月に願いを 全てを知っているわけではない。でも、うつくしい人だと思う。
スラムでは見たことのない銀の髪も、あとからハチミツというものを知ったときにそっくりだと思った瞳の色も、その生地だけで一週間は食っていけそうなスーツを着こなす佇まいも、切れ長の瞳を細めて笑うさまも。好ましいものはいくつもあった。
そして、なにより優しさと生き方が好きだった。本気ですべての人の幸せを願っている、その危うげな精神が。
*
「外面に騙されてんだろ」
エディはレナートのことが嫌いだった。嫌いだと明言こそしなかったが、二人きりになるとエディはとたんにレナートを悪く言う。エディの言う『妥当な評価』はおれの気持ちとはどんどんかけ離れていって、だんだん温度差が生まれるのがわかる。
「そりゃ、仕事の時は取り繕うと思う。でも普段はいいやつじゃないか」
レナートはいいやつだ。おれはエディの前で、たびたび口にしてしまう。きっと、エディにレナートのことを好きになってほしかったんだと思う。
仕事なら表情を変える。それがわからないほどおれたちは子供ではないはずだ。おれだって仕事の時は舐められないようにガキっぽい顔を半分隠すし、エディだって似合わないサングラスをして相手を威圧する。ましてやレナートは交渉役なのだから、おれたち以上に表情を変える。皮肉っぽくなって、焦らすような言動で、蛇みたいに笑う。
でもそれは仕事中の話だ。おれはレナートが柔らかく笑うのを知っている。しょっちゅう喧嘩してても、疲れてるキールにハーブティーをいれたりしている。エディだって、レナートのいれたハーブティーを飲んだことがあるはずなのに。
「普段のレナートはやさしい。知ってるだろ?」
同じものを見てるのに、意見が異なる。おれはそれがちょっと悲しかった。でも、エディはおれの言葉を鼻で笑う。
「はっ、騙されやがって……だから、その『普段』が外面だって言ってんだ」
「……どういうことだ?」
よく意味がわからなかったが、やっぱり感情が交わらないことだけはわかる。これくらいでおれたちの友情は変わらないけど、ちょっとだけ胸がざわついた。
「……エリート様がおれたちを仲間だと思ってるわけないだろ」
冷たい、考えたこともなかった言葉だった。同じイグニスの仲間であるレナートに対してそう考えることは、少し不誠実だと文句を言いたくなった。でも、エディと歩んできたこの人生のなかに、この言葉を否定できる材料は見当たらない。
「……そうは思わない」
「おまえはいいやつだからな。騙されてんだよ。……あいつがおれたちに本心で接してるわけがない。おれたちはスラムのクズとしか思われてないんだ」
がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。だって、レナートにはそれができてしまう。レナートは頭が良くて、心を隠すのも殺すのもうまい。横で仕事をしてきたおれはそれをよく知っている。でも、レナートがそういう残酷なことをおれたちにするはずはないんだ。肺がざわめいて、もやもやで心が満ちたのに、口から反論は出てこなかった。レナートがそういうことをできない理由はないし、しない理由は信用ひとつだけだ。エディは繰り返した。「おれたちみたいなスラム育ちを、あいつは下に見てる。対等であるわけがないと思われてるんだ」
おれはレナートのことを信じてる。でも、ずっと一緒だったエディのことだって信じてる。エディが間違っていると思いたい。でも、おれの味方はエディだし、エディの味方はおれなんだ。
どっちが真実でもおかしくない。俺の信じるレナートとエディが思うレナートは永遠に交わらないんだろう。
ちょっとだけ悲しかった。苦し紛れに口にする。
「じゃあ、リーダーとか、キールは?」
彼らだって、エディの言う『エリート』だ。
「は? 知らねえよ」
どうでもいいとエディは言う。じゃあ、なんでレナートばかりを目の敵にするんだろう。それはどうしても聞けなかった。レナートをきれいだと思っていることだって、ずっと内緒にしてる。
きっとおれたちには秘密が増えた。全部をさらけ出すことが友情だとは思わないけれど、少しだけ、形のない不安があった。
*
目を覚ましたのは真夜中だった。子供みたいな理由で目が覚めてしまったんだ。それから、目を閉じてもずっと眠れない。ここには数える星もない。きっと、少しだけ退屈だった。
レナートがおれたちを裏切る夢を見た。エディに言えば、笑うだろうか。夢の中ではエディはおれと一緒に悲しんでくれたんだけどな。
夢の中のレナートは、たくさんの敵を引き連れてイグニスにやってきた。エディに「裏切り者」と声を荒げられて、笑ったんだ。何がいけなかったんだろう。おれたちはスラムの出だからだろうか。ちょっと考えて苦笑してしまう。夢の話だ。こんなことで悩むのは、レナートに失礼だ。
ぼんやり、いつもの席に座っていた。キールはリーダーの席を『お誕生日席』と呼ぶ。おれはエディと並んでいたいのに、キールとレナートを隣にするとすぐに口喧嘩が始まるからふたりは隣にはならない。レナートはおれの横だ。
「…………レナートがバカにしてるの、おれたちよりもキールなんじゃないか……?」
おれはまだよくわからないんだが、エリートはリケイとブンケイにわけられるそうだ。リケイとブンケイは仲が悪い。リーダーは笑っていたから、深刻なものじゃないんだろうけど。
「……おれたちはエリートじゃなければリケイでもないから、レナートには嫌われないと思うんだけどな……」
「理系とは話が合わないだけで、僕はキールを嫌ってはいない」
「うわ!」
背後から声がした。瞬間、気配を感じる。気を抜きすぎていたが、この男はもともと気配を消すのがうまい。猫に似てるんだ。
「随分と大きな独り言だな」
「レナート……びっくりした。いつからいたんだ?」
「理系じゃないからレナートには嫌われない、あたりからだな」
レナートはおれの隣に座る。キールがいないのに、おれの隣に座った。嫌いなやつの横には座らない、と、思う。
どうせ一人だから、明かりは最小限だった。ぼやり、薄暗い豆電球を反射したレナートの瞳が光る。猫の持つ、二つの宝石に似たそれは、やっぱりきれいだった。
「……レナートも眠れないのか?」
「眠れない? ……眠っていいなら眠りたいな。だが、まだ資料整理が残ってる……眠気覚ましにコーヒーを飲みに来たんだ」
「こんな時間まで?」
「いつものことだ」
月だって油断するような時間まで起きているのも驚いたが、それがいつものことなのはもっと驚いた。そして、やっぱり考える。こんなに遅くまで頑張っている人が、悪いやつだとは思えない。でも、仕事を抱えているレナートを見てエディは言っていたっけ。おれたちを信用してないから仕事を渡さない、って。悲しい考えを頭から追い出そうとしていたら、レナートが聞いてきた。
「……おまえは?」
「あ、おれは……」
レナートが裏切る夢を見た、だなんて言えなかった。そんなこと言ったって、レナートは笑ってくれるはずなのに。
「……眠れなくて。ちょっとぼんやりしてた」
「そうか……ちょっと待ってろ」
レナートは立ち上がって、給湯室に向かった。レナートはきっと、おれに飲み物をくれる。当たり前に考えてしまうほど、おれはレナートの優しさを信じている。
でも、それが本心じゃなかったら?
悲しくて失礼な考えだ。それでも、それだけおれにとってエディの存在と言葉は大きかった。違うって思っても、違うって無視できない。正しいのは自分だと断言できない。ずっと一緒にいた存在が間違ってるって、言い切れないんだ。
「……ぼんやりしてるな」
柔らかい声だった。こつ、とテーブルにマグカップが置かれる。中では白い液体が揺れていて甘い匂いがする。ホットミルクだ。レナートのマグからはコーヒーの匂いがした。自分の飲むコーヒーとは別に、わざわざ作ってくれたんだ。
「……ありがとう。いい匂いがするな」
「蜂蜜と……ラム酒が入ってる。きっと眠れる」
おれは酒を飲まないけど、酒の入ったミルクは好きだった。教えてくれたのはレナートだ。みんなで流星群を見た夜、酒の飲めないおれのために、ホットサングリアの代わりだと作ってくれた。そうだ、星座の名前を教えてくれたのもレナートだ。
やっぱり、レナートはいいやつだ。いや、いいやつであってほしい。レナートが悪いやつだったら、傷つく思い出がたくさんある。おれは星を見るたびに傷ついて、猫の目を見るたびに憂鬱になり、二度とラム酒入りのホットミルクが飲めなくなる。そんなのは悲しい。そんなのは嫌だ。
エディはいつも、ホットサングリアを飲むたびに憂鬱になるんだろうか。それはいやだな。大好きな友達には、大好きな人を嫌ってほしくない。
ああ、もしかしたらおれは、レナートのことが特別に好きなんだろうか。
「……おまえは、僕に嫌われていると思ったのか?」
ふいに、意識が引き戻される。呟いたレナートの表情はいつもどおりで、おれがどんな返答をしてもきっと変わらない。
「わからない……でも、おれはレナートに嫌われたら悲しい」
レナートはそうか、と息を吐いた。不用意な約束も慰めもない。それが、とても誠実に見えた。
淡い灯りでオレンジに染まる髪。滲む瞳。暗闇にぼやりと溶け込む白い肌。レナートがきれいに見えるのは、もしかしたらおれがレナートのことを好きだからなのかもしれない。この人はおれに嘘をつかないって信じていたかった。いつか裏切られるかもしれないって恐怖よりも、このきれいな人を疑って生きる苦しみのほうが何倍も大きい。
誓うように、口にした。
「レナートはいいやつだな」
「……なんでいきなり」
レナートは少し慌てていた。おれはレナートが慌てるのを、初めて見た。
「……残念ながら、いいやつではない。……僕がいいやつなわけ、ないだろう」
照れた様子はなくて、少し悲しそうだった。別に、いいやつじゃなくてもいい。ただ、そのまま生きていてほしい。
「別にいい。自分勝手な話なんだ。おれが、レナートをいいやつだって思っていたいんだ」
おれもエディとおんなじことしてるって気がついた。エディはレナートに、こうあってほしいって理想を持っている。冷たくて、悲しい理想を。エディがレナートを薄情な人間だと思っていたいように、おれにも願いがある。こうやって、期待してる。
自分勝手な考えだ。でも、レナートはそんなおれに微笑んだ。
「……僕は、おまえみたいな人間をいいやつだと思うよ。ダニー」
「こんなに自分勝手なのに?」
「自分勝手ないいやつがいたっていい」
レナートはコーヒーを飲み干して立ち上がる。「眠れないなら僕の手伝いをするか?」だなんて素敵な提案をするもんだから二つ返事で快諾すれば、冗談だと笑われてしまった。少しだけ残念だ。でも、これはおれが信用されていないからではない。そう思えるくらい、レナートの優しさを信じている。
「おやすみ、眠れそうか?」
「ああ。……ありがとう。レナートも無理するなよ」
おれたちは別々の部屋に帰る。二人しかこのことを知らず、明日が始まる。
レナートはおれにどんな理想を持っているんだろう。なんの感情ももらえないよりは、なにかを期待していてほしい。
それまではできることをやろう。守りきってやろう。どんなに傷ついても、どんなに殺しても。おれが生きて、レナートが生きてる時間はずっと。力とか、暴力とか、刃でなんとかできることはしてやろう。
唯一のナイトに選ばれたいと強く願った。ああ、また期待している。