花の行方 花なんて別に好きじゃなかった。嫌いでも、なかったけど。
***
僕の家にはいつも花が飾ってあった。僕じゃなくて、お父さんでもなくて、お母さんがいつだって玄関に花を飾っていた。
どんな花だったかなんてたいして覚えていないけど、僕がはっきり覚えていないんだから決まった花を生けていたわけじゃないんだと思う。失って初めて気がつくなんて言葉でこの気持ちは片付けられなくて、それはなんだか月を見た時に似ていた。
華やか、無力で、雄弁で、美しくて、不在ですら存在を強く意識させるもの。
失っている、と不在が語る。それでもこんなメランコリーは気がついてしまってから数分もしないうちに忘れてしまうから、忘れるまでの数分間で僕は日常から花が消えたという事実について考える。つまり、いなくなったお母さんのことを考える。
あの人はマメな人だったんじゃないかな。だから僕の服はいつもキレイに洗濯されていたし、食事は栄養バランスが良さそうだったし、家は整っていて花が飾られていた。だからこそ、シャツの襟がパリッとしなくなった日だとか、明らかに彩りに頓着しなくなっていく食事だとか、そういうものが僕を追い詰めていったように思う。
それでも最後まで家はキレイだった。僕はいつ頃からお母さんが家事をしなくなってハウスキーパーさんに家事を任せ始めたのか覚えていない。それでも、お母さんが出て行くまで花はあった。それだけを、それだけを覚えている。
ぽっかりと僕を待ち侘びる玄関に彩りを添えていた花の不在を感じる。こうなってみると花のない日々は味気ない、のかもしれない。別に毎日そう思うわけじゃない。でも、そういうことをたまに思ってみたり、思ってしまったりすることが、僕はひどく寂しかった。
それでも僕は自分で花を買ったりはしなかった。それはなんだか恐ろしかったからだ。
生き物と呼んでいいのかわからないけれど命を手にするのは怖かったし、自分で面倒を見られる気もしなかった。そしてなにより、花は絶対に枯れるからイヤだった。それは刹那的な憂鬱なんかじゃなくて、朽ち果てた花をどう扱っていいかわからなかったからだ。どうやって捨てたらいいのか、どんな気持ちでゴミ箱に捨てたらいいのかがわからなかったからだ。枯れた花も、腐った花も、手にする勇気がなかっただけだ。
お母さんはどうやっていたっけ。思い出せないけれど、どうやってあの人はもう飾れない花を捨てていたんだろう。あっさりと花をゴミ箱に捨てるお母さんを想像するのは簡単だった。いや、もしかしたら枯れたり腐りきるまえに捨ててたのかな。だって枯れたものを彼女は愛せないし腐ったもので指先を汚すこともしない。いらないものは彼女を汚してしまうから、だから終わりが見えたら捨てられてしまう。
僕はあの人のことをあんまり知らない。あの人が何に失望するのか、それだけを知っている。あとのことは忘れちゃってて、別に申し訳なくもなんともない。
僕はあの人のことをあんまり知らない。それなのに、いつも家には花があったことは覚えている。いま僕の家に花はないけど、花なんてなくったって何も変わらない。そう自分に言い聞かせるのは簡単だ。
何も生けてない花瓶なんて、僕以外の誰も見ないんだからどうだっていい。
それでも家に帰ると目に入る。花瓶があるって思うんじゃなくて、花がないなぁって思う。それだけ。
***
事務所に花が飾ってあった。ぴいちゃんと山村さんがそれを見てにこにこしていたから、それだけで僕は勝手に傷ついた。
「みのりさんが持ってきてくださったんですよ」
そう言って山村さんが見せてくれた花は素敵だった。僕には花のことはわからないけれど、渡辺さんの持つ優しさとか、柔らかい声のリズムとか、そういうものが伝わってくるような気がして、なんとなしに好ましい。
「なんだか花があると華やかですね」
ぴぃちゃんはそう言って花の写真を撮った。きっとSNSに載せるんだろうな。こういうとき、なにか特別なことができる人がどうしようもなく羨ましい。僕はとっくに気がついてる。ぴぃちゃんは僕に才能があるって言ってくれたけど、それだけじゃ僕はこの事務所で『特別』にはなれない。
嫌になるなぁ、って思ってたらアマミネくんの心配そうな顔が視界に入った。「百々人先輩?」と尋ねる声で、僕が上の空の間に会話が進行していたんだと察する。隣にはアマミネくんが座っていて、真正面のソファーにはマユミくん。いつもの定位置で、いつものように雑談をしてたんだろう。ごめん、聞いてなかった。そう笑えばアマミネくんはちょっとだけ気掛かりな顔をして、すぐにいつものようにハキハキと話し出す。
「百々人先輩の家は花って飾ります?」
「え……」
見たことのない、枯れた花のイメージが脳裏に浮かんで吐き気がした。逃れるように、笑う。
「……アマミネくんの家は?」
「俺ですか? 俺の家は飾ってありますよ」
婆ちゃんが好きだから、と当たり前みたいにアマミネくんは言った。僕はマユミくんに視線を向ける。
「俺か? 俺の家も飾ってあるな」
「マユミくんのおうちも? お母さん忙しそうなのに、すごいね」
それとも、仕事でもらったお花とかだろうか。そう思ったが、違うみたいだ。
「いや、お手伝いさんが季節に応じた花を生けている」
「へぇ、いいですね。俺の家はいつも同じ……カスミソウ、だっけな?」
カスミというからには儚い感じだろうか。一瞬でマユミくんの家の花から興味が失せた僕は問いかける。
「どんなのだっけ?」
「えっと……白くて小さくて花が……なんかこうふわふわしてるやつです」
きっと僕も見たことがあるんだろうけど思い出せない。そういえば、花の名前なんて気にしたこともないくせに、花を描いたことがある。
「秀は立派だな。俺は飾られている花の名前を気にしたことがなかった」
「ああ、婆ちゃんが好きだから覚えてただけですよ。他の花はあんまり……」
作曲のモチーフにすることはあるけど、とか。
両親がよくもらってくる花はあるけど、とか。
そういう話をふたりはしていた。僕は、僕とおんなじように花の名前がわからないマユミくんのことを、ちょっとだけいいなって思ってた。そんな感情を覆うように、胸の中がどろどろと黒くなっていくのもわかってた。
おんなじだ。僕ら、飾られていた花の名前も知らない。
ふとふたりから視線と意識を外す。事務所に飾られていて、みんなに愛でられる花はキレイだった。
僕の家にぽつんと花があったって、無意味だと、そう思った。
***
大仕事が終わった。いわゆる、クランクアップってやつだろうか。
僕たちが出演する特別ドラマの収録が終わったのがさっきの話だ。最後に撮影をしていたアマミネくんが僕らを可愛がってくれた俳優さんを筆頭に、いろんな人にもみくちゃにされながら祝われている。それを僕とマユミくんが笑いながら見ていた。
このドラマの主役は僕ら三人ともで、それぞれが活躍して運命が交わっていく群像劇だ。主役は三人と言ったけれど花形はアマミネくんで、こういうところは流石リーダーというか、ある種のカリスマ性を感じる。
「大変だったね」
「そうだな」
短く言葉を交わして僕らも人の輪の中に入っていく。そうして少し思い出話をして、監督が場をまとめて僕たちの仕事が終わる。お別れの間際、スタッフさんがお花をくれた。
「みなさんに似合うと思った花を選んだんです」
花はきれいだったけど不思議と感動はなかった。きっと花をもらった感動よりも、この撮影が無事に終わった安堵と高揚感が強かったんだろう。そうやって、花を持ったまま喧騒に紛れていた。だから恐ろしくなる暇なんてなかったんだ。
着替えが終わった瞬間、自分の手に花があることが不思議だった。僕がこれを家に入れなくちゃいけないことが憂鬱だった。こんなもの、僕の生活には異物でしかないんだから。
家にある、空っぽの花瓶が真っ黒な口をあけて待っている。僕はそこに花を飾ってやればいい。でも、じゃあ、その先はどうなるんだろう。花は枯れる。枯れる前に腐らせてしまうかもしれない。ゴミになる。捨てなければいけない。ダメになったものは捨てなければならない。いらないものは捨てなくちゃいけない。それが正しいんだ。
花も、僕も、可哀想だ。だからコレは大切にしてくれる人にあげなくちゃ。そう思って僕はぴぃちゃんにお花をあげた。ぴぃちゃんは「百々人さんが頂いたものですから……」と渋っていたが、僕が出した「おねがい」という声に何かを見抜いたんだろう。困ったように笑って、「大切にしますね」と言って僕の頭を撫でてくれた。
両手がからっぽになって僕はようやく息を吐く。まだ祭りの終わりを嘆くように人はポツポツと集まって余韻に浸っていた。アマミネくんもどこかにいるのかな。
僕も誰かと他愛ない話をして気を紛らわしたい。それでも、いまは話したくない相手だっていて、
「どうしたんだ、百々人」
マユミくんは、話したくない相手の筆頭だった。
「なぁに? どうもしてないよ」
「花はどうした。持っていないようだが」
ほら、こういうことになる。僕は笑う。これでだいたいなんとかなる。
「……ああ。僕の家はお花を飾らないんだ。もったいないからぴぃちゃんにあげちゃった」
嘘は吐いてない。全部が嘘みたいなキミになんて、これでいい。何もわかってないマユミくんが柔らかく笑う。
「そうか……俺も少し困っている」
「マユミくんも?」
困ってそうには見えないし、困ることなんてひとつもないだろうに。それはまた、僕にあわせた偽物のキミなんだろうか。マユミくんは『困っていること』を口にする。まるで、距離を埋め合わせるかのように。
「実は、今日と明日はお手伝いさんがいないんだ」
「ふーん。そうなんだ」
なんで、とかは聞かない。マユミくんはちょっとだけ黙って、また喋り出す。
「明後日まで花を保たせられるか自信がない」
この人がこうやって弱みを見せてくるのは珍しかった。いや、弱みというには拙いかな。この人には目的だけがわかって理由の見えない思考回路が存在していて、それに振り回されるのはゴメンなのに。
それなのに、どうして僕はキミにこんなこと言ったんだろう。
「……一緒に飾る?」
「え?」
花をぴぃちゃんに押し付けた僕が何を言ってるんだろう。
「やりかた調べてさ、ふたりで」
ふたり、とマユミくんは呟く。返事を待たずに、僕はいう。
「アマミネくんには内緒で」
マユミくんじゃなくて、斜め後ろを見た。ちらほらと人がいて、そこにアマミネくんがいる。
「ダメかな?」
「……どうして、」
「どうしてだろうね?」
返事を待たずに僕はマユミくんからからだを逸らす。そのまま「アマミネくん」と声をだしてアマミネくんを中心とした人の輪の中に加わった。だから、マユミくんがどんな表情をしていたのかなんて、知らない。
『明日の放課後、百々人がよければ一緒に花を飾ってほしい。』
その日の夜、マユミくんからトークがきた。
任せて。とスタンプを送る。生徒会の仕事もないしレッスンもない。断る理由はないし、そもそも言い出したのは僕だし。
『花、明日まで枯れないといいね』
いう必要のないことを言った。返事を待たずに布団をかぶって、マユミくんからのトークは無視した。花が枯れなければいい。きれいに飾って、きれいに保って、きれいな花の名前を覚えて、キミは僕とおそろいなんてやめちゃえばいいんだ。
僕が惨めになりたいわけじゃない。ただ、僕とキミがおんなじなの、ちょっと嫌になっただけ。あの日に感じた気持ちは形を変えていて、僕ですらわからない願望になって思い出したように胸の中を這いずって僕を掻き乱す。
特別に好きじゃない。でも、好きとか嫌いとかなら、きっと好きなんだ。
だからちょっとおそろいをやめてみたい。おんなじじゃ、交われないから。
***
マユミくんの家に行くのは初めてじゃないけど、僕ひとりで行くのは初めてだった。僕にとってマユミくんのものであっても花を生けるっていうのは特別な意味があったから、なんだか特別に特別が乗っかって悪くない。
時間があったら渡辺さんに生け方を聞きたかったけど昨日の今日じゃあどうしようもない。当たり前に会う時間はないし、僕はこれを理由に渡辺さんにリンクをすることはしない。
「よくきたな」
「おじゃまします。花は?」
「枯れてない」
枯れてない、と言ったマユミくんはわかりにくく嬉しそうだった。そういえばマユミくんの家はいつもどこに花があったっけ。少し周りを見渡していたらマユミくんが言う。
「ああ。玄関で生けるのは難しいかと思ってな、花瓶はリビングに置いてある」
僕は玄関に花が生けてあることなんて忘れていたけれど、マユミくんの目には僕が玄関にあるはずの花瓶を探しているように見えたんだろう。マユミくんの人を理想論みたく評価するとこ、どうにかならないのかな。
リビングの広いテーブルにはオシャレなガラス製の花瓶と束ねられたままの花束があった。花束は水を張ったボウルに半身を浸けられていて、なんかもう正直ずっとボウルに浸けとけば? って思っちゃった。
「花束、解いてないの?」
「よくなかったか」
「わかんない。でも家に帰ったらスーツとかは脱ぎたい……みたいな?」
ふと気がつく。マユミくんがなんの準備も無しに物事にあたるのは珍しい。
「調べなかったの?」
純粋な疑問はマユミくんの気を損ねたようだ。ちょっとだけ眉間がきゅっとして、マユミくんは声を出す。それはいつも通りの凛とした声だったが、なんというか、シンプルに拗ねていた。
「……やり方はふたりで調べると、百々人が言ったんだろう」
「あ……そうだったね」
笑うタイミングも謝るタイミングも逃した僕は事実をただ肯定する。マユミくんは特に謝罪などは望んでいなかったようで、僕にも見えるようにスマホをテーブルに置いて、アマミネくんの半分くらいの速度で検索窓に文字を打ち込んでいく。
「花束……生ける……これでいいか」
適当にクリックした先のページには僕らには十分すぎるほどのノウハウが載っていそうだった。少しスクロールすると、『最初に』という項目が目に入る。
「えっと、『まずはラッピングを解く』……だって……」
「そうか……」
ボウルに浸かった花束は艶々としたリボンで束ねられて、体のほとんどをセロファンで覆われている。どちらともなく「ああー……」と声を出し、急いでラッピングを解いた。
きれいな花だった。スタッフの人がマユミくんのために選んでくれた花は、たしかにマユミくんのイメージにあっている。まっすぐで凛と咲く大きな花びらの白い花と、開ききっていない真っ赤なバラ。
「えっと、ユリとバラ、かな?」
「そうだな」
僕らにも知ってる花の名前があったのはちょっと嬉しくなったけど、これくらいは流石にわかるか。これは教養というよりは一般常識だし。
「次は……水切り。水切り?」
さっきまでガッツリと水に浸かっていた花を見て「もしかして、」と思うけれど、読み進めていくと別に水気を切るというわけではなかった。よかった。
「ボウル……はこれでよくて……よく切れるハサミ……マユミくん、切れるハサミってあるかな?」
「切れるハサミ……台所に大きなハサミがあったな」
マユミくんが持ってきたハサミはフライドチキンくらいなら真っ二つにできそうな大きさをしてた。台所にあるってことは、これでお肉とか切るんだろうか。
「ボウルに水を張って……」
いつの間にか僕が文章を読み上げる役になっていた。マユミくんはテキパキと動いていく。なんというか、上に立っているのが似合いそうな人なのに気がつくとマユミくんって雑用をしてたりするんだよなぁ。なんか、献身なんだろうけどちょっと度が越してるときがある気がする。今日のマユミくんは度を越しているなんてことないけど、たまに、ちょっとだけ憐れでゾッとする。
「水に茎を浸して、切り口から2cmくらいのところを斜めに切るって」
「こうか」
ぱちん、ぱちん、とマユミくんが茎を切っていく。そのためらいのなさは見ていて清々しくて、そんな予定はないけれど裁かれたり殺されたりするのならこういう人間の手にかかりたいだなんて思う。
ぱちん、ぱちん、
一本ずつ、一本ずつ、命だった部分がゴミになっていく。枯れる前に、枯れることもなく、マユミくんの手でひとつずつがゴミになっていく。
「……っ!」
「マユミくん?」
悲鳴の赤ちゃんみたいに控えめな声で僕の意識はマユミくんの隣に戻ってくる。マユミくんはちょっとだけびっくりしたような顔で、心配ないと言う。
「バラの棘が刺さっただけだ」
切る時に力を入れてしまったんだろう。マユミくんの指先にぷっくりとした血の膨らみが見える。痛々しいというには些細な怪我だけれど、傷ついたのがマユミくんだったから、その犯人がバラの花だったから、僕の心は揺れた。
そっとマユミくんの手を取った。少しだけ持ち上げた指先からには球状になった血がくっついていて、それは流れることはない。マユミくんが怪我をしてる。世界から隠してなかったことにするみたいに、その指先を口に含んだ。
「もっ、もひと?」
やわく吸えば口の中に血の味が広がっていく。舌を動かしても自分の指にはなんの感触もないことがなんだか面白かった。伏せていた視線を少し上にあげてマユミくんを見つめれば驚きに固められたマユミくんが見える。何も言われないのをいいことにしばらく口の中で僕よりも少し大人に近い指を弄んでいたら血の味がしなくなったから、僕は急に醒めてしまって口を離す。沈黙を長引かせるつもりはなかった。
「血、」
「ち?」
「止まったでしょ」
「止まった……」
びっくりしすぎて僕と同じ言葉を返すことしかできないマユミくんにキッチンのほうを指し示す。
「洗ってきたら?」
自分から舐めておいてなにを言ってるんだろう。マユミくんだって僕にそう言う権利があるだろうに、律儀にキッチンへと歩いていく。しばらくして水の流れる音がした。
「……なにしてんだろ」
僕にすら聞こえないような言葉をこぼしてマユミくんが戻ってくるのを待つ。いまだに事態が飲み込めてないマユミくんは、とりあえず僕がマユミくんのために行動をしたという一点にのみ着目したらしい。普段のようにキリッとした顔で言う。
「血は止まった。ありがとう、百々人」
「どういたしまして」
1から100までおかしいのに、奇妙な時間はマユミくんの指先についた僕の唾液と一緒に水に流れていってしまった。マユミくんはさっきより慎重な手つきでバラを手に取った。
「代わろうか?」
「大丈夫だ。それにまだバラがあるからな、怪我をしたら危ない」
「過保護だなぁ。……でも、ありがとね」
ぱちん、ぱちん。もう傷つけられることもなくマユミくんは茎を切り落とす。水面にぷかぷかとゴミが浮いていく。そうやって、花は生けられるために美しくなっていく。
「これでいいのか?」
全部の花を生まれ変わらせてマユミくんは僕に問いかける。
「うん。もう次で終わりみたい」
次の項目には『花瓶に生ける』と書いてあった。僕は続きを読む。
「えっと……『束ねられたまま飾るときれいに見える』……だって」
「束ねられたまま……?」
僕らの前には一本一本丁寧に解かれた花々がある。説明ページの画像を見ると、茎を束ねている紐はそのままだった。花束を解くと書いてあったから全部解いてしまったけれど、どうやら解いてはいけない部分もあったらしい。
「……そっかぁ」
「一度全てに目を通してから行動するべきだったな……」
自分で言うのもなんだけど、僕らにあるまじき失敗だった。僕はマユミくんと一緒に花を生けるということに思ったよりも浮かれていたのかもしれないし、マユミくんが僕と同じように浮かれていたのならそれはちょっと嬉しい。嫌いだったらこんなこと思わない。どうでもよかったらこんなこと思わない。嫌いか好きか無関心かで言えば、好き。それが僕にとっての眉見鋭心なんだろう。
「俺たちの手で生けるしかないな」
「そうだね。配置が変わるだけで問題ないよ」
はい、とマユミくんにユリの花を渡す。マユミくんはちょっと困ったように「こういったことは慣れない」と呟いた。
「百々人に頼んでいいか? 百々人の方がセンスがいい」
「え? そんなことないと思うけど……」
急に振られたからちょっとびっくりした。荷が重い、まではいかないけれど、少し怯んでしまう。それでも、僕が飾りつけた花がマユミくんの家の玄関に飾られるのはなんだかいいな、って思う。
「……でも、僕でいいなら」
花瓶を──いや、花瓶の上の空間をキャンバスに見立てる。あるのは白と赤の絵の具だ。そして、キャンバスの下半分を埋める花瓶の宝石に似た輝きと透ける緑。
「……メインはユリの花」
赤いバラはマユミくんの纏う色に似ていて惹かれたけれど、それ以上にユリの真っ直ぐに伸びる姿がマユミくんにそっくりだと思った。中心にユリの花がくるように、まずは少しずつバラを挿していく。
「百々人。棘に気をつけて……」
「大丈夫。……手前にユリがくるようにして……どっちも埋もれないように……」
誰かがマユミくんに似合うと思った花を、バラバラにして、再構築していく。僕の中のマユミくんの、美しいイメージだけを広げていく。血の味を思い出す。若草色の瞳を考える。あとひとつ、凛と伸びる背中。ふと気がつく。僕はきっと、マユミくんの背中を見ている時間よりも横顔を見ている時間のほうが長い。
ずいぶんと長い時間をかけた気がする。ボウルに浮かんでいた時よりは拙いけれど、僕のできる精一杯で完成させた花々は満足のいく出来だった。
「……どうかな?」
「……キレイだ。ありがとう、百々人」
「……うん。どういたしまして」
きっと解く前の花束の方がきれいだった。それなのに、マユミくんは僕の一番欲しい言葉をくれる。
「花束は解いてしまったが、俺は百々人の生けた花の方が好きだな」
この人の言葉に酔ってしまえたらいいのに。
「百々人がいてくれてよかった」
からっぽだなんて、気が付かなければよかったのに。
そのあと、マユミくんとふたりでクッキーを食べた。
テーブルの真ん中に花瓶を置いてふたりでクッキーを食べた。
テーブルの真ん中に僕の作った花束があった。
マユミくんは上機嫌で口を開く。
「花を生けるというのはいいものだな」
「生けたのは僕だけどね」
そうやってふたりで笑う。
「……また、百々人に花を生けてほしいな」
マユミくんの小さな呟き。
「ん? なにか言った?」
聞こえていたけど、聞こえないふりをした。
「今度、俺の家の花を選んでくれないか?」
ドラマだったら「なんでもない」って言わなくちゃいけないシーンだったよ、マユミくん。そう心の中で呆れてみせる。
「……いいよ」
僕は何て答えたらよかったんだろうね。
家に帰ってすぐに送ったトークはちょっと冷たいというか、物騒というか、なんというか、もうちょっと上手い言い方があったはずなのに怠けてしまった。
『今日の花が枯れたら教えて』
花瓶に花があるうちは花を送っても飾れないだろう。僕の要件しか伝えない言葉を要約するようなマユミくんの返事を見つめる。
『ああ。花瓶が空かないと新しい花を生けられないからな。』
ふと、僕の家のからっぽの花瓶を思い出した。急にどうしようもないほど寂しくなって、僕は縋るようにトークを送ってしまう。
『通話してもいいかな?』
こういうとき、笑えるくらい一瞬で既読がつく。マユミくんとやりとりしてるといつもそうだ。僕が後から消したくなるような言葉を打ったときだけ面白いようなタイミングで既読がついてしまう。
着信音がなった。僕から言い出したくせに、僕は覚悟を決める。
「……はい、もしもし」
『俺だ。どうした?』
「あ……いや、特に何かあったとかはないんだけどさ」
そう言って、少しだけ他愛ない話をした。マユミくんが嬉しそうに今日の話をするから、この人ってどこまでが本当なのかわからなくなる。
僕の思い違いなのかな。僕がこの人に感じた『からっぽ』なんて勘違いで、僕とマユミくんは全く違う生き物で、今日のマユミくんからの全部が真実だったとしたら。もしもそうだったら僕は嬉しいんだろうか。寂しいんだろうか。
マユミくんが僕からの花を欲しがったのは、本当なのかな。
「……僕も花を飾ってみたいな」
『そうか、いいと思うぞ』
言葉こそ淡白だったけれど、少しだけ嬉しそうにマユミくんが言う。その声を聞いたらマユミくんの笑顔を思い出してしまって、何も考えずに甘えを口にした。
「僕の家の花を選んでって言ったらさ……マユミくんは僕に花を選んでくれる?」
『俺でいいのか?』
「うん。キミの選んだ花が欲しい」
言ってしまって、自分でわからなくなる。この言葉はどこからきたんだろう。僕はなんで、こんなことを言ったんだろう。
嘘なのかもしれない。マユミくんがしょっちゅう口にするような、相手に合わせた言葉。
本当なのかもしれない。いや、この気持ちを本当だって祈っていたいだけなのかも。
わからない。それなのに、マユミくんは幸せそうに口にした。
「お互いに花を贈るのか。なんだかいいものだな」
あ、って気がつく。僕が欲しがっている花は、マユミくんが僕のことを考えて贈ってくれる花なのか。
「そっか……」
『百々人?』
なんだか、急に怖くなった。自分でも正体の掴めなかった言葉が僕を飲み込むように真っ暗な口をひらく。キミからの花が欲しいだなんて。
大切なものを大切にするのが、僕はすごく下手なのに。
想像する。僕は花を飾る。でも保ち方なんてわからず、調べたのにうまくいかず、すぐに枯らしてしまう。いや、きっと枯れる前にグズグズに腐ってしまう。悪臭を放って、触れればドロドロに溶けて指を汚す。僕はマユミくんのくれた花を燃えるゴミに捨てる。そうなるだなんて決まっていない。でも、どうしようもなく不安なんだ。
花に申し訳ないというよりはマユミくんに申し訳がない。違う、僕はマユミくんに失望されたくないだけだ。僕が望む笑みを浮かべる仮面の下に僕を蔑む目があったら、そんなの、きっと耐えられない。本物を望むくせに、望むものを望んでしまう。僕はマユミくんの何が欲しいんだろう。イメージする、色もわからない想像上の花束。
大丈夫かもしれない。全部杞憂なのかも。別に僕はそこまで悲観的な人間でもない。でも、まだ僕はいっぱいいっぱいだって自覚がある。マユミくんが一発で成功させたステップは失敗する時があるし、前のレッスンで歌詞を間違えた。どんなに素敵なことでも、そっちにリソースを割くくらいなら初めから、ないほうがいい。受け取らない方がいい。
『どうした? 百々人』
「いや……ごめん、やっぱり花はいらないや」
うまく言葉にできただろうか。声は震えていなかっただろうか。文字なら動揺は伝わりにくいから、通話はしないほうがよかったかもしれない。いや、そもそも声を聞かなければこんなバカなことを言い出さなかったはずだから、やっぱり通話をするべきじゃなかったなぁ。ぐるぐると考える僕にマユミくんは問いかける。
『……理由を聞いてもいいか?』
別に誠意じゃない。咄嗟に嘘が浮かばなかっただけ。
「贈ってもらったら嬉しいけど、ダメにするのがこわいんだ」
『そうか……』
マユミくんは僕を問い詰めることもなく、少しだけ残念そうに言う。きっとマユミくんの中で友人と花を贈り合うっていうのはさぞかし素敵なことだったんだろう。
でもこの人は無理に花を贈ってきたりしない。マユミくんは僕が望まない限り僕に踏み込んではこない。それは心地よい距離で、その遠さがたまに寂しくなる。立ち入ってほしくない。それでも、手を伸ばしてほしい。矛盾に捻れた心は手に負えない。
「……キミからの花がほしいのは本当だよ」
マユミくんは何も言わなかった。この人は、言葉を持たない方が真実に見える。
「ちゃんと受け取って、大事に出来るようになったら……そうなれたら、花を贈ってくれたら嬉しいな」
『ああ』
柔らかな声だった。気分が少し軽くなって、僕は空気を変えるように明るい声を出す。
「マユミくんに贈る花を決めるのは楽しみだな」
僕はあまり花を知らなくて、マユミくんをイメージしたら今日見た花に引っ張られてしまう気もする。だったらマユミくんの好きな色を中心にしたほうがいいのかも。そこまで考えて、意外すぎてびっくりする。僕はマユミくんの好きな色すら知らない。
「ねぇ、マユミくんは何色が好き?」
『色か。あまり意識したことがないな』
「え……好きな色がない人っているんだ……」
マユミくんの私服や持ち物は大人っぽくモノトーンでまとまっていたけど、あれってもしかして色に頓着がなかったからなのかな。
『色が嫌いなわけじゃない』
「そりゃね、色が嫌いだったら人生ハードすぎるよ」
『違う、あれだ……そうだな、百々人のカラフルなパーカーなどはセンスがあると思う』
こういう、ちょっと『眉見鋭心』が剥げかかったマユミくんのことが嫌いじゃない。無理やり引き出そうだなんて思わないけれど、自分だけがこの一面を知っているのだとしたら気分がいい。それで、たぶん、他人がこういうところを見ていたら、なに見せてるのさって気持ちになるんだと思う。
「じゃあカラフルな花束にしようかな。あんまり花は知らないけど……」
カラフルなのもいいけれど、ワンポイントでバラやユリを入れるのもいいかもしれない。ユリはマユミくんに似合うしあの形は好きだし。色々かんがえていたら楽しみになってきた。
「頑張るから、期待しててね」
『ああ。だが、くれぐれも無理は、』
「わかってるよ。大丈夫」
『ちゃんと領収書を切って、』
「領収書って……贈るって言ってるでしょ。なんでマユミくんがお金を出すのさ」
そうやって、しばらく笑い合っていた。笑って、ふっと漂った沈黙に身を任せる。それでもずっとこうしてはいられない。明日は学校があるし、日付は勝手に変わるし、マユミくんは僕のものじゃない。
「……花瓶の花が枯れたら教えて」
『ああ』
「枯れたら」
ゴミになったら。
「僕がキミに花を贈るから」
じゃあね、と言って電話を切ろうとした僕に、マユミくんの声が届く。
『百々人』
僕の返事を待たず、まるで独り言のようにマユミくんは言う。
『俺は花を大切にしたいという百々人の気持ちだけで十分だった』
「え?」
『待っている』
通話が切れて、プーッ、プーッ、と鳴る電子音が終わりを告げる。
「……本当なら、本当に僕は嬉しいんだよ」
部屋を出てキッチンへ行った。生ぬるい水を飲んで、部屋に戻らずに玄関に向かう。そこにはからっぽの花瓶があった。
「……ここに花を飾れたら……」
想像がつかなかった。色も、形も、その命のみずみずしさも。
「マユミくんを……家に呼びたいな……」
誰も来たことのないからっぽの家でも、キミのくれたもので少しだけ孤独が埋まったんだよって、他でもないキミに伝えたいって、そう思ったんだ。
***
マユミくんに花をあげた。
いつか枯れる花を大切そうに抱きしめて笑うキミは、本当に幸せそうに見えた。
***
それから僕たちはたくさんのお仕事をしてたくさんの花をもらった。そのたびに僕はぴぃちゃんに花を譲った──いや、押し付けた。ぴぃちゃんは相変わらず僕になにも聞かないし、僕はそれに甘えて花をあの家に持ち帰ることはしない。今持っている花だって何もかもが終わったらぴぃちゃんにあげてしまうつもりだった。
「まだ花を受け取るのは怖いか?」
「うん」
僕と二人きりになったマユミくんが問いかけてくる。あの日のようにクランクアップで賑わう現場は人の輪がぽつりぽつりと出来ていて、僕らのリーダーを輪のど真ん中に置き去りにして僕らはハズレの方でそれをぼんやりと眺めていた。
「待ち切れない?」
僕はわかってる。マユミくんは僕に早く花を贈りたいんだ。
理由まではわからない。花を贈って僕を喜ばせたいのかもしれない。僕の気持ちなんてどうでもよくて、あの日の約束を事務的に守りたいだけかもしれない。どっちもありえそうだから、この人に気持ちを割くのは本当に厄介だ。
「待ち切れないわけじゃない。ゆっくりでいい」
「ありがと。……僕はさ、最初に受け取る花はキミから貰うって決めてるから」
いつになるかわからないけど、僕にぴったりの花束を決めておいてね。そう言って笑えば、マユミくんは「任せろ」と呟いた。
言えないけどさ、向き合ってないわけじゃないんだけどさ、こうやって期限も決めないでだらだらと先延ばしにしてキミの心に居座ろうとする僕を許してほしい。キミとの約束が叶わないことが、僕とキミが約束で繋がっていることがどんなに僕の心を薄暗く暖めるのかを、キミに隠していてごめん。花を見るたびに僕のことを考えてほしいだなんて、こんな願いは間違ってるってわかってる。キミはただ約束を果たしたいだけなのかもしれない。ただ正しくいたいだけなのかもしれない。それでも僕を待っているって言ったのはキミなんだ。そうやって言い訳をしたとして、きっとキミは許してしまうから、こんなこと、言えない。こんなことばっかり思ってるわけじゃないよ。向き合ってないわけじゃないのは本当。本当にまだ、花をもらうのはこわいんだ。おかしいね。なんかめちゃくちゃだ。でも本当に、こわいんだ。ドロドロに溶ける花を考えると、どんなに素敵なものでも遠ざけてしまいたくなる。僕にはまだ無理なのかな。わかんない。ごめんなさいって思ってる。キミの心に居座りたい気持ち。キミからの花が欲しい気持ち。花がまだこわいこと。ぜんぶ本当だよ。
でもたまに、本当にたまに考えちゃう。一生先延ばしにしてやろうか、だなんて。
「……百々人なら大丈夫だ」
「ん、ありがと」
ずっとキミの心にいたいだなんて、僕はキミのことが少し特別で、他の人よりも好きみたい。キミからの花が欲しいのだって本当なのになぁ。それなのに僕はまだあの幸せの象徴みたいな彩りを遠ざけてしまう。いっそマユミくんが僕の意思なんて関係なく強引に花を贈ってくれたら、何かが劇的に変わるんだろうか。
なんにもわかんないけど、僕はたまにマユミくんに花を贈る。マユミくんの家にはお手伝いさんの生けた花がいつだってあるけれど、僕の花をもらったマユミくんは先に生けてあった花を捨ててしまう。そうやって、空いた花瓶に僕からの花を生ける。大切に、大切に生ける。そういう薄暗い妄想をしていまう。
でもね、そんなわけないって知ってる。マユミくんの家には花瓶がふたつある。僕がたまに花を贈るようになったから、新しい花瓶を買ったんだ。マユミくんがそう言ったわけじゃないけど、玄関にあったふたつの花瓶はそういうことなんだと思う。
特別に、僕のためだけに居場所を作ってくれた。嬉しくて、憎らしい。僕のためになにかを捨てることがないキミのことは少し嫌いだなんて、こんな醜い感情、知りたくなかったな。
「先輩、オフショット撮りましょう」
アマミネくんがこちらに駆け寄ってくる。カメラが切りとるいつもの画角に収まって、僕たちは笑う。
「……よし、変なとこないか見てくれますか?」
花束を持った僕たちは完璧なアイドルだった。僕は大切そうに持っているこの花だってぴぃちゃんに押し付けるくせに、マユミくんがどんな顔で枯れた花を捨てるのかなって考えていた。