開演ブザー「チビ! 勝負だ! 事務所まで先についたほうが勝ちだからな!」
言うが早いか、アイツはあっという間に駆け出した。いや、オマエはさっきまでたいやきを食べていたはずだろう。少し円城寺さんと話してただけで、すぐこれだ。円城寺さんに視線をやれば、その目は『いってこい』と告げている。別に行く義理なんてないのだが、例え無茶苦茶なオレ様ルールに基づいた判定でも、得意分野で負けるのは癪だ。
距離は空いてしまったが、足なら俺のほうが早い。なびく銀の髪を捉えるべく、俺は思い切り駆け出した。
「チビ! 勝負だ! 先に食い終わったほうが勝ちだからな!」
宣言するときには、もうコイツはチャーシューを頬張っている。俺はと言えば、ラーメンを受け取ったばかりで割り箸すら割ってない。
「……毎度思うが、オマエは勝手に勝負を始めるだろ。スタート地点が同じじゃないと、フェアじゃない」
「終わる前から負けた言い訳してんじゃねーよ。バァーカ」
本当に言い訳だと思っているならコイツはバカだ。バカなのはわかってるが、思っている以上にバカだ。
飯を食うのはコイツのほうが早い。いや、同じくらいか。ぼんやりしていたら、もうコイツはラーメンを半分近く食べ終えている。
「味わって食え。バカ」
付き合う義理はない。今朝は競争してやったけど、飯くらいゆっくり食いたい。負けるのは確かに癪なのだが、それよりは面倒臭さが勝った。いや、相手をしなければしないで面倒なのだが。
「なんだよ、逃げんのか!?」
逃げるもなにも。本当にコイツは人の話を聞いていない。さて、どうしよう。俺は考えを伝えるのがヘタクソだし、そもそもコイツの意固地を解きほぐす手段も知らないし。
「漣、もうちょっと味わって食べてくれよ」
悩んでいたら円城寺さんが助け舟を出してくれた。俺はこういうとき、黙ってるほうがいいと思ってる。
「……うるせー」
口では反抗してみるものの、明らかに食べるスピードは落ちた。これなら、ゆっくり飯が食えそうだ。
「チビ! 勝負だ! オレ様は二十点も取ったぜぇ!」
「俺は三十点だ。俺の勝ちだな」
「あ? オレ様はこれ足したらニ百点は軽く取ってんだよ!」
だからオレ様の勝ち! と得意げに笑うコイツに頭痛がしてくる。またオレ様ルールだ。そんなこと言ったら俺だってそれ以上の点数を取っているが、コイツがたいそう嬉しそうなので黙っている。この発想は俺にはなかったもので、負けたとは思わないけれど、そうやって積み重ねていく様には少し感心しているのだ。
絶対、言わないけれど。
「チビ! おいコラ! 勝負しやがれ!」
爽やかな朝だ。初夏の風は心地よい。それなのに、耳が騒音を拾ってしまってまいってる。振り向くことはしない。でも、見ようが見まいがアイツはいるのだ。
「断る。勝手にやってろ」
これはいつもの返事だ。アイツが俺にくっついてくるようになってから、お決まりの返事。そうして、ふと考える。俺はいつから、アイツの勝負を受けるようになったんだろう。俺たちのスタートはどこだろう。
「っ……んだよ」
急に足を止めたせいで、コイツが俺の背中にぶつかった。くる、と振り向けば、コイツは明らかにうろたえている。ぶつかることのない視線を捕らえるでもなく、俺はぼんやりと呟いた。
「オマエ、覚えてるか?」
「……なにを?」
警戒した、声。
「俺が初めて勝負を受けた日」
コイツのことなんて、殴ってしまった相手としか思ってなかった。最初は申し訳無さがあって、その次はうっとうしいなって思って、だんだん、ずっとそばにいる人間がいることが当たり前になって。
「…………言いたくねえ」
「なんでだ」
覚えているふりだろうか。違うと思う。きっと、本当にコイツは覚えている。
「……チビが、覚えてねえから」
拗ねた子供のような声だった。表情だってふてくされていて、悲しみや怒りなどは見えてこない。なんで俺が覚えていないだけで、コイツはこんな顔をするんだろう。
妙な雰囲気になってしまった。ちょっとだけ、気になっただけなのに。
「……別にいつでもいいだろ! 今、勝負しやがれ!」
コイツの顔が近づいて、まつげが見えるほど距離が縮まる。目の色も、髪の色も、肌の色も、全部が当たり前になった。俺はいつから、コイツが当たり前になったんだろう。
「……勝負してやる」
「うるせえ! いいからとっとと勝負し……あ?」
「勝負してやるって言ったんだ」
コイツにとって、勝負ってなんなんだろう。勝っても負けてもコイツはそんなことなかったみたいに次の勝負を挑んでくる。きっとあのテスト用紙みたいに積み重ねているんだ。スタートも忘れた俺とは違って、きっと、ずっと。
「で、なにで勝ち負けを決めるんだ?」
コイツはきっといつまでも勝負を仕掛けてくるんだと思う。コイツが挑んでこなくなった時は、きっと俺が夢を諦めたときなんだろう。銀色の、鏡。俺が戦い続けていく限り、コイツはずっとそばにいる。そんな確信があった。
負けるつもりはない。この先も、ずっと。
「……あそこの自販機までだ!」
いつものような当たり前の声じゃなくて、本当に嬉しそうな声を聞いた。駆け出そうとするコイツの肩を掴む。俺は言う。
「よーい、スタートで始めるぞ」
息を吸い込んだ。これはきっと、初めて言う言葉。
「よーい……スタート!」
俺たちの声がピッタリと重なる。同時に俺たちは駆け出した。