Funeral まず、蝉の羽音がした。真夜中に開いた冷蔵庫の音のように断続的に脳にこびりつくノイズから逃れるべく、俺は目を開く。
見えたのは人間の後頭部。そして、視線を少し上に向ければどこまでも高い夏の青空があった。冗談みたいな入道雲を彼方に従え、暴力的な視線で地上を焼いている。
陽炎が立ち上るアスファルトの上に俺たちはいた。俺と、見知らぬたくさんの人間は誰も彼もが真っ黒な服を着て、一列に並んでいる。音は蝉時雨以外には存在せず、列は一向に進まない。
喪服、なのだろう。ここにいる全員が着ている黒い服は、きっと喪服だ。俺は自分の姿を確認する。同じような喪服を着て、手には切り分けられたスイカを持っていた。
列はどこに通じているのだろう。視線をやれば、遠くのほうに時代劇で見るような建物が見えた。名前は知らないが時代劇で罪人を裁くのは決まってあの手の建物だ。葬式には似つかわしくない場所を目指して、葬式の参列者としか思えない人間が並んでいる。
ふ、と後ろを見れば顔面が真っ黒に沈み込んだ人間がいた。手には金魚鉢を持っており、金魚鉢の中には焼け焦げた蛾が三匹入っている。うまく見えないけれど、参列者は皆、なにかしらを持っているようだった。蝉の音と、真夏の熱。ほのかに線香の香りがした。
日差しは刺すように、等しく全てを焦がしていく。この真っ黒な服が燃え上がらないのが不思議なほどの熱だ。逃れようにも、俺は列に並んでいる。一向に進まない列に並んでいる。目的の見えない列に、並んでいる。
「マユミくん、大丈夫?」
ふ、と横を見たら百々人がいた。いつものようにカラフルなパーカーを羽織っている。自分の服装を棚に上げて、暑くはないのかと心配になった。
現状を説明したかったがうまく言葉に出来なかった。俺は現状を理解できていない。なぜ俺は喪服を着て、スイカを持って、列に並んでいるのだろう。
「百々人、」
名前を呼んだら、百々人が俺の手を取った。俺の両手を塞いでいたスイカはいつのまにか地面に落ちていてぐちゃぐちゃになっていた。さっきまで手のひらを湿らせていたみずみずしさは地面を伝い、びっしりと蟻が集っている。
「こっち」
百々人はいとも簡単に俺の手を引いた。俺は魔法が解けるように、あるいは収穫される大根のように、列から引き抜かれる。
列から抜けて見る人の群れは異常だった。皆、顔が真っ黒に塗られていて、それぞれが好き勝手なものを持っている。両手一杯の角砂糖、ワインのボトル、ぐずぐずに腐ったトマト、車椅子のミニチュア、聖書。どれもこれも、太陽の熱で溶けそうに歪んで見えた。
「……百々人、あれは一体なんの列なんだ?」
相変わらず蝉がうるさい。ここにはアスファルトがあって、遠くに建物があって、喪服に身を包んだ人間の列があって、俺と百々人がいる。それだけだった。
「……なに言ってるの?」
参列者のなかに知り合いはいない。いや、どの人間も顔面が真っ黒に塗られているものだから判別もできない。声も発さず身じろぎひとつしない彼らはまるでマネキンのようだった。
「キミのだよ」
「俺の?」
「うん。マユミくんのお葬式」
驚く暇も無く百々人が俺の手を引く。俺たちは列の向かう先とは逆方向に歩き出した。
「こっち」
俺はスイカでべとべとになった手のひらが百々人を汚さないかをずっと気にしていたが、百々人の手はずっとさらさらとしていて気持ちが良い。ざり、と歩を進めるたびにアスファルトに散った小石が鳴った。
「……あんなの、ただの偽物だから」
百々人の歩調が早くなる。まるで、何かを振り切るように。横目に見やった参列者は動かずに白日の下にたったひとつの手荷物を晒している。重厚なネックレス、分厚い氷、折り畳まれた白衣、カキフライ。俺の葬式だと百々人は言った。彼らはなんのために、あんなものを手にしているのだろう。
気がつくと砂利道を走っていた。いつの間にか列は見えなくなっていて、百々人はようやく俺の手を離す。マユミくん、と俺を呼んで、百々人は微笑んだ。
「ついたよ、マユミくん」
そこは小さな鳥居だった。赤と橙の中間のような色がところどころ剥げている。百々人がそこを通り抜けるから慌てて追えば、踏み入れた先は小さな六畳一間だった。部屋の真ん中には小さなテーブルあって、そこには麦茶が置かれている。そういえば夏だった、と窓ガラス越しに見上げた空からは雪が降っていた。それなのに蝉は鳴き止まず、室内に入ったはずなのに背中はじりじりと熱い。
百々人は押し入れのまえで俺を待っていた。俺は声をかける前に、その視線に従って押し入れを開ける。押し入れを開くと廊下に出た。まっすぐにまっすぐに暗い廊下を進んで、進んで、明るいほうへと向かう。
進んだ先は庭だった。教科書に載っていそうな立派な日本庭園だ。そこに敷き詰められた砂利の上に、俺が横たえられている。
「……あれは、俺か?」
「うん。マユミくんのお葬式だから」
見つめたそれは眠っている俺にしか見えなかった。作り物めいた光沢はなく、ただひたすらに俺だった。あんなにも完璧な俺があんなところにいるのなら、俺自身は一体何者なんだろう。俺の葬式に参加している、この俺はなんだというのだろうか。
「……先ほどの参列者も俺の葬式に来ていたのか」
「うん。でもね、あんな人たちは偽物。だから僕が独り占めしちゃったの」
百々人は笑う。百々人は喪服を着ていないし、あの参列者たちとは違い何も持っていなかった。そうして、からっぽの手で俺の手を引いてくれた。
「……嬉しかったんだ。マユミくんが僕を好きになってくれて、本当に嬉しかったから」
「え?」
百々人の手が、俺の手に触れる。
「好きって言ってもらって嬉しかった。それにね……僕も、マユミくんのことが大好きだから」
言葉には熱が灯っていた。「好き」という言葉は容易く口にするような好意ではないと簡単に理解が出来た。伝えたわけもない気持ちを百々人が受け止めている。否定も訂正もできずに俺は少しだけ考える。
百々人に「好きだ」と伝えたのはそこに転がっている死体となった俺なのではないだろうか。想像する。百々人に愛を告げて、ぱたりと倒れてしまった俺自身を。
なぜだろう。俺は俺自身よりも死んでしまった自分の方が、よっぽど『眉見鋭心』に相応しいとすら思ってしまった。
「……百々人は俺のことが好きなのか?」
「うん」
大好き、と百々人ははにかんだ。なんだか都合のいい夢みたいだと思って、ようやく気がつく。
夢、なのだろう。夏空も、雪も、俺の死体も、すべて。
「俺は、百々人が好きなのか?」
「うん。そう言ってくれたでしょ?」
屈託のない笑みは俺の望みのようだった。これはきっとそういう夢なんだろう。だとしたら俺の葬式にはなにか意味があるのだろうか。どこまでが俺の望み──あるいは悪夢なのだろう。
「だから僕は不幸になるよ」
「……百々人?」
「キミがいなくなったら、ちゃんと不幸になる」
俺の肩に額をくっつけて百々人は口にする。キミを裏切ったりしない、と。
何が裏切りだと言うのだろう。俺はそんなことを望まない。俺が百々人の不幸を願うなど、ありえない。
「百々人、俺は」
突如、熱風が頬を掠めた。燃えるような熱が喉に流れ込んで肺を焼く。視線を動かせば、横たわっていた俺の死体が燃えていた。炎は暴力に等しい熱で周囲を鮮やかな朱色に染めている。
「マユミくん、大好き。大好きだよ。……本当はね、ずっと一緒にいたいけど……」
百々人はもう俺などいないと言うように、俺に背を向けて死体へと歩き出す。燃えさかる炎が髪を揺らして、皮膚を赤く彩っていた。
「危ない!」
咄嗟に手を伸ばしたが百々人に触れることはできなかった。何度手を伸ばしても、俺の手は百々人のからだを通り抜けてしまって触れられない。俺の姿も、声も、手も、何もかもが百々人には届かない。百々人は燃えている俺の死体に手を伸ばす。
「……でも、ダメみたい」
百々人は屈んで、燃えている俺の死体を抱きしめた。炎は激しく燃え立つというのに、その火が百々人を焼くことはない。
「ごめんね」
***
目が覚めた。夢が終わったと理解する前に、酷い汗をあの炎のせいだと思った。
悪夢、なのだろう。それなのに俺は夢で百々人に言わせたあの言葉が忘れられない。あの微笑みで繋ぎ止められた、俺ではない『眉見鋭心』の言葉が未だに胸に残っていた。
それでもルーティンはからだに染みついているもので、事務所の扉を開けるまで俺は普段となにひとつ変わらなかった。しかし、事務所のソファーに百々人を見つけた時、どうしようもなく心がざわついた。
「あ、マユミくん。おはよう」
「……ああ、おはよう」
向かいに座った俺に百々人は飴を差し出してきた。礼を言って受け取り、ポケットに入れる。
「……妙なことを聞いていいか?」
困らせるであろう自覚はあった。
「ん? なぁに?」
困ったように百々人が笑い、身構える。
「愛するものを失ったら……愛し合った相手を失ったら、百々人はどうする?」
あんなものはたんなる夢だ。
「……ああ、そんな詩があったね。愛するものを失ったら、自殺しなくちゃいけないよ、って」
百々人が飴玉を口にする。ばき、と噛み砕かれる音が聞こえた。
「あれは文学作品だろう」
「うん。……そうだなぁ、僕は絶対死んだりしないよ。死ぬの、いやだもん」
「……そうか」
俺はその言葉に心底安堵した。夢で見た、あの痛ましいオレンジ色を思い出す。いつまでも燃え続ける炎の中で、ひとつも欠けることなく俺を抱きしめていた百々人の瞳を思い出す。
それなのに百々人は口にする。まるであの夢を再演するように。
「だから、精一杯不幸になろうと思うよ」
「……そうか」
あれは夢ではなかったのだろうか。それともまだ俺が夢の中にいるのだろうか。抗うように、俺は自分自身の心に一般論を被せて投げかけた。
「だが、それは百々人を愛した人間の望みではないだろう」
「そうだね。……でも僕はそれ以外に愛し続ける方法がわかんないから」
好きな人のこと、ずっと好きでいたいんだ。
そう答える百々人はどこか幸せそうだった。初恋を前に目を伏せるようなあどけなさがあった。見惚れたのかもしれない。言うことがなかっただけかもしれない。ぼんやりとした俺に、百々人が問い掛ける。
「マユミくんはどうなの?」
「……ああ、俺か? 俺は……どうだろうな」
考えたこともなかった。そもそも俺は誰かを──肉親以外の誰かを愛することを考えたことがなかったのかもしれない。
夢で百々人に好きだと言ったのは、やはり俺ではなくあの死体だったのだろうか。俺は誰を失ったら、なにをするのだろう。愛した存在を、喪ったとしたら。
それなりの沈黙があった。百々人は軽く息を吐いて、船を見送るように口にした。
「……マユミくんは誰かに残されても幸せになってほしいな。それが、どんなに愛した人でも」
百々人はふたつめの飴を取り出して口に含んだ。コロコロと飴玉を転がしながら、会話が進展するのを、あるいは終わるのを待っている。
「……俺が、百々人を好きだと言ったら?」
ばき、と飴が砕けた。
「俺が百々人を失うときがきたら、百々人は俺を残すときにもそう願うのか?」
「僕が……キミを……」
仮定の話が、死人の言葉を借りて浮かび上がる。百々人は粉々になった飴玉を飲みこんで柔らかく微笑んだ。
「そっか。マユミくんを置いていく恋人は、僕なんだ」
嬉しいとか、悲しいとか、そういう感情は見えない。俺は納得したように目を細める百々人へ向けて言葉を続けた。
「……そうだとしたら、望みは変わるのか?」
「望み?」
「不幸を……愛し続ける証明を、望むのか?」
百々人はそれが愛の証明だと言った。俺は愛を証明する手立てを持っていない。なぜだろう、俺の不幸が百々人の慰めになるのなら、不幸でいることは崇高な行動にすら思えた。
「ううん。そんなの望まないよ。マユミくんは、もしも僕が死んじゃっても、幸せになってね」
それなのに百々人は言った。俺が言えなかった言葉を、簡単に。
「……俺だって百々人の不幸は願わない」
俺は百々人の不幸を願うことはない。百々人が俺を愛しているのなら、俺がいなくなっても幸せになってくれと、その手を取って願えるはずだ。
だが、俺には百々人が愛する人がわからない。声も、顔も、存在するのかすらも。
「百々人には幸せになってほしい」
「うん」
「後を追うことも、不幸になることもしないでほしい」
「うん。ありがとう」
「……百々人、俺は、」
「やだなぁ。……これは仮定の話じゃないの?」
「それは、」
「マユミくん、キミは僕のことが、」
好きなの? 問いかけはそう続くつもりだったのかもしれない。しかし、それは開いた扉の音と聞き慣れた声にかき消された。
「おはようございます。……あ、百々人先輩、鋭心先輩、早かったんですね」
「あ、……ああ、おはよう」
「おはよう。アマミネくん」
百々人はもう俺の目を見てはいなかった。先ほど俺にしたように、百々人は秀に飴玉を差し出している。
秀は飴玉を口にした。百々人の隣に座った秀は口にする。
「なんか話してましたね。なんの話してたんですか?」
「え? 好きな人が死んだら自殺するかって話だよ」
「……なんかすごい話をしてますね」
そうして、全部がうやむやになってしまった。
百々人は一度「ほんと、そうだよね」と笑って、それきり話題を変えてしまう。
今日の飴玉にはシークレットの味があると百々人は笑った。それを聞いた秀はいまやっているゲームにシークレットキャラがいると言う。もう、死の気配はどこにも存在しない。
夢と、夢のようなやりとりを思い出す。百々人を好きだった自分があの死体ではなく、正真正銘の俺ならいいと思い始めていた。そして、百々人が想いを返す相手が俺ならば、きっとそれは幸せなことだとも思う。そうして気持ちを向けられて、それでも俺がいなくなったあとも百々人の幸せを願う。
でも、少しだけ考えてしまう。喪った俺を想い、悲しみに泣き濡れる百々人の憂いを。
「ねぇ、鋭心先輩」
秀の呼びかけに、自分がどれほど思案に沈んでいたのかを知る。話を聞いていなかったことを素直に謝罪し、会話に加わった。ゲームの話、レッスンの話、学校の話、仕事の話。いくつもの会話が俺の意識を通り過ぎていく。
少しの高揚があった。夢で見かけた感情に巡り会った気がした。百々人のことが、好きだと思った。