春景色 こんなことになるんだったら、大人になんてなりたくなかった。
子供のうちに好きだって伝えておけばよかった。
*
狩りの群れに混ざるようになってから、三回目の春が来た。春になるといろんな生き物が元気になる。俺は赤い果実と青い羽の鳥がおいしくて好きだ。春はおやつがたくさんあって、秋と同じくらい好きだった。
ザザキだって昔は春がくるとはしゃいでいた。素振りは見せなかったけど、わかる。目を細める回数が増えて、少し明るい声で話す。それを知っているのが俺だけならいいって、よく思ってた。二人で一緒になって、黄色くて小さい花が咲く野原で追いかけあった。負けない、って笑いながら。
ザザキのことが好きだった。でも、どこが好きかと言われると困ってしまう。小さい頃から一緒だから、いなくなったときのことが考えられないって言ったほうが正しいのかもしれない。俺に兄弟はいないけど、ザザキのことは家族だって思ってる。悪友って言葉を聞いたって、親友って言葉を聞いたって、真っ先に浮かぶのはザザキのことだ。好きって単語を口に出す時に考える相手だってザザキだった。
「これって恋なのか?」
王に聞いたことがある。ジョウエンは親代わりだったし、なにより俺は子供だったんだ。まだ思春期にもなってないくせに愛とか恋って単語は知っていた小さい頃の話だから、今から思い出すとちょっと恥ずかしい。ジョウエンは笑いながら答えたっけ。
「名前をつける必要はない」
大事にしなさい。ジョウエンはそう言って、大きな手のひらで俺の耳を撫でた。
ザザキはザザキなんだ。俺のこの気持は全部ひっくるめてザザキに向かってる。だから、この気持ちに結論を出す必要なんてないって思ってた。俺とザザキはずっと、笑っていられるはずだったんだ。
でも、変わっていくものもある。ザザキは少しずつ大人になって、春がくるとつまんなそうな顔をするようになった。
*
春が好きだったのに、嫌いになりそうだ。
ごく一部の獣人のように、俺には発情期が来た。予兆があったから覚悟をしていたけど、ザザキが発情してなかったから俺も大丈夫だと勝手に思い込んでいたんだ。俺とザザキは血もつながってない、別々の存在だってのに。
発情期がきた獣人は、獣に近いとバカにされたり大事にされたりする。年配の獣人ほど発情期のある獣人は神様に近いと思っているから、俺はずいぶん食い物をもらってありがたがられた。ジョウエンはまったく態度を変えず、俺に発情期のやり過ごし方を教えてくれた。
発情期のある獣人が神様に近いと考えられていた頃は適当な相手があてがわれたらしいが、そんな風習はもう残っていない。それは相手の気持ちを無視した酷いことだし、それを目当てに発情期のふりをするやつがいたら大変だ。だから自分でなんとかする。具体的には、煎じた苦い草を飲んでやり過ごすしかない。あとは自分で勝手に抜いて、治まるのを待つだけだ。
最初はちょっとぽわぽわする程度だった。食欲が増して、眠気があまりなくなって、狩りで血を見たときみたいに本能がざわついて、何かに噛みつきたくなった。でも、これくらいなら我慢できるって思ってた。
急にからだがおかしくなったのは、たいしたことがないと出かけた狩りが終わったときのことだった。苦しくて、どうしようもなくて、俺は気がついたらそばにいたザザキにのしかかって、その白い喉に噛み付いていた。
ザザキが食べたい。いや、それ以上の強い衝動だった。俺は、ザザキに欲情していた。
泣きたい。いや、死にたい気持ちだった。それなのに牙は止まらない。じわり、血の味がしたのに俺は止まれない。
こんな乱暴な本能で俺の気持ちは暴かれてしまった。俺はザザキが好きだったんだ。この感情は恋で、俺はザザキをそういう意味で好きだった。気がつくことのなかった気持ちが、こんなに汚い泥にまみれてその輪郭を現してしまうだなんて。
ザザキは驚いて声も出せなかった。その場にいた数人が俺を寝床に連れて行って、この世の悪意を全部詰め込んだみたいに苦い草を口に詰めていく。その苦さに俺の衝動は少し萎えたけど、頭の中はザザキのことでいっぱいだった。
抱きたい。孕ませたい。俺のつがいにして、誰にも渡したくない。
どんな雌よりもザザキのことが魅力的に見えていた。兄に感じるような愛、家族に抱くような愛、友人に捧げるような愛、そのどれもが、心のどこにも残っていなかった。赤い果実より、青い羽の小鳥より、ザザキはおいしそうだった。
少し落ち着いてきたら甘ったるい匂いのする汁を飲まされた。くらくらがふわふわに変わって、俺はそのまま眠りについた。
*
いい匂いがした。あったかくて、甘くて、意識を全部持っていかれるような匂いだ。
目を覚ましたらザザキがいたから心臓が止まりかける。いま一番会いたくない相手が、俺を覗き込んでいる。これが夢であるようと祈ったし、夢じゃないなら俺が夢の世界に逃げ込むしかないと、無視して眠る努力をした。
「おい」
寝たふりを続けた。本当に眠るぞという、強い決意で。
「……もうわかってねえフリはできねえぞ」
ふに、と唇に何かが当たった。俺だって口付けくらい知っている。慌てて目を開ければ、ザザキの指先が俺の唇を撫でていた。
「おいしそうなんだろ?」
ザザキの指が気まぐれに動き、力の入らない口の中に侵入してくる。舌に触れたザザキの指先は甘くなんてないはずなのに、森で一番甘い果物を食べたときよりも喉が渇いた。
「……やめてくれ」
絞り出すように口にした。ゆっくりと起き上がり、後ずさって距離を取る。
「…………悪い。俺、ザザキのこと好きだった。どういう好きかわかってなかったけど、気づいちまった」
だから、帰ってほしかった。発情期のないザザキはこの衝動を知らない。
「発情期ってすごいんだな……俺、いまザザキのこと襲いそうなんだ。舌に噛み付いて、身体中引っ掻いて、突っ込んで孕ませたいって思ってる……だから、帰ってほしい。俺、おかしくなってんだ」
一度落ち着いたはずの息が上がってきて、静かな部屋が俺の荒い息で埋まる。ザザキはそれを眺めていた。ザザキはひどいやつだ。このままじゃひどいことをしてしまうって言ってるのに、帰ってくれない。
「忘れてくれ……ごめん。四六時中一緒にいた相手に発情されてんだ……気持ち悪いよな」
「……別にいい。オレは言いたいことがあって来たんだ」
どんな文句が来たって仕方ないと思う。でも、いまは聞きたくなかった。悲しくなるし、話してる途中のザザキのことを襲ってしまうかもしれない。それなのに、ザザキは「聞け、」と言って話を始めた。
「春がくるたび、憂鬱だった。オマエが自分の気持ちに気づくんだろうな、って」
春に笑わなくなった理由を、俺は初めて知った。考えもしなかったことを言われて、茹だった頭に氷が落とされる。
「……俺がザザキのこと……好きだって、気づいてたのか?」
ああ、泣きたい。気づいてなかったのは俺だけで、ザザキはずっと知ってたんだ。それでも涙はでなくって、たまにふわりと香る甘い匂いに反応して、口の中が唾液でいっぱいになる。
ザザキは一度、俺に触れようとした。手を伸ばして、俺を見て、引っ込めた。きっと、俺はひどい顔をしてたんだ。
ザザキの表情はきれいだった。ふわっと優しく微笑んで、噛みつきたくなるほどおいしそうな唇が言葉を紡ぐ。
「逆だよ。オマエが俺のこと、好きでもなんでもないって気がつくと思ってたんだ。……だから、オマエがオレに噛み付いた時、嬉しいとすら思った。……オレはまだ、ケタルのことを独り占めしてていいんだなって」
期待したんだ。ザザキはそう言った。そうして、ニヤリと笑う。それは獲物を仕留めたときの、ザザキがしょっちゅう見せる笑みだった。
「もう逃げられねえよ」
それは俺とザザキ、どっちのことだったんだろう。しなやかなからだが距離を詰めて、今度こそ俺の頬にザザキの手が触れる。
「……俺も期待していいのか?」
「ここまで来て期待とかしょぼいこと言うなよ。…………奪ってみせろ」
奪ってみせろ、って言ったくせに、ザザキは牙を見せて俺の唇と理性を奪う。俺は本能なんかに大好きなザザキを渡さないように、自分の意志でザザキのからだに触れた。
*
「ということで、コイツはオレのつがいになったから」
報告のために王の間に入って、開口一番ザザキは宣言した。
別に言わなくてもよかったけど、俺がザザキに噛み付くところは何人かには見られている。だったら公言しちまえと、どちらともなく結論に至ったわけだ。一時間後には、俺たちは村の公認カップルになっているんだろう。
「なんだなんだ。うまいこといったなら、ケタルも発情期になった甲斐があったな!」
「ジョウエ……王! あなたは発情期がないからそんなことが言えるんだ……」
「ははは! 春がくるたびに体調を崩していたら王は務まらんからな」
ジョウエンにも発情期はないからこの苦しみはわからない。むくれればジョウエンは笑いながらオレの耳を撫でるし、それを見たザザキもあいてる耳を撫でてくる。小さい頃みたいに。
「……わかったことがあるけど、変わらない気持ちだってある。王のこともザザキのことも、家族みたいに思ってるんだ……気持ちはいくつあったっていいだろ? ザザキに言う『好き』には、いっぱい意味があるんだ」
照れくさかったけど、二人の前で言った。ザザキには誓うように、ジョウエンにはあの日の問に見つけた答えを示すように。
「ああ。名前をつける必要はない」
大事にしなさい。あの時と同じようにジョウエンは笑った。
「……大事にする。大事にするからな、ザザキ」
「おー。せいぜい大事にしろや」
俺たちは王の間をあとにする。あとは村の公認カップルになるために、広場に顔を出しに行こう。
それが終わったら、ねぐらでイチャイチャしようと思う。発情期が治まったって、俺はザザキが好きだから。