嘘と煤けたワンダーランド 目の前の男が腕に抱える粘土のような携帯食料と貴重な水が入ったボトルの数を見てわかったことは、「ああ、このバカはまた騙されやがったな」ということだった。
遠征任務ではバカみたいな量の水を持ち歩くわけにはいかない。その点、人類の英知である現金というものは持ち運びがしやすいことこのうえない。水にも酒にもなるしな。つまり現地調達は理にかなっているのだが、このカイという男は、とにかくそれがヘタクソなのである。
任せなければよかった。という判断ミスを悔いる気持ちと、散々買い物の仕方は教えてやっただろう。という恨み節。うまく両立ができない感情ごとオレ様なりの正論をぶつければ、普段から仏頂面を崩さない整った目元がムスッと歪んだ。
「言い値で買うなって言ったろ。どうせ最初にいくらですよ、って言われたのを鵜呑みにしてなんの交渉もせずに買ってきたんだろ」
「……別に、相手が値段を言ってるんだ。それが水なり飯なりの値段なんだろ」
「だから、そのやりとりの時点で騙されてんだよ。相手は得したいから適当なことを抜かす。そういうのは見抜かねえといけねえ……単純な駆け引きだ。いい加減覚えろ」
オイルまみれの手で眉間をつつけば、いらだちを隠さない右手がオイルの匂いごとオレ様の手をはたき落とす。ったく、オレ様がメンテで忙しいからっておつかいをさせたらこのザマだ。カイは生き抜くことに向いているというよりは、死なないことに特化したような人間だ。生きることはうまくないし、とりわけこういう人間のふりはヘタクソだった。
「だったらオイルでべたべたになってないで、オマエが行けばよかったんだ。俺がメンテをしても文句を言う。俺が買い物に言っても文句を言う。……戦うこと以外、レッカと一緒には何かをしたくない」
「本当かよ。オレ様とするキスは? 好きだろ?」
「それは……話がまた、別だろ。それは恋人のやりとりだ。いまはバディとしての話をしてるんだ」
恋人のやりとりと聞いて笑ってしまった。このヒトモドキは最初、この感情すら理解していなかった。手で触れて、舌で触れて、その視線で抱くことを許してやって、そこまでしてようやくオレ様が教えた単語にたどり着いたばかりの赤ん坊のくせに。
「とにかく。店主が言ったんだ。この水はこの値段なんだ」
今日のカイは頑なだった。それは怒られたことによる意地とは、少し違うように見受けられる。オレ様はアンドロイドと暮らしていたわりには人の心の機微には敏感だと自負している。そりゃ、恋愛となればコイツよりも半歩程度マシな情緒しか持っていないだろうが、こと商売に関するやりとりは得意なのだ。
小さい頃、パーツを買い叩かれることは緩やかな死を意味していた。生きるために必死に磨いた芸は忘れない。もちろん、死なないために身に染み込ませた技も。オレ様はアンドロイドをバラバラにすることができて、金銭の絡んだやりとりができる。カイは銃弾で吹っ飛ばせるもんなら、なんだって壊すことができる。別に貴賤の差はない。得意なことをすればいいのだ。
一人納得して溜飲を下げる。得意なほうが、得意なことをすればいい。オレ様がカイには何者も近づけさせなければいいんだ。このワーカーホリックが、好きなだけ自分の仕事に専念できるように。
オレ様たちは、バディだ。
「……オッサンが言ったんだ。水は一本でこの値段だ、って」
「よりによってオッサンに騙されてきたのかよ。かわいい姉ちゃんに騙されてきたってんなら、まだ可愛げがあったのに」
「誰がどんなものに、どれくらいの価値を見出すかは自由だろ。俺はそれでいいと思ったんだ。オッサンが決めた価値なら、それでいいと思った」
ゆっくりとした、自分に言い聞かせるような、独り言のような言葉だった。少し、カチンときた。目の前にいるオレ様を無視して勝手な感慨に浸ろうとしている。いい度胸だ。
「たいそうなこだわりをお持ちだな」
人がせっかく、納得してやろうとしたのに。
「自分がされたらされたら嫌なことはしない。レッカたちが教えたことだろ。俺もそれには賛成なんだ。いやなことはなるべくしたくない」
なるべく。まぁ、たしかにそうだ。死にたくないのに殺すオレ様たちにはきれいごとじゃ済まない領域があって、だとしたら絵空事が言える範囲でだけは善人でありたい。わかるが、水の調達はきれいごとじゃ済まないことという認識を持ってほしかった。金を出すのは組織だが、資産は有限なのだから。
「されたら嫌なことはしない……か。カイには商売人の気持ちがわかるのか?」
ふと、疑問をそのまま口にする。コイツもオレ様のように、何かの価値に生死が左右されていたのだろうか。ふわりと聞いた昔話では、コイツはそういう小間使いとして働いていたという情報はなかった。コイツの存在価値も存在理由も、硝煙がまとわりついてよく見えない。
「…………価値を押し付けてくるやつがいたんだ。俺はちゃんと説明してるのに」
値切り交渉とはすなわち、価値の押しつけだという。確かにその通りだし、そういうことをされた経験というのはカイにあっても不思議ではない。
カイはいつもどおりの普段と変わらない口調で、それでも少しだけいらだちながら語り始める。
「俺の命には価値なんてないって言ってるのに、話を聞かないバカがいた」
バカ、という音には、呆れと親しみがこもっていた。コイツが自分の命を軽んじていることは重々承知しているから、オレ様は前半部分に関しては何も言わない。いや、これでもオレ様が惜しみなく与えた愛のおかげで──ここは笑うところだ──カイの自己肯定力はマシになったほうなんだが。
「俺が、子供だったから」
まだまだガキのくせに、まるでオヤジのようなことを言う。コイツに老け込まれると同じような年のオレ様まで巻き込まれるから、もう少し若者でいてもらわないと困るのだが。
「俺には未来がある、価値がある、っていつも言ってた。……いまでこそ俺は生きてるけど、あの時は次に目を閉じるのは死ぬ時かもしれなかったんだ。お互い、頭を吹っ飛ばされれば死ぬんだ。戦場にいる人間の価値は銃弾一発分で、俺もあの人も変わらなかったはずなのに……未来があるって、価値があるって言って、俺をかばって死んだ」
人の話を聞かなかったせいだ。そう言って、カイは深くため息をついた。
「俺は、ちゃんと、俺に価値なんてないって言ったのに」
なるほど。つまりコイツは提示した価値を否定された側なんだ。つけられた価値が逆だったら、いまここにカイはいない。オレ様としては変わりに死んだ男に感謝したいところだが、ヒトモドキのコイツは悲しみよりも戸惑いが先行したんだろう。自分が助かったと思えない。助けられなかったと、思っているんだ。
「……価値ってのは一人じゃなんも意味がねえ」
価値ってのは、双方の意見をすり合わせるための指標だ。
「買い物も、命も同じだ。間違ってると思うなら言わねえと。そいつが間違ってる可能性があるのに、全てを受け入れるのはやりとりじゃねーよ」
「……俺は言ったんだって言ってるだろ。俺の命を、あの人は見誤った。俺の命には、あの人が死ぬほどの価値はなかった」
「そうか。じゃあ、その男の価値は、オマエにとって大層なモンだったんだろうな」
「ああ…………自分のチョコレートを、よく俺たちくらいの年のやつにくれた。……いい人だったよ」
価値のある命だった。カイは諦めたように口にした。もう戻らない命を悔やんで、自分の存在を揺るがすように。
「そうか。じゃあ、そいつのぶんまで生きねえとな……とか、言ったほうがいいか?」
命の連鎖を、オレ様は説けるのだろうか。断ち切ることしかできず、生み出すこともできない俺たちに、こんな未来の話を。
「言わなくていい。そう言われるのが嫌だからレッカ以外に話してないんだ」
「いまさっき聞いたばっかりなんだが」
「言った気になってた……言ったのか言ってないのか忘れるんだ。気になったらその都度聞いてくれ」
隠し事はしない。カイはそう誓ってみせた。
「考えなしに口を開くんじゃねえよ。なんでも教えてくれるのか?」
「そうだ。レッカのことが好きだから」
コイツの好きは軽くない。本当に当然のように口を滑り出てくる言葉の、その価値を知っている。
それでも、あまりにも当たり前に言われるもんから、オレ様の言葉も軽薄な響きで宙を舞う。ちゃんと、届いていればいいんだが。
「オレ様だって好きだぜ? なんだって教えてやってもいい……ただ、オレ様のことが知りたきゃ、ちゃんとお膳立てしてから聞けよ?」
「そうか。何が食べたい?」
「バカじゃねえの? そういうのは、ベッドの上で聞くんだよ」
キスのひとつでもしてやろうか。唇を近づけたら、ぷい、と顔をそむけられる。どうやら、なにやら、ご機嫌が斜めらしい。
「どーしたんだよ。カイ」
「なんか……うやむやになってないか?」
決着がつかないことにも白黒つけようとしてしまう。これはオレ様たちが教えた人間らしさで、愚かで愛しく面倒な子供らしさだ。
「レッカは俺の価値を見誤らないよな?」
「……まだ、オマエには価値がないか?」
質問に、質問で返した。カイが嫌うやりとりのひとつだ。だがそれには噛みつかず、カイは笑う。
「俺にだって価値はある。死なないんじゃなくて、しっかり生きる。ちゃんと教わったことだ」
「そりゃいいことだ。先生は嬉しいぞ」
今度は唇ではなくて、手を差し伸べた。俺のよりもごわごわした髪の毛はホコリにまみれている。こんなに深い、おとぎ話にしか存在しないような青色をしているのに、いつだって血や灰で汚れてる。
俺には価値がある。それでも、とカイは言う。
「……でもレッカのほうが、大事だ」
だから、もう二度と俺にあんな気持ちを味合わせないでくれ。願いと共に触れられた手は、祈りを宿していた。
「……そーだな。安心しろ、オレ様は誰かのために死ぬつもりはねえよ」
カイは知らない。駆け引きや取引には、時として嘘が交じるということを。
「そう言ってくれるって信じてた。レッカのそういうところ、大好きだ」
「そーかよ。できればもっと即物的なところも愛してほしいんだがな」
真っ直ぐな言葉は、つい茶化してしまう。カイはピンときていないようで、オレ様は通じなかった言葉の価値を思い知る。
なるべくカイに嘘を吐かないようにしようと思った。どんな嘘からも、守ろうと思った。
オレ様は死なない。でも、カイは殺させない。オレ様が嘘をつくときは、コイツをかばって死ぬときだけで十分だ。