「そんなことないよ。僕の前でくらい、」
「許されない」
「……そっか」
いつだってこの人の言葉に嘘はない。だからこの人は僕の前でも泣かないんだろう。マユミくんはきっと好きだと言った僕への感情でも泣けないし、僕のためにだって泣くことができない。
マユミくんは僕を想ってこんなにも苦しそうに美しく顔を歪めている。泣きそうなのに、泣いていない。僕のことを想って泣くこともできないのかという身勝手な寂しさよりは、何が彼をここまで悲劇的な感傷から遠ざけているのかという興味と、そういうのが全部醒めてしまうような呆れがあった。
テーブルを拭くのは億劫だった。喉なんて乾いていなかったけれど、手持ち無沙汰に酒を煽る。コップの底にへばりついた水滴がぽたぽたと落ちる。マユミくんはなんだかぼんやりとしている。酒の勢いか、失敗なのか。僕は次の言葉を待つ。退屈紛れに見ていた時計は針を五分ぶん進めていた。
「……俺は百々人が好きだ」
「言っていたね」
言っていなかったけれど、伝わったからそう返す。
「好きなんだ。特別に想っている」
「そっか、ありがとう」
マユミくんは事実だけを口にしてまた黙ってしまった。もう伝えたいことは伝えたと、まとう空気が語っている。こういうのが僕は苦手だったし、こういうところをマユミくんが見せてくるのは嫌いだった。マユミくんは事実だけを言って自分の気持ちや希望を口にしない。僕に望むことはない。それが僕を醒めさせた。
「……それだけ?」
「望む資格はない。……本当は、言うべきでもなかった」
「ひどいひとだね。言うだけ言って、僕の気持ちはどうでもいいんだ」
「だから、言うべきではなかったと、」
「べきとかそういうのじゃないよ。言ったのなら、最後まで言って」
自分からの気持ちを返さずに、まだ先を望む。そういう僕の狡さには気がつかない様子でマユミくんは観念したように息を吐いた。
「……俺は百々人が好きだ。特別なんだ」
「聞いたよ」
責めるような言葉だ。そんなつもりはないのに。もっと優しくしたいのに。
「幸せにしたい。……でも、それではお前を特別にできないことに気が付いたんだ」
マユミくんはそう言って、水ではなく酒を飲んだ。
「俺は手の届く全ての人間のために生きると決めている。……今度こそ、自分の意思で、そう決めたんだ。俺は強欲に、誰もを幸せにしたい」
「……そっか」
言いたいことはわかったけれど、口を挟むことはしなかった。これは僕が理解することが大切なんじゃなくて、この人が自ら口にすることに意味がある。
「誰もを幸せにしたいのに、特別なお前への願いも幸せにすることなんだ。それは愛と呼べるのか? お前のために、お前のためだけにできることなんて、俺にはないのに」
バカな人。呆れちゃう。考えすぎ。口には出さなかった気持ちが愛おしかったから、僕は意外とマユミくんのことが好きなんだと気がついた。そうして気がついた感情が欲を引き摺り出していく。
「……だったらさ、僕の前ではそういうのをやめてよ」
テーブルひとつぶんの冷たさを挟んで僕は言う。罪悪感にも加虐心にも似た欲望に、手が少しだけ震えるのがわかった。
「僕の前だけでいいから自分のためだけに生きてみて。それは僕の幸せになるし、キミの特別にもなれる」
僕の前でだけ好き勝手に振る舞うマユミくんはきっと好ましい。ワガママなマユミくんのことを見てみたい。きっとキミがリンゴをちょうだいって言えば、僕のお弁当に入ってるリンゴなんて全部あげちゃう。キミが笑ってって言えばどんなに悲しくたって笑ってあげるし、抱かせてって言われたら簡単に捧げちゃうんだろう。
そういう甘い誘惑に気がついているのかいないのか、マユミくんはまた苦しそうな顔をした。息を詰まらせて、視線を歪ませて、泣く一歩手前みたいな顔をしてる。それでも彼が語った真実の通り、マユミくんは泣けないんだろう。
「……それはできない」
「するべきではない?」
「そんなことはないと理解している。だが、そう簡単には変われない」
「そっかぁ」
僕は空になったグラスを酒で満たす。マユミくんも空っぽのグラスをこちらに向けるから、やめておきなよって言って笑った。
「……キミが僕を特別にできたとき、僕はちゃんと返事をするよ」
そう言って僕はアルコールで喉を焼く。しばらくぶりにアルコールの匂いを意識した。
「好きでい続ける日々はきっと苦しいよ。息ができなくなりそうになったら、いつでも僕を好きな気持ちなんて捨てていいから」
「……それができたら苦労はしない」
「あはは、すごい殺し文句だ」
マユミくんは歪んだ笑顔を浮かべる。この人が幸せになれたらいいのにって思った。水を取ってくるよと告げて、僕は立ち上がり背を向ける。
「……僕のことが好きならさ」
きっと僕は結論が出るまで待ち続けるんだろう。それほどにマユミくんの言葉に囚われてしまったと呆れ半分に理解する。
「その気持ちを抱えたまま一度死んで、生まれ変わって」
僕は変わるための痛みを知っている。生まれ変わることに伴う痛みを、捨てるものを、覚悟を。
「この恋に殺されてみせて」
マユミくんの返事を待たずに僕は台所へと歩く。酔い潰れて眠ったふりをするのなら今なのに、戻ったらマユミくんは何かを諦めたように美しく笑っていた。