消失トリック エディが死んでからとにかく忙しい。欠員がでたことによる忙しさはもちろんあるだろう。ただ、それ以上に、みんなが誰にも見せないように寂しさだとか悲しさだとかを抱えているように思えた。
願望、なのだろうか。おれはエディが死んで悲しかった。エディは仲間だった。だから、仲間だったはずのみんなにも悲しんでほしかったのかもしれない。数日しか時間を共にしていないユーリーにだって、俺は怒りではなく悲しみを抱いていてほしかった。
「あー……つかれた……」
ユーリーはそう言って机に突っ伏す。ばらばらと落ちた書類はレナートが抱える紙束の半分以下だが、それはユーリーが新人だから能力が劣るというわけではない。単純に、レナートの仕事量が異常なのだ。もともといつも仕事しているようなやつだけど、最近は輪をかけてそれが顕著だ。
見ていて痛々しいほどだ。それは願望だ。レナートはエディが死んで、悲しいのだろうか。悲しんでいればいい。おれはレナートにそれを望んでいる。
レナートに望んでることはたくさんあった。エディの死に心を痛めていてほしい。おれと一緒に理想を叶えてほしい。いつでも背筋を伸ばしていてほしい。おれよりも長生きしてほしい。おれと笑っていてほしい。
「なんか息抜きしないとね。お茶組んでくるよ」
キールが席を立ち、部屋には休憩ムードが満ちる。レナートがネクタイを緩めるのを見て、目の前に座る暑苦しいスーツをマジマジと眺めた。
どうせ今日はイグニスのメンバー以外には誰も合わない。だからみんなパジャマ並にラフな格好をしているのに、レナートはいつもと同じスーツを着ているのだ。これはレナートのポリシーというよりは、効率を突き詰めた結果なんだと聞いた。服を選ぶ時間や髪型を考える時間が惜しいから、いつも同じような格好をしているらしい。
「ユーリー」
レナートがユーリーに両手を差し出した。左の手のひらはからっぽ。右の手のひらにはオレンジ色をした飴玉が乗っかっている。ああ、これはレナートがお得意のやつだ。
「なに? ……飴?」
ユーリーが飴玉を認めた瞬間、ミハイルは両の手を閉じる。そして、言った。
「ああ。飴玉をやろう……どっちの手を選ぶ?」
「え?」
そのやりとりを横目で見ていて、わくわくした。おれはこれが大好きだった。レナートはたまに、得意げにいたずらを仕掛けるのだ。それを受け取るのはたいていおれだったけど、おれは自分がいたずらされるのも、他人がいたずらされるのも好きだった。
「どっちって……疲れてても左右くらいわかるよ」
そういって、ユーリーの人差し指がレナートの右手をつっつく。レナートは念を押す。
「本当にこっちでいいんだな?」
「……なに? こわいなぁ……」
ユーリーは怯んだが、差し出した指は引っ込めない。レナートは右の手を開く。そこにはオレンジの飴玉が、一つ。
「もー……なんだったの? こっちがアタリじゃん」
「いや……そっちはハズレだ」
開かれる左の手。そこには赤、青、黄色の飴玉が三つ、収まっていた。
「……え? あれ? そっち何もなかったよね?」
「レナートは手品が得意なんだ」
お茶を持って戻ったキールが言った。「文系のくせに」
関係ないだろう。暑い日に熱いお茶を飲みながらレナートは言う。
「手先は器用なほうなんだ。商談相手にやったりすると場が和む」
「相手を見てやらないと逆効果だけどね。ミハイルにやったときのこと覚えてる? ミハイル、地味にキレてたよ」
キールは意識してミハイルという名前を出したように感じた。彼の存在が、当たり前になるように。
「そうだったのか? 知らなかった」
「ミハイルは……うん、たまに怒ってたよ。レナートにも、きっと、オレにも」
エディのことを思う。当たり前に正しいと思った手を取ったときに、それがアタリではなかったと知ったときの気持ちを思う。そして、自分自身の気持ちを撫でる。オレがエディにとって、『アタリ』になれなかった事実を。
おれの選んだ手が、憎んだエリートの手だったときの気持ちを。
「……ミハイルは結構ムキになるからな。あのあと、レナートが手品をやるたびに、必死に種を見破ろうとしてた」
おれもエディも、レナートの手品に夢中だったんだ。おれは奇跡を見るように楽しんでいて、エディはなんとか秘密を暴こうと躍起になっていた。おれはそれでよかったと思っていたんだ。楽しみ方が違っても、おれもエディもここが気に入っていると本気で信じていた。
「ん。ミハイルの気持ちわかるなぁ。レナート、もう一回やって!」
「種も仕掛けもないぞ? 飴は食べ飽きるだろう。コインを動かしてやる」
ユーリーも、キールも、おれも、一斉にレナートの手元を覗き込む。ゆっくりと、お茶が冷えていく。
***
「レナート、手品を見せてくれよ」
キールは酒を飲まない。ユーリーも酒を飲まない。おれは少しだけ飲める。
エディは酒が好きで、レナートとよく飲んでいた。でも、今から思うに嫌いな相手と酒を飲む理由なんてひとつだ。エディはアルコールで喉を焼きながら、ずっと神経を研ぎ澄ませていたんだろう。
レナートと一緒に酒を飲む人間がいなくなったから、おれがその空席に腰掛けた。おれはアルコールでぼんやりとした頭で、レナートに騙されるのが好きだった。
「おまえは手品が好きだな」
レナートはウイスキーを一気に飲み干して、グラスを逆さまにしてテーブルに置いた。からっぽの空間。その上にレナートの両手が乗る。
「なにもないな?」
「ああ」
おれのグラスには、まだ半分くらいウイスキーが残っていた。
「見ていろ」
見てたってわかるわけないのに、レナートはそう言う。アルコールでバラバラになりそうな神経を一つに束ねていたら、カラン、と音が鳴った。
「……種も仕掛けもない」
グラスの中にはコインが一枚。おれはエディと違って、レナートを疑えない。
「知ってる。種も仕掛けもない」
奇跡だと、思っていたい。
「……じゃあ、これは?」
ふいに、レナートが手の甲を見せつけてきた。空いた手が親指をつかむ。何が起きるのだろう。レナートが笑う。
「……親指を消してやる」
ぱっとレナートが手を動かすと、見ていた手のひらから親指が見えなくなっていた。
「……っ……あはは!」
くだらない。心底思った。親指は折りたたまれただけなんだろう。手のひらを見せろと言えば一瞬で解けてしまう魔法だ。それでも、いや、そういうくだらないものが心底愛おしかった。
「種も仕掛けも?」
「ない。信じてくれるか?」
「信じるよ。おれはレナートを信じてる。なあ、」
そっとレナートの手を取った。当たり前に親指のくっついている、ひんやりとした手を取った。
「レナート。絶対にこの世の中を平和にしよう。スラムの人だけじゃない、どんな人だって救おう。もう悲しい人を生み出さないように」
なくなった親指みたいな子供だましの言葉でも、いつか種も仕掛けもなくなるなら。
この人が奇跡をおこすためなら、いくらだっておれはこの人の刃になろう。
「おまえは僕の理想も信じてくれるんだな」
種も仕掛けもバレているんだ。ままならないこともわかってる。血が流れることもわかってる。エディが死んだ理由もわかったつもりになっている。
それでも、この人がそれを望むなら。おれはずっと信じて支えていきたいんだ。
「信じてる。おれはレナートのことを信じてるんだ」
嘘みたいな話も叶ってしまうように。世界中に、解けない魔法をかけるんだ。まるで、手品みたいに。
「世界を変える手品だ。一生終わらない、優しい奇跡だ」
「……それならトリックは僕たちだな。……観衆に種と仕掛けが見せられないところまで、そっくりだ」
手のひらは、もう汚れきっている。きっと変わった世界におれたちの居場所はない。
「ああ。だから、終わったら二人で消えてしまおう」
そっか、おれはレナートと最後までいたいんだな。言い終わって、キールとユーリーのことを忘れていたことを思い出す。
それなのに賢いレナートはなにも言わなかった。大切なメンバーの話をしないで、ただおれの手を握っていた。