月の裏側「ねえ、面白いもの見たくない?」
プロデューサーの笑顔には数種類あるってのが、それなりに長い付き合いでわかってきた。これは一番良く見るたぐいの笑顔。誰かを驚かせたくて仕方がない笑顔だ。
隠しもしない悪巧みに俺は近づく。その指先では企画書がひらひらと泳いでいる。
「……ウォーキングアクト?」
見覚えのない単語だ。更に言えばその企画書に書かれていた名前は『大河タケル』ではなく『牙崎漣』。てっきり俺に面白い仕事を持ってきて、俺を驚かせるんだと思っていた。
「わかりにくいよね。これね、大道芸」
大道芸っていうと道端にいるピエロ、だろうか。アイツがド派手なメイクをしている姿を想像すると、驚きより面白さが勝る。それでもあの銀の髪に派手な装飾は似合うのかもしれないだなんて思ってしまった。
「きっとタケルの想像してる大道芸じゃないと思う。これはね、ずっと動いちゃいけないって芸なんだよね」
動いてない漣、見たくない?
そう言って、ニヤリと悪い顔をするプロデューサー。俺はとっさに声が出なかった。だって、動いてないアイツだなんて、麺の入ってないラーメンくらい意味がわからない。
「……向いてないと思う」
率直な意見だ。いや、向いてないからこそバラエティでは映えるのかもしれないが、流石にこれは、と言うのが感想だ。
「向いてないよねー!」
楽しそうなプロデューサーの動きに合わせて、企画書がぺらぺらと踊ってみせた。数秒の後、プロデューサーは笑う。これはいたずら心が抜けた、理想のアイドルを作り上げているときの顔だ。レゴブロックで想像上の城を作り上げる子供のような笑顔。
「でもさ、見たくない? きれいなもの」
プロデューサーは俺たちを疑ったことがない。俺たちの持つ輝きだとか、俺たち自身の知らない一面だとか、信じたことも考えたこともない可能性だとか、そういうの、全部。
「アイツが?」
「うん。だって、きっときれいだと思うじゃん。動かない漣、ね?」
動かない、アイツ。
想像上のアイツは俺を見た瞬間、嬉々とした目で動き出して近寄ってきた。ならば、と眠っているアイツを思い出すけれど、その真っ白な肌に取り憑かれる暇もなくアイツは思い切り寝返りをうち、その足で俺の腹を蹴る。
「わかる?」
「悪いが、わからない」
「いいよ、私のなかにそれがあるからね。それはいつか世界中の人が思い知らされるってことだもん」
タケルもきっと私の手で理解させられる。プロデューサーはそう言った。
*
ホワイトボートにはみんなの予定が書いてある。俺は取材から帰ってきたばっかりで、円城寺さんはまだテレビ局。アイツはレッスン室。
自販機でスポーツドリンクを買う。これは俺にとって、レッスン室に入るチケットのようなものだった。こういうとき、アイツ相手にだけは大義名分がほしいんだ。俺はこれを渡すためにレッスン室に行くんだ、って。
踏み入れたレッスン室には音がなかった。デモテープの音源だとか、トレーナーの声だとか、レッスンシューズの鳴る音だとか、荒い息遣いだとか、聞き慣れた音が聞こえない。その静寂のど真ん中に、それは存在していた。
一瞬、アイツだってわからなかった。真っ白い頬の彫像がそこにはあった。
生き物が生き物である証明とか、権利とか、理由とか、そういうのを俺は知ってるわけじゃない。でもこれを生き物だと認めるのは自分自身が生きていることを疑うような、そういう存在だった。汗の一滴ですら、それは雨の一粒に見えた。
まるでおとぎ話の絵本のなかでお姫様をダンスに誘うような姿。ヒロイン不在の鮮やかなワンシーン。その目は俺じゃなくて、形のない空白を見つめていた。
有り体に言えば、飲まれた。ゴトリと俺の手から落下したペットボトルが音を立てる。それが合図だった。
反射的に、とかではなく、ゆっくりと視線がこちらを向いた。つまらなそうにこっちを見た金の双眸が、俺を認めた瞬間に比喩なんかじゃなく輝き出す。そうやって、コイツは一瞬で生き物に戻ってしまった。その姿に忘れていた呼吸が戻る。
「あ? なんだチビ。オマエ今日レッスンねえだろ」
そうやってコイツは近寄ってきて、俺が言い訳を取り戻す前にペットボトルを拾って、いつもみたいに勝手に飲んだ。
許可もなく俺はレッスン室の硬い床に座る。気にすんなって伝えて、知ってるって口にして。
アイツは少しだけ不満そうに口を曲げたあと、自分の感情すら無視するように背筋を伸ばす。真っ直ぐに立つ。半身を少し曲げる。空虚に手を伸ばす。からっぽの目をして人間をやめる。俺は遠ざかるコイツを見ている。
*
レッスン室の床の冷たさが全身に回るまで動けなかったのは、魔法が解けてしまうかと思ったから。立ち去る気になったのは、もうアイツの世界には俺がいないと思い知ったから。
事務所に戻ってぼんやりしていた。何もしていないだけでは人間はやめられない。薄く上下する胸、遊ぶ視線、呼吸の残滓。俺はどこまでも人間で、それに心底安堵する。
「見た?」
聞き慣れた、嬉々としたプロデューサーの声。唐突に降ってきたそれはあまりにも愉快そうで、共犯になりきれない自分を呪う。
「見た」
「すごいでしょ」
すんなり行き過ぎて、特訓風景の撮れ高が少なすぎると音だけで嘆いてみせる。首を上げれば得意げな顔が俺を見下ろしていた。
プロデューサーは魔法使いだ。優しい魔法も、怖い魔法も思いのまま。想いを歌わせたり、過去を輝かせたり、氷に閉じ込めたり、地獄で遊ばせたり、こうやって、生命の象徴のような獣を標本のように貼り付けたりしてみせる。
「アンタ、たまに悪趣味だよな」
魔法使いは笑う。
*
アイツのパフォーマンスはそれなりに大きな駅の広場で行われた。ロケバスから出たアイツは当たり前のように広場の中心に移動する。カメラが回っていたからとかそういうんじゃなくて、誰も邪魔なんてできなかった。
膝上まで編み上げられたブーツから覗くソックスにつながる、白い肌を滑るガーターベルト。短いズボンから上、窮屈そうなコルセットに収まった腰が折れそうで不安になった。フリルの多いシャツは真っ白で、幾重にも重なった袖口から覗く白い指先が溶け込んでいる。髪はひとまとめにくくられて、高い位置で止められている。存在感のある大きなヘアアクセから枝垂れるチェーンはしばらく揺れていたけれど、コイツが動かなくなるのと同時に静止した。高すぎるピンヒールも赤紫に塗られた唇も音をたてることはない。ただ、過剰なアイメイクで飾られた、普段より多いまつげだけがぱしぱしと鳴る錯覚を得た。
プロデューサーの趣味なのか番組の要望なのかはわからないけれど、なんとも現実味のない光景だった。過度な要素だけを詰め込まれた正体不明の存在が日常のド真ん中に現れたんだ。それは通りすがりのサラリーマンだとか、ネギのはみ出たカゴを下げた主婦だとか、タピオカを吸ってる女子高生とか、からだの半分くらいあるスポーツバッグをさげた少年とか、そういう当たり前にそこかしこにいる主役たちを一気にエトセトラに変えてしまう。そういうある種の暴力的な存在だった。
アイツは一度目を伏せた。次に目を開いたとき、その金色は誰も知覚できない何かに焦がれていた。レッスン室で見たものよりずっと洗練された動きでアイツが虚空に手を差し伸べる。そうして、ピタリと静止した。
道行く人みんな、それを視界に入れたら無視なんてできなかった。だからといって干渉もできない。近寄るにしても、腕を伸ばしたって触れられないような距離が限界だ。さざなみのようなざわめきを切り裂く静寂が、俺の脳を揺らした。
人はゆっくりと入れ替わる。それぞれが人生に戻っていく。それでも俺は群衆をやめられず、人の動きに押されて気がつけば最前列にいた。変装はしているがテレビには写りたくない。いや、映るべきじゃない。それでも足が動かない。
真正面の存在が脳を支配して、周りの人間が背景になって消えていく。世界で二人きりみたいなのに、オマエは俺を見ていない。あの日とは違う。きっと、どんな音を立てたってオマエはこっちを見ないってわかる。わかってしまう。
視界の直線状にいるんだ。それでも満月は虚空に浮かんでいる。大声で、ここにいるって伝えたい。一生呼ぶつもりなんてない名前を呼んだっていい。コイツを人間に戻したい。
それでも声をあげなかったのは、カメラが回っているからだとか目立ちたくないだとかそういう理由じゃなくって、ただ俺がアイツのことを理解していただけの話だ。理解していたつもりになっていたってだけの話なんだ。アイツはきっと、俺がどんなに声を張り上げても『こっちがわ』には戻ってこないって、わかっていた。
立ち去る間際、女子高生が漏らした気の抜けた呟きを拾う。
「……きれい」
伝播していく魔法、あるいは呪い。俺だって取り憑かれてしまったんだろう。気がついたら、ざわざわと騒ぐ胸を置き去りにするように駆け出していた。プロデューサーだか、アイツだか、周囲を取り巻いていた他人だか、そのどれもに当てはまらない何かが恐ろしかった。
*
アイツに会いたかった。その願いが叶うには、二日間が必要だった。お互いに仕事があって、生活がある。避けてない、でも会おうともしない。俺たちに許されているのはそういう距離だ。
出会うなら男道ラーメンだとか、俺の家で会いたかった。骨の煮立つ匂いが充満した命の象徴のような場所か、自分のテリトリーなら、少しだけあの日の残像が振り切れるんじゃないか、そう思ってた。
「あ? チビだけかよ」
二日間だ。それくらい、それ以上離れていたことなんてざらにある。それでも、すごく久しぶりに会えた気がした。そんなこと言えるわけないけど、久しぶりだなって言いたかった。
「円城寺さんは遅れてくる。いい加減スマホを見るくせをつけろ」
オマエなんて全く気にしてなかった。そういうスタンスを崩さずに俺は柔軟を続ける。あの日、このレッスン室で生き物をやめてしまったコイツは全く意に介さずに置いてあった俺のペットボトルをあおる。真っ白い喉が上下して、生きてる、って当たり前のことにひどく安堵した。
「……見た。あのパフォーマンス」
「あ? なんだよ、オレ様の最強パフォーマンスにひれ伏したか? くはは!」
そう言って笑うコイツはあの日釘付けになった存在とは全くの別物だった。騒がしいし、動きはオーバーだし、よく笑う。
「ひれ伏してない。ただ、別のもんみたいだった」
別人、とは言えなかった。だって、あれはモノだったから。でも俺のこういう思いはコイツに正しく伝わったことがない。褒めてるわけじゃないけど、けなしてなんていない。それでもコイツはなんだか不満げだ。
「オレ様はオレ様に決まってんだろ。バァーカ」
「そう思えなかったから言ってるんだ。でも、そうだな。きっとプロデューサーの力なんだろうな」
最後のほうはほとんど独り言みたいになってしまった。なんか、誰かにそういうのを押し付けてみないと、コイツがどんどん遠ざかるんじゃないかって気がしてた。でも、そういうの全部、魔法だったら納得だ。
「はぁ? オレ様がしたことは全部オレ様の力なんだよ」
カチンときた。
「本気で言ってるのか?」
それは周りの人を蔑ろにするようなことを言ったからとかじゃない。そういう、ありふれた一般論なんてどうでもいい。
だってオマエにもあるはずだ。ぞわりとする、身の毛もよだつ歓喜と怖れを。
「オマエは無いか? ……プロデューサーに、自分自身も知らない部分を引きずり出される感覚が」
心当たりがあるんだろう。沈黙は返答だ。オマエだって怖いはずだ。オマエだって楽しんでるはずだ。よく知ったはずの自分が、よく知ったつもりの俺が剥がされて、知らない内側を世間に晒す瞬間を。
俺たちは被害者で、共犯者で、加害者だ。
「……チビはチビだろ」
ビビってんのかって言われた。誰に、って答えた。プロデューサーのことだって、わかってた。
何も言えなかった。何も言えないうちに、視界がコイツの顔でいっぱいになった。まつげが見える距離で、怖いって言えたらよかった。そうやって、隠していたかった。いや、違う。怖かったのは本当だ。でもさ、俺はそれ以上に、ちょっと嫉妬してたんだよ。オマエの美しさを一番初めに見つけたのが俺じゃなかったってことに。
「……プロデューサーが一番、オマエのことを知ってるんだろうな」
俺の諦めと、コイツのため息がまざる。そのまま、当たり前みたいに唇がくっついた。
「オレ様のことを一番知ってるのはオレ様だ……んで、これは下僕も誰も知らねえだろ。それでいいじゃねえか」
そうやって、誰も知らない顔で笑う。いや、微笑む。あー、気づかれてる。気づかれて、宥められている。
「……ドラマでキスくらいするかもしれねえだろ」
でもさ、きっと、これだって俺だけのものじゃなくなるんだよ。
「はっ。そのへんのやつにチビの情けねえマヌケ面が引き出せるわけねえだろ」
それでも、コイツは俺を特別みたいに扱うんだ。だったらその顔だけは俺のために、誰にも見せないでほしい。
今、猛烈にコイツがほしい。こんな柔らかい笑顔じゃなくて、その先がほしい。このまま腕を引いて、このまま縺れ込んで、そのまま噛み付いて、縋り付いて、根こそぎ奪って、俺のものだって叫びたい。
俺だって、オマエの見たことのない顔を引きずり出してやりたいんだ。
そんでさ、俺だってこういうの、オマエだけに曝け出して捧げていたいんだ。暴いてくれよ。全部。