Knife リンゴにナイフを突き立てる。駄菓子屋で買ったオモチャのナイフは果実を傷つけることもなく、その紛い物の刃を引っ込ませて大人しく僕の手のひらに収まった。
牛丼よりも安いオモチャのナイフだ。試しに手のひらに当てて少しだけ押し込んでみるけれど、刃は引っ込んで何も起きない。こんなの、ボールペンで刺した方がずっと痛い。
そんな無意味なナイフもどきだが、これは今現在東京都内に潜伏する三六体のマユミくんには覿面に効く。この三六体のマユミくんというのはマユミくんの偽物で、腹立たしいことに彼らは偽物のくせに本物のように背筋を伸ばしてあっちこっちを闊歩している。そんな偽物どもはこのナイフでつつかれると、風船のようにパァン! と破裂していなくなる。
マユミくんもどきはいらない。マユミくんもどきは綻んでいる。例えばマユミくんもどきはリンゴが食べられなかったり、映画を見続ける集中力がなかったり、最強の生徒会長と呼ばれるくせに泣き虫だったり、僕なんかに恋愛感情を抱いていたりする。そんな偽物が三六体もいる。ひどい話だ。
こんなのはマユミくんじゃない。僕は丁寧に、慎重、かつ大胆に、マユミくんもどきにオモチャのナイフを突き立てる。そうするとバラエティでもなかなか聞けないような音が空砲のように東京の狭い空を揺らす。空砲は鳴り響く。何度も、何度も。そんな努力の甲斐あってマユミくんもどきはいなくなった。事務所にも、スタジオにも、生徒会室にも、映画館にも、マユミくんの家にだっていない。それでも僕は探し続ける。僕はちゃんと三六体のマユミくんもどきを刺している。最後にひとり、本物のマユミくんがいるはずなんだ。
もしかしたら、マユミくんもどきはもっとたくさんいるのかもしれない。だとしても、僕はマユミくんを見つけ次第、ナイフを突き立てればいいだけだ。偽物なら呆気なくはじけて消える。本物ならちょっと驚くかもしれないけれど、無傷でケロッとしてるに決まってる。マユミくんはこんなことで死なない。こんな簡単にいなくならない。だから、いままで僕が刺してきたマユミくんはぜんぶ偽物だ。
いるはずなんだ。だから、見つからないってことは、僕が巡り会っていないってだけなんだ。ただ僕が見つけていないだけ。本物は、必ずどこかにいるんだから。
僕はマユミくんを探す。僕は本物のマユミくんを探す。僕は、理想のマユミくんを探す。
日が暮れても、夜が明けても、おなかがすいても、僕はマユミくんを探す。いないはずがないんだ。だって本物のマユミくんはリンゴが好きで、映画を見るときに気が散ることもなくて、まして泣くこともないし、僕のことを好きになるはずもないんだから。
***
ようやく本物が見つかった! 僕の聞いていた三六体だなんて数字はまったくの見当違いで、本物のマユミくんをオモチャのナイフでびっくりさせるまで、僕は四二体の偽物を破裂させる必要があった。
本物のマユミくんはオモチャのナイフで刺されても風船みたいに割れたりしなかった。ただ僕の手元をキョトンと見て、僕がマユミくんの懐からナイフを離したら全てを理解してやられたふりをしてくれた。これがマユミくんだ。綻んでなんかいない、本物のマユミくんだ。こういうちょっとお茶目なところだって、しっかりと本物のマユミくんだった。
また平凡な、愛おしい日々が始まった。レッスンをして、仕事をこなし、ぴぃちゃんが心配しない最低限で学業に勤しみ、とっくに誰も帰ってこなくなった家で弁当を食べる。マユミくんはいつだって本物だったし、僕はそれがどうしようもなく嬉しかった。
それなのになんで僕は不安になるんだろう。不安を振り切るように僕は定期的にオモチャのナイフをマユミくんに突き刺した。一緒に歩いているマユミくんの脇腹に、事務所でくつろいでいるマユミくんの脳天に、少し休むと言って、眠ったマユミくんの心臓に。
そのたびにオモチャのナイフは刃を引っ込めた。そのたびにマユミくんはやられたふりをして少し笑った。僕は二八回マユミくんが本物だと証明した。二八回目で僕はようやく安心してオモチャのナイフを引き出しにしまうことができた。
オモチャのナイフを忘れるくらい時間が過ぎた。季節にすると、ひとつと少し。ある日、裏切るように、突然世界が変わる。
マユミくんが僕を呼ぶ声は、
こんなに甘ったるかったっけ?
甘ったるい、気がする。そんなことはないと思うんだけど、何かが明確に違う気がしていた。変化はコインの裏と表みたいな隔たりじゃなくて、ゆっくりと注がれるジュースが耐えきれずにコップから溢れ出すようなゆるやかなものだった。そうやってテーブルがびしょびしょのべたべたになってから僕は気がつく。こんなの、マユミくんらしくない。
ぴり、と心の端っこが破けたような感覚だ。僕の心はそんなに弱くないはずなんだけど。
マユミくんを空っぽの家に招いた。マユミくんを部屋にひっぱって僕のベッドに座らせた。くつろぐマユミくんに背を向けて、オモチャのナイフを取り出した。
「誰もいないのか?」
マユミくんが聞いてくる。本物になら教えたってよかった。ここにはもう誰もいなくて、それが当たり前なんだって。キミにはなんでも教えたかった。だから、これがいたずらで終わればいいと思ってる。
そっと後ろから抱きしめた。マユミくんが僕の名前を呼ぶ前に、持っていたナイフをマユミくんのおなかに突き立てる。偽物がはじける音が聞こえない。マユミくんが笑ってくれない。そんなはずはない。もっと、もっと、強く、恋人を抱きしめるように、強く引き寄せてナイフを押し込んだ。
聞こえるはずの音の代わりに、マユミくんが苦しそうに咳き込む声が聞こえてきた。
「がっ……あ……」
ごぽ、と液体が溢れる音がしてマユミくんがゆっくりと前のめりに倒れていく。その体を支えるように引っ張ったら、今度は僕の方へと全体重を預けてきた。タコみたいにぐったりとしたからだは柔らかくて、首がぐらぐらしている。びく、と一度だけ腕の中のからだが痙攣した。
「……マユミくん?」
「……もも……と……?」
不思議そうな、弱々しい声が掠れている。ナイフを沈めていた手に生ぬるくてドロドロとした何かが触れた。何が起きたのかを確認しようと手を目の高さまで持ち上げて──その手も、刃も、べっとりと赤いペンキで汚れていることを知る。
「……あれ?」
赤いペンキ、のはずだ。だって偽物なら割れるだけだから。でもペンキの匂いがしない。血の匂いなんてわからないけど、腐った命みたいな生臭さが僕の部屋を覆って正気を削いでいく。生暖かさが手首を伝って、袖口にじわりと染みをつくった。
ゆっくりとマユミくんのからだをベッドに横たえる。マユミくんは何かを訴えるような目をして口をぱくぱくさせているけれど、その喉からは声ではなく血がとめどなく溢れていた。ごぽ、ごぽ、と喉に溜まった血液の海を肺に残った空気が漂って、サイダーみたいに小さくはじけて頬やベッドに赤い染みをつくる。苦しそうにマユミくんが喉をかきむしるから、皮膚が抉られてキレイに切り揃えられた爪の隙間に入り込んだ。
「……偽物? 本物?」
それはマユミくんのことか、ナイフのことか、わからずに僕は呆然と呟いた。
マユミくんの頬をつつく。ぷに、とした感触は偽物も本物も変わらない。
ならば、と手に持ったナイフをベッドに突き立ててみるけれど、その血まみれの刃はあっさりと引っ込んだ。
「……おかしいな。偽物だと思ったのに。キミは僕を好きにならないから、なるはずないから、」
偽物ならいなくなってくれないと困るのに。本物なら笑ってくれなきゃいやなのに。マユミくんが激しく血を吐きながら芋虫みたいにからだを曲げる。その頬にそっと触れた。
「本物か、偽物か、それしかないはずなのに。……なんでキミはこんなにつらそうなの?」
マユミくんは嘔吐するように大量の血を吐き続ける。痙攣するからだにあわせてわずかな振動が伝わってくる。喉をかきむしっていた爪がさっきよりも深く食い込んで、晒された首にうっすらと血が滲む。
「……ねぇ、キミは、さ」
どっちなんだろう。
言うのが怖かった。破裂するかしないか、それ以外で判断できる自信がない。ナイフを使わないでマユミくんを証明できるなんて思ってなかった。言葉がでないまま、僕はただ視線を落とす。
「……も……ひと……おれ、ぁ……」
血液の音に混じって、うっすらと声が聞こえる。なにもできない僕の目を見つめて、マユミくんは僕の手を取った。
僕の手を頬に当てて、マユミくんは泣きそうな顔で微笑んだ。僕を安心させるようなやさしい目を見て、僕は自分が泣いていることに気がつく。
「マユミくん……」
僕は両手でマユミくんの頬を包み込んだ。おでこをくっつけてくちづける。舌を滑らせた口の中は血まみれで、液体の底にわずかな呼吸があった。マユミくんがそっと僕の頭を撫でてくれたから、僕はようやく信じることができた。僕は唇を離して、この偽物の手を振り払った。呆然と目を見開くマユミくんもどきを見下ろして、血まみれの口元を拭って吐き捨てる。
「……マユミくんはね、僕なんかを好きにならないんだよ」
ああダメだ。偽物だった。ああよかった。やっぱり偽物だった。明日から、また本物のマユミくんを探しに行かなくちゃ。
離れようとした僕の服をマユミくんもどきが掴んだ。マユミくんもどきは思ったよりも強い力で服を引いて、何かを叫ぼうとしては血を吐いている。何度も何度も血を吐いて、目に涙を溜めながら口を動かして、必死になにかを伝えようともがいていた。
「……偽物」
悲しそうに、目の前のマユミくんもどきが首を振る。
「……だって、本物の眉見鋭心は僕なんかを好きにならないんだよ」
瞬間、マユミくんもどきの手が僕の胸ぐらをすごい力で掴んだ。僕が前のめりになるまえにマユミくんもどきは腕の力で起き上がって、呆気にとられている僕を抱きしめて唇を重ね合わせてきた。
どろ、と唇が湿る。そのままずるりとマユミくんもどきは崩れ落ちて、それっきり動かなくなった。
「……そっか」
正しい眉見鋭心を求めていたけれど、なんでこんなに簡単なことに気がつかなかったんだろう。偽物は、ずっとここにいたんだ。
「花園百々人はね、眉見鋭心を好きにならないんだよ」
好きになんて、なっちゃいけないの。
僕は自分の心臓にナイフを突き立てる。パン! と破裂音がして、世界が瞬時にはじけて消えた。