星の見えない夜に この空には星がないと言うのは大嘘だ。屋上に登れば誰も寄せ付けないとでも言うように冬空が鋭利な視線でこちらを睨みつけてくる。その眼差しは確かに光を内包していない。目を凝らしても、足元に広がった文明という光が邪魔をする。
でも、確かに星はあるのだ。光のないスラムの、最下層の最下層。スクラップで作り上げたアジトから見上げた空の、かすかな光を覚えている。あの時あったんだ。今になって消えちまったって道理はないだろう。オレ様は空にはまだ星があると、むずかゆい言葉で言えば信じている。
冷たい空に星は見えない。否、オレ様が見つけていない。それだけだ。
わかってはいたが寒い。オレ様はこのヤニ臭くてワンサイズ小さいジャケットしか羽織っていないから当たり前だ。さっきまで繋がっていた相手のジャケットはどんどん冷えてオレ様をせっつく。とっとと要件を済ましちまおう。
ジャケットの胸ポケットを漁れば、中身が半分程度残ったタバコの箱が入っている。人類の希望さまが銃よりも肌見離さず携帯しているオイルライターもだ。オレ様は小指ほどのためらいを無視してタバコを一本拝借する。そういえば、カイに何本のタバコを借りたっけ。死んだときにタバコを返していないと小言を言われるのは癪だから返そう返そうと思っているものの、死んだあとのことはどうでもいいってのも事実なわけで。ま、いいか。
屋上に来たのは星のためじゃない。ここなら吸い殻をコンクリートに踏み捨てても、犯人がカイになるだけだからだ。
別に部屋で吸ったってよかった。ただベッドですやすやと眠るカイの顔を見ているよりも屋上のほうが居心地がいいと判断して、セックスしたばかりのダルいからだを引きずってここまできた。それはどうやら正解だったようだ。オレ様はあの、事後の空気ってやつが苦手だった。とりわけ、アイツが眠っている時はなおさら。
タバコに火をつけて、煙で肺を満たす。真っ白に凍りついた息は、さっきまで混ざり合っていた男の舌と同じ味がした。オレの大好きな味だ。
カイはバカだから、キスする前に歯をみがこうとする。恋の形式を気にしているのだ。ベットで少し会話をして、ミントの香りがするキスをして、まずは髪を撫でて、とか、そういうの。そして言う。「大事にしたい」って。
バカげてる。カイの言う「大事にしたい」という言葉が何を指しているのか、オレ様にはどうしてもわからない。大事にしたい、だなんて。それがオレ様のことを指しているとしたら、とんだコメディだ。
だからオレ様は部屋に入って服も着替えないままその唇に噛み付いてやる。その舌はヤニの味がする。それがオレ様は、どうしたって好きだった。
カイがオレ様に流される瞬間が好きだ。ぐ、っと堪えて、目が揺れて、諦めたようにオレ様の首筋に歯を立てるその瞬間が好きだ。情けなく勃起して、獣みたいな荒い息でオレ様を求めてくる瞬間が好きだ。オレ様を犯す英雄の、あのゾクゾクする視線が好きだ。
それなのに、オレ様が怪我をしているときにアイツが流されたことは一回もない。きっとカイの欲望は行動の半分くらいで、あとはオレ様を満足させようと動いているんだろう。現にここまでからだを重ねて、無理強いされたことは一度もない。謙虚なお誘いを吐き出す口はいつだってミントの香りがするから、めちゃくちゃになっちまうまでどうにも興奮できないんだ。
そういえば、酔っていたっけ。酒とセックスで燃えたような胃がいまは冷え切っている。思い出すキスは酒とタバコの味がぐちゃぐちゃになっていて、それは不明瞭な記憶の中にあるぼやけたカイの顔よりも本能に訴えてくる。
カイはめんどうなやつだ。規律なんかはあってないような扱いをしているくせに、オレ様との関係にはマイルストーンを置いて段階を踏もうとする。そんなもん何度だって飛び越えてみせたけど、アイツは何度も「大事にしたいから」とミントの息を吐く。
一番笑えたのは、オヤジの話をした時だ。親父の話は聞かれれば隠さないが、親のことを聞かれたので面倒のないオヤジの話をした。するとあろうことかカイは言ったのだ。「ご挨拶に行きたい」と。
後にも先にも、こんなに笑ったことはないってくらい笑ってしまった。カイは不満そうにしていたが、オレ様はそのかわいいふくれっ面を肴にオッサンと一杯飲んだ。オッサンは苦笑いしていたが、それを伝えたカイはオレ様の予想に反して納得した顔をしていた。オッサンに報告するのはアリらしい。ますます意味がわからない。こっちはバカにしたってのに。
カイが求めているものが、いまはもう難しい『世間一般』なのはわかっている。
カイはそれが当たり前に叶うような世界に居たのか、単純にただ憧れているだけなのか、オレ様にはわからない。
そういう話はしてこなかった。泥酔したときにしたと言われれば信じるが、オレ様が覚えていない以上は無意味なことだ。
オレ様もたいがいだが、カイだって過去の話をしない。カイは未来の話がしたいようだけど、オレ様は未来って言われても明確なビジョンがない。まぁ、カイが生きてれば儲けもの、くらいの、ぼやぼやしててふわっとした、願望というよりは空想に近いなにかがある。
これは、オレ様を突き動かすトリガーのようなものだ。それ自体は僅かな力のくせに、時としてオレ様を理屈抜きで動かしてしまう不思議な力。たとえば、カイをうっかりかばって腕の骨を折ったり、とか。結果がデカいから錯覚しそうになるけれど、本当に、些細な感情なんだ。もう少しその感情に狂えたら、オレ様はこれを愛と呼べるのに。
カイの涙とか、激怒とか、きっと絶望でも動かすことのできない、小さくて確かな力が確かに胸の中にある。それはきっとオレ様の未来を危うくする力だろうに、どうにも消えてくれそうにない。
なんだか、長い間考えていた気がする。それこそ、夜が明けてしまうのではないかというくらい。でも、経過した時間はタバコ一本の寿命ほどで、人間が思考する処理速度に感心してしまう。
過去、現在、未来。オレ様たちにはきっと、未来しかない。
ただ、描く未来が決定的に違っていた。きっとそれはオレ様たちの不幸だった。
***
部屋に戻ったらカイが起きていた。ヘビースモーカーの恋人はタバコを吸わないとイマイチ思考がはっきりしないので、オレ様は舌にこびりついたヤニの味をわけてやった。
「お目覚めか? ハニー」
「……レッカ……よかった、いた」
まだ寝ぼけてるのか、お決まりのジョークにお決まりの返答が帰ってこない──これはオレ様たちの鉄板ジョークだ。女役のオレ様がカイを『ハニー』と呼び、男役のカイがオレ様を『ダーリン』と呼ぶだけの遊び。これをオレ様たちは四六時中いろんなところで言い合っている。
さっきまでオレ様に突っ込んで泣きそうな顔で腰を振っていた男と同一人物とは思えない気の抜けた声。そういえば、ヤニくさいセックスの時はコイツの顔がいつもよりも情けなくなるっけ。
「突然いなくならないでくれ……ビックリする」
「別に目の前にいなくたって、どっかしらには居るだろ」
「そうだな……帰ってきてくれればいい。おかえり」
カイはまだ寝ぼけてる。ちょっとタバコを吸ってきただけで、仰々しい。
「タバコ一本分だろうが。あ、ジャケットとズボンとタバコを拝借したぜ」
「もう全部だろそれ……まぁ、別にいい。……帰ってこいってのは、今日だけじゃない。これから、ずっと」
おかえり、ってカイはもう一度呟いた。おかえりにはただいまだ。でも、おかえりもただいまも、親父には実装されていなかった。
未来にそんなビジョンはない。おかえりもただいまもわからない。でも、オレ様は大人だから優しい嘘が吐ける。
「……ただいま」
子供をあやすような声が出た。なんだかいたたまれなくなっちまって、苦し紛れにもう一度舌を絡める。酒を飲んで、タバコを吸って、過去も未来も全部が台無しになるくらいぐちゃぐちゃに混ぜて、そういうの全部をゴミみたいに燃やして一つになりたかった。
「……するだろ?」
「しない」
「つまんねー。ならオレ様は寝る」
帰る、と言ってやりたかったが、ここはオレ様の部屋だから帰れない。こうやってカイは勝手にオレ様の帰る場所になろうとする。無自覚なのも、たちが悪い。
カイが空けたスペースに寝転んだら後ろから抱きしめられた。しばらく無視していたら、後ろから寝息が聞こえてくる。
振り向いて顔を拝んでやった。本当に、どっからどうみたってたんなるガキだ。横顔が特にガキっぽいのを知っている。そういえば何度か並んで星を見た。カイは夜空に星がないと嘆いていた。
見えないものは、コイツの中ではないことになってしまう。たとえばタバコ一本分でも、コイツにとってその時間、オレ様は失われてしまう。アホな考えだ。四六時中一緒にいるから、感覚がバカになってんだ。
可哀想な子供だと思う。そんなんじゃ、すぐに一人っきりになっちまう。オレ様でさえ世界のどこかにバラバラになったオヤジがいるのに。オヤジの形をしてなくても、例えばこうやって髪留めやピアスに姿を変えていても。
今度、星の話をしてやろうと思った。たとえ見えなくてもそこにあるのだと。
未来のビジョンが増えた。オレ様が死ぬ時は、死体が見つからないように死にたい。オッサンあたりに頼むんだ。「レッカは戦場を退いて田舎でのんびり暮らしている」「だが、記憶を失っているから会えない」とでも言ってもらえばいい。目の前にいられなくなったって、オレ様は確かにいるのだと。
胸の中で生き続けるってやつだ。星があろうがなかろうが、存在を疑わないように。
今度、星の話をしてやろう。オレ様のことを忘れるまで、そうして生きていられるように。