顔のない案内人 ひどく寒かったことと、自分がまだ子供だったことだけを覚えている。オレ様が破門されて一年か二年くらいだったとは思うが細かいことは覚えていないしあまり関係がない。
あの頃は自分を子供だと思ったことはなかったが、きっと誰がどう見てもオレ様は子供だったんだろう。昼間は関わりもしないやつが夜になると邪魔をしてくる。『ケイサツ』という存在が邪魔だった。どこにも帰る場所がないってのは、オレ様がどこにいたっていいってことなのに。
とにかく寒い夜だった。雪が降らないのが不思議だった。昔に立ち寄った、池の水は凍るのに雪も雨も降らない村を思い出していた。
このまま外で寝たら死ぬんだって死んだこともないのに理解して、オレ様は公園から離れて街に出た。眠らずに一晩中歩いていれば凍死はしないだろうけど、それは手間だし腹も減ってた。だからまだ明かりのついているファミレスに入ったが、どうにも様子がおかしいようだ。
店員はオレ様を見て、困ったように聞いてくる。
「ええと……保護者の方はいらっしゃいますか?」
保護者の意味はわかっていたが保護者の意味を知れば知るほどあのクソ親父が『それ』ではないことがわかるだけだ。「いない」と言ったのか、何も言わなかったのか、覚えていないけれどオレ様を入口で待たせたまま奥に引っ込んでいった店員を見て嫌な予感がしたのは覚えている。急いで駆け出して少し離れたところで見ていたら、オレ様の大嫌いなケイサツが来ていた。
その場から離れてひたすら歩く。指先の感覚が遠くにある。公園にいたやつらは寒かったらどうするって言っていたっけ。ダンボールなら寝床にあるけれど、それで寒さが防げるとは思えない。アイツらがいればどこかに入れるんだろうか。なんでオレ様はひとりだとどこにも入れないんだ。イライラする。
街を歩く。あたたかそうな服を着た男が数人のグループに声をかけて無視をされていた。男は「部屋が空いてますよ」と言っていた。好都合だと思った。
「おい」
「はい! ……え? 子供?」
「部屋があんならオレ様をいれろ」
寒いから。寒くてたまらないから。言わなかったけれど、言えばなにかが変わったんだろうか。
いまから考えて気分が悪くなる。それはきっと同情だ。そんなもん、いらない。
「んー……子供は家に帰る時間だから……」
「ない」
「家に帰って……え? ないって、家が?」
「ない」
家なんてない。家なんてあったことがない。別にそれが普通だったはずなのに、クソ親父がいないだけでなんでこんなに不便なのか、意味がわからない。
「そっかぁ……」
また嫌な予感がしたから走り去る。後ろから大声が聞こえてきたけれど距離を取ったら諦めたようで、誰も追ってこなかったしケイサツもこなかった。
寒いし腹も減ってるし最悪だ。コンビニなら食い物もあるし少しの時間なら暖まれるだろう。そう思って歩きだしたら変な女に声をかけられた。
「キミ、行く場所ないでしょ」
本当に変な女だった。オレ様より年は上だと思うけど、コイツだってこの時間に出歩いていたらケイサツがきっと来る。それなのにコイツは寒そうでもなければ腹も減ってなさそうだった。
「こっちきなよ。子供でも入れる場所があるからさ」
そう言ってに女は背中を向けてゆっくりと歩き出した。
この女はケイサツを呼べないだろう。きっと、同類だ。それについていってもオレ様が負けるとは思えない。ついていくメリットは見えなくても、少なくとも損はしないはずだ。どこかの部屋に入れるならそれだけでいい。それくらい、疲れてた。
「おい」
「ん? なぁに?」
「オマエの家に行くのか?」
女は振り向いた。顔は覚えていないけれど、不安定な線の細さを覚えている。感情はもう忘れてしまったが、不愉快じゃなかったからついていったはずだ。
「家なんてないよ」
直感的に、嘘だと思った。
「キミも帰る場所がないんでしょ?」
キミも、という言葉が引っかかった。
「オマエは帰らないだけじゃねーのかよ」
うっすらと気がついていた。きっと、家がない人間なんていないってことに。
「……思ったより、いやな子だね」
それでも女はゆっくりと歩いた。オレ様はもう喋る気もしなかったから、ただその背中についていった。
しばらく、人目を避けるように暗い道を行く。途中でだれも曲がらないような角を曲がって、もう少し歩く。飲み屋の看板、街灯、蔦の生えた民家。道を覚えているのはオレ様が定期的にそこに行っているからだ。あとはもうあんまり覚えてなくて、女の声も勝手に組み上げたイメージのような気がしてくる。
「ついたよ」
なんつーか、ボロい建物だった。見た目だけで人を避けているような、ある種の警告を滲ませている建物だ。その扉を開いて女は中に入っていく。オレ様もそれを追う。
入ったところには誰もいなかった。ただよくわからない番号が書いてあって、そこになにかがある。
「んだよ、ここ」
「んー? ラブホ」
「らぶほ?」
女は慣れた手付きでなにかを取り出す。見てみると、それは鍵だった。
「私たちは■■■号室だね」
そう言って女は初めてオレ様の手を引いた。ひどく冷たくてじっとりとした手だった気がするけど、よく覚えていない。ただ、そういうイメージがこびりついている。
エレベーターに乗る。女が押したボタンの階に止まる。廊下には自販機があって、羽虫みたいな音を出していた。
「お腹すいてるでしょ」
なんとなく黙ってた。女が笑う。
「知ってるよ。キミ、ファミレス追い出されてたでしょ」
「はぁ?」
なんかムカついた。一方的に見られていたことも、コイツの気配を感じなかったことも。見たところ取り立てて強そうじゃないあたり、それはオレ様の勘が鈍っていたことの証明だった。
「自販機でなにか買いなよ。うどんもあるしポテトもあるよ」
そう言って女は千円札を差し出してきた。俺は無視をして、ポケットから金を出す。お札をいれたのに戻ってくる。そうだった。ああ、イライラする。
「万札は使えないよ」
「チッ……おい、その金よこせ」
「はじめからそうすればいいのに」
「うるせー。オラ、これ」
使えなかった金を渡せば女は笑う。
「お金、持ってるんだ」
「ハァ? 当たり前だろ」
女はあっさりと金を受け取った。オレ様は緑色のお札を突っ込む。今度はきれいに飲み込まれて、自販機のライトがついた。
何を食べたかなんて覚えちゃいねぇけど、うどんを食ったことだけは覚えてる。あとはなんか、もう手当たり次第に買ったはずだ。女から何枚も金を受け取った。そのたびに金を渡そうとしたけど、女は「もう足りてるよ」と言って微笑むだけだ。
女と入った部屋はなんだかしみったれた部屋だった。大きなベッドがあって、あとは窓もなにもない。女は慣れた様子でオレ様にシャワーの場所とバスタオルの場所を教えてくる。なんだか、意味もなくゾッとしたのを覚えてる。
冷えていたからシャワーも浴びたかったけど、腹が減ってたからメシを食う。女がじっと見ている。気にせずメシを食う。女はそれを最後まで見ていた。
食い終わる頃にはからだも温まっていた。そういえば、暖房はちゃんと効いていた。もう寝てしまおうかと思ったら先に女がベッドに寝転がる。一人分のスペースが律儀に空いていたからオレ様はそこに寝る。
軽く眠ろう。あまり深く眠らなければコイツには負ける気がしない。そう思って目を閉じたら頬に生暖かい皮膚が触れた。女の手だった。
「んだよ」
はたき落とす。女は何が楽しいのか、くすくすと笑って今度は足を絡めてきた。
「気持ち悪ぃことしてんじゃねぇよ」
一応は武術もやってなさそうな女だから本気を出さずに軽く蹴る。女は上半身を起こして、オレ様を見下ろしてこう言った。
「さみしいって、言ったらどうする?」
本当に寂しそうで、どうしようもなく惨めで、なんとも腹が立つ声だった。
「知るかよ」
背を向けて今度こそ目を閉じる。女はまだ、さっきと同じ声色で続けている。
「キミも寂しいと思ったの。だから連れてきたのに」
「知るかっての。オレ様は寂しいと思ったことなんざねぇよ」
「そんな人、いるはずない」
聞いたことのない声だった。あまりにも切実で、それがオレ様に向けられているという嫌悪感でぞわぞわする。
「……私は寂しいよ」
「うるせー」
しゅる、と布がこすれる音がする。無視して、眠るために意識を沈める。眠りの淵に女の声がする。
「抱いていいよ」
こんなやつを抱きしめなくても布団は温かくて不都合はない。温かいから、どんどん眠くなる。
「ねぇ、私の価値、それしかないの。でもキミは同類だから、同類のはずだから。だからお金なんて……」
「うるせぇって言ってんだろ」
オマエの価値なんて知るか。そう言えば女は黙った。また、布がこすれる音がする。
「……キミは嫌い」
それを伝える意味がわからない。もしかしたらコイツは、オレ様がコイツに嫌われて悲しむとでも思ってんのか。
「オレ様はオマエのことなんてどーでもいい」
だとしたら、コイツはバカだ。
「……最後まで面倒はみるよ。眠れるまでキミを見て、起きたキミになにかご飯を買ってあげる。ここでのお金の払い方を教えて、もう二度と関わらない」
キミはこれから独りでここに来るんだろうね、ってなんだか負け惜しみみたいな声がする。やたらと眠かったはずなのに、このやりとりだけ妙に覚えてるのはなんでだろう。
「……キミは子供だね」
そうだとは返さなかったが、そんなの自分が一番わかってた。だからどこにも行けなくて、こんな寂れたところで知りもしない女と眠ることになっている。
「子供。子供は嫌い」
「オマエだって子供だろ」
「そうだよ。だから私は私のことも大嫌い」
だからなんだって言うんだろう。オレ様が喋るとコイツも喋るから、オレ様は黙って眠る。
女はきっと最後までオレ様を見ていたんだろう。その気配を感じながら、温かい布団でオレ様は眠った。
起きても暖かかった。冬に目がさめて暖かいってのはいいもんだと思う。
女も起きていた。昨日は気づかなかった──いや、どうでもよかったんだけど、よく見れば目元には隈がある。改めて見ると、不健康そうな女だった。
「説明するよ。覚えておいたらきっと、昨日みたいに寒い日に役に立つよ」
キミは本当になにも知らないみたいだから。そう前置きした女はゆっくりと喋りだす。ここの名前はラブホテルだということ。本当は入ってはいけないけれど、この場所なら子供が入っても通報されないこと。料金の払い方。この場所がどういうときに使うのか。
「セックスするときに使うんだよ」
悲しそうに女は言った。
「せっくす……?」
「キミ、本当に何も知らないんだね」
女は一瞬で楽しそうな表情になって笑う。
「まぁ、ひとりで寝にきてもいいんじゃないかな」
「オレ様は好きなように使うし」
「そっか……ねぇ、最後にお願いを聞いてよ」
「やだ」
「そんなこと言わないでよ。ね? 聞くだけでいいから」
女が俺の頬に触れる。昨日と同じようにはたき落とす。
「……私をここで見かけても、声をかけたりしないでね」
「別に、興味ねーよ」
「そっか……」
正直このあたりのやりとりはあやふやにしか覚えてない。女の顔も覚えていないけれど、いい宿を教えてきたことは褒めてやってもいいと。そういうことを、たまに思い出している。
事務所の窓から雪が降っている。そういえば久しくあそこには行っていない。