そうして僕らは途方に暮れる 子猫に噛み癖があったと知ったのは、転職してしばらくしてからのことだった。
*
オレたち三人がおそろいでまとっていた血と硝煙の匂いは、殺しよりも数倍は難しい就職活動を機に各々形を変えた。
オレは配達する新聞から移ったインクの匂い。クローは花家の店先に並んだ色とりどりの匂い。セブンは評判の店が毎朝せっせと焼き上げるパンの匂い。
確か、あの子供は甘い匂いがした。孤児院に預ける時にセブンはもう会えないと自嘲気味に呟いていたが、オレたちの健全な働きっぷりを思えば会いに行くのも悪いことではないだろう。まぁ、あの年だ。オレたちのことなんて覚えていないと思うけれど。
オレはクローがわざわざ買ってきた花を見ながら、インクの黒が滲む手でセブンがもらってきたパンを食べる。オレとクローは人殺しをしていたときと変わらない様子で喋るけど、セブンはなんだか憑き物が落ちたような顔で笑う。
「今度休みがあうようなら、バカンスもいいかもね」
クローがいちごのジャムをたっぷりとクロワッサンにつけて口を開く。クローの舌はジャムと同じくらい赤い。
「別にいいが、おまえたちは休みになると二人して寝てばかりだろう。バカンスよりよっぽど楽しいことがあるようだからな」
「健全なスポーツだよ。混ぜてやれなくてごめんな、セブン。拗ねないでくれよ?」
「構わないさ。ただ、今度隣人から苦情が来たら控えてくれ」
セブンはワーカーホリックだから、毎日と言っていいくらい小麦粉をこねに行く。それに比べて俺たちは最低限稼げばいいと隙あらば休みをいれるため、なんだかんだセットで休みになっていることが多い。そんでもって、愛し合うオレたちが暇な時間にやることはひとつなわけで。
「僕らは覚えたての子供でも猿でもない。早起きしてみせるよ。次の休みを教えて?」
猿のことは知らねえが、多分覚えたての子供よりも励んでいる気はするが。
セブンが口にした休みは遠く、それよりも早くオレたちの休みは被ってしまう。オレはセブンが帰ってきたときに呆れられるようなことがしたいし、きっとクローだって同じ気持ちなのだ。
*
血に濡れた子猫のことをヤンチャだと思っていたが、ベッドの上では随分イイ子に我慢をしていたようだ。それを知ったのは子猫が春の匂いをまとうようになってすぐのことだった。
「ファング、噛んでいい?」
甘えるような声に応える間もなく、思い切り首元に噛みつかれた。いてえ、と声を出しても食い込んでくる歯の鋭さはかわらない。
「……ずっとこうしたかった」
ぷはっ、と。呼吸と同時に出した声はじっとりと濡れていて、まるで夜の海で溺れていたかのようだ。それは独り言のようにも聞こえたが、クローが背中にぐりぐりと頭を押し付けてくるものだから呟きは自分へのメッセージだと認識した。
普段から好き勝手してるんだ、別にやればいいだろう。そう言いかけて、やめた。クローはそうするわけにはいかなかったのだと、そのとき初めて思い至ったのだ。
いわゆる、ハニートラップ。ネクタイを解いて、シャツのボタンを外し、ジッパーを下げて相手を誘惑するような仕事はオレの担当だった。だからクローはオレの肌に何も残せなかったのだろう。そりゃそうだ。誘惑してきた男のからだに情事のあとがあったら萎える。いや、それで興奮するようなやつを相手にしたことだってあるけれど。
きっと、ずっと我慢していたのだろう。この肌に痕をつけることを。
その日はさんざん焦らされた。やるようになってから一番長いペッティングでどろどろにされたのはこの日だろう。体感で一時間以上マーキングされた肌はところどころが歯型まみれのキスマークまみれ。確認できる範囲だけでも大惨事といった様子のからだはいろんな液体でぐちゃぐちゃだった。そしてクローはオレの背中に触れながら満足そうにしていたので、背中はもっとめちゃくちゃなことは想像に難くない。
でも、そうやってちっぽけでガキっぽい独占欲を満たしながらうっとりとしているクローはかわいかった。必死にオレを求めて、必死にオレに突っ込んで腰を突っ込んで、こうやって必死に痕を残して。オレは性欲を満たすためにクローに抱かれているが、こういう様子を見ていると、棒さえあれば誰でもいいとは思えないのだ。
そんな感じで、オレのからだが商売道具のうちはできなかったことができるようになってからのセックスには新しい遊びが増えた。オレのからだを使ったショーを見て育ってしまったクローは貪るようなセックスしかできなかったくせに、最近のクローはなぜか純愛小説を買ってくるようになったので、まどろっこしいセックスをするようにもなってしまったのだが。
オレは触れるだけのキスや快感に直結しない手はうっとうしいタイプだったのに、最近は絆されているのもいただけない。あと、花の匂いでクローのことを思い出してしまうのも、らしくない。
匂いは脳に直接訴える。血の匂いに興奮するような生活だった。でも、やわらかい香りのセックスを知ったのは悪くないことだと思う。
「……ファング、考え事?」
ぼんやりとしていたオレの背中に声が触れる。この声も、随分と低くなった。身長は相変わらず低いのに、声だけがどんどんと大人びていく。
「おー。組織にいた頃のクローのセックスは随分とお行儀がよかったなって、考えてた」
「え? 今のほうがいい子だろ……変なファング」
きっと、美しい小説の主人公を真似ているに違いない。ぎし、と軋んだスプリングに気を取られていたら、背中から抱きしめられた。肩に唇が触れる。化学繊維のシャツがさらさらと背中を撫でる。コイツ、なんで服着てんだよ。どうせ脱ぐのに。
「っていうか、ファングはなんで服着てないんだ」
不満げな声。どうやら、オレとは真逆のことを考えていたようだ。
「どうせ脱ぐだろ。脱がせたかったか?」
「……ファングは即物的すぎる」
クローはこういうやりとりを求めるようになった。見つめ合う、キスをする、抱きしめる。気分によってはうっとうしいとはねつけてやるのだが、最近は受け入れる日のほうが多い。
「昔はファングがほしかったから必死だった。でもいまは愛し合いたいんだ。だから、こう……ゆっくりしたいんだ……」
クローの手が気持ちを伝えようと必死に空気をこねる。概念的な話はオレもコイツもヘタクソだ。
「はいはい。ゆっくりしような。愛してるよ、クロー」
「……子供扱いはやめて」
「なんだよ。素直に愛を囁いてるってのに」
オレを捕まえる腕に力が入った。気持ちいいところにはまだ触れてこない手がこんなにもあたたかい。
「……愛してる。大好き」
こっち向いて、と声が聞こえた。オレは人肌の檻に囚われたまま、首と肩を回してクローを視界に入れる。
クローが子猫のように舌を出した。いちごのジャムよりも赤い舌。きっと、ジャムよりも甘い舌。
「オレも好きだよ」
たんなる独り言だ。呟いて舌を絡めた。クローが笑っているのを見て、オレはなぜか満足して目を閉じる。
セックスのとき、いつも泣きそうな顔をしていた子供はもういない。大好きな人を取られまいとしがみつく子供はもういない。ニコニコ笑ったり、うっとり笑ったり、幸せそうに笑ったり。そういうセックスができるようになったのは、悪くないと思っている自分が妙に笑えた。
*
それなのに。
大惨事という言葉はこういうときのためにある。
「……ファング、起きて」
「うえ……ぜってーヤダ」
まず匂いがこもってる。もう明らかに『やりました!』って匂いが充満してる。まあ、事実やりました。
月に恥じらいながら始めた営みは、いまや朝日に照らされている。からだが資本の仕事をしていたんだ。オレたちはかなりの時間、ぶっ通しでやりつづけるだけの体力を備えている。オレに至っては薬漬けでセックスさせられたことだってあるんだ。頑丈さで言えば、ちょっとやそっとじゃ壊れない。なおかつ、オレは快楽に飽きないしクローはオレに飽きない。そして明日は休み。つまり、どちらかが気絶するまで終わらないのだ。
「……おい、窓空けてこい」
「うう……腰痛い……」
「オレが痛くねえわけねーだろ。おら、男をみせろ」
「散々見せた結果がこれだよ……もう……」
まあ、この惨事の責任はクローのほうがちょっとだけ重い。と、オレは思っている。クローもオレと同じ考えらしく、どっこいしょ、だなんてひどく年寄りくさいこと悲鳴をあげながら、ゆっくりと窓に向かっていった。
「……タオル、敷いたのにな」
これもいつものことなのだが、シーツに敷いたはずのタオルはぐしゃぐしゃになってベッドの下でしょんぼりとしていた。そしてタオルが引き受けるはずだった液体を、シーツがその身に浴びてぐったりとしている。まあ、オレもクローもシーツと同じくらい汚れているのだが、オレたちを洗うよりもシーツを洗うのは手間なのだ。
はぁー、と息を吐いて起き上がれば、からだを支える手に何かがコツンと当たった。目をやればそこにはボタン。ああ、これはあれか、オレがクローのシャツを引っ張ったときのだろう。覚えているわけではないが、そうとしか考えられない。オレは服着てなくてよかった。オレは賢い。
枕はぺちゃんこで、なんかカピカピしている。これは絶対にオレの唾液。汚れているのがカバーだけでありますように。
ふらふらとクローが戻ってくる。倒れ込んでくるかと思ったが、シーツの具合を見て怯んだらしい。ぺちょん、と床に座って、膝を抱えて座る。
「……片付ける?」
「セブンにやらせるか?」
「させられるわけないだろ……」
うっすら朝日が差し込んだ部屋。電気をつけることも忘れてオレたちはうなだれる。
「……寝てからやる?」
「……どこで寝んだよ」
オレたちは、今日の夜までにこのベッドをどうにかしないと眠れないのだ。ベッドが別々なら片方のベッドに逃げられたのに、オレたちは同室で同じベッドで抱き合って眠っているのだ。詰みだ。やるっきゃない。
「とりあえずシャワー浴びるか……」
「僕も……もうべとべとだ……」
「一緒に入ってもいいが、盛るなよ?」
「バカか? そんな体力あるわけないだろ……」
純愛小説を参考にしても、最終的にはこうなってしまうのだ。ラブストーリーが描かない後始末のために重い腰をあげながら、オレたちは水をかぶるためにシャワールームへと向かうのであった。