悲しみだけでも独り占め マユミくんには秘密がある。違う、秘密があった。
僕だけが知っていた秘密は呆気なくバレてしまった。とは言ってもそれはマユミくんにとっては『秘密』ではなく『言っていないこと』だったから、マユミくん本人は傷ついている様子はない。ただマユミくんは「俺の体質のせいでプロデューサーに迷惑をかける」ことだけを気にしてたっけ。そんなマユミくんを僕らは心配していた。
マユミくんの涙は宝石になる。知っていたのは僕だけだったのに、いまではみんなが知っている。マユミくんは秘密を守り通せるつもりだったんだろうけど、僕は「それはどうだろうなぁ」だなんて思ってた。マユミくんは涙脆いわけではないけれどどうしようもなく優しいから、いつかは人前で泣くんじゃないかなって思ってた。
僕はただそういう色々を『思ってた』だけで何も言わなかったし、マユミくんはこの秘密をぴぃちゃんにすら言っていなかった。意図的に内緒にしているようにすら見えたけれど、どうだろう。マユミくんは「誰に言うつもりがなかっただけだ」と言う。「隠し通せるはずだった、」とも言う。結局、ダメだったんだけど。
マユミくんは優しすぎた。その時には二十歳になっていたから、年をとって涙脆くなってしまったのかもしれない。いや、もしかしたら自分の気持ちにほんの少し素直になれたのかも。自分の気持ちを受け取れるようになっていたのならそれは嬉しいことなんだけど、彼の秘密にとっては都合が悪い。この人はあろうことか、ドラマの撮影で感情移入しすぎて泣いてしまったのだ。きらきらと光る、この人の瞳から零れ落ちるきれいな宝石。そうして秘密は晒された。
もっとも、いまのところはぴぃちゃんや周りの大人たち、そして世の中を取り巻く倫理なんていう不安定なものがマユミくんを守っている。
マユミくんはそうやって守られた世界で、時折誰かに頼み込まれて涙を流す。マユミくんはテレビ局の依頼で玉ねぎを切り刻み、生まれた宝石を販売してその収益の全てを慈善団体に寄付したりしていた。
ぴぃちゃんはそういう価値をマユミくんから遠ざけようとしたけれど、マユミくんはそれを静止して自らを捧げてしまうからどうしようもない。
僕はマユミくんのそういうところが嫌だったし、アマミネくんだってマユミくんのそういうところが嫌だった。僕らふたりがそういう感情を隠さなかったことはマユミくんに少なくない影響を与えた、んだと思う。
加えて名前も知らない人権団体が声をあげたことにより、マユミくんの涙を望む人間は表向きにはいなくなった。マユミくんはそれきり消費されることはない。
マユミくんの特異体質がバレてから2年後。つまりマユミくんの22才の誕生日に僕らはマユミくんの家で宅飲みをしていた。
少し気の早い卒業祝いも兼ねていた飲み会は大いに盛り上がった。マユミくんが常日頃からきれいにしている部屋をぐちゃぐちゃにして、マユミくんが揃えたセンスのいいシンプルな皿に乗り切らないほどのお菓子を乗せて、マユミくんが大音量で映画を見るために整えた防音設備のなかで大声を出して笑い転げた。
本当に、思い出せないほどくだらないことで僕らは大笑いしていた。もう何が面白かったのかわからないけれど何かがマユミくんのツボに入ってしまい、マユミくんが呼吸困難になるほど笑ったのが今日だ。マユミくんは愉快を通り越して苦しそうに咽せながら、その若草色の瞳から宝石を2粒、からりと落とした。
僕はそれすら面白くて笑いが止まらなかったけれど、アマミネくんは一瞬だけ息を呑んで身を固まらせた。そんな僕らを見ながらマユミくんは呼吸を整えて柔らかく笑い、2つの宝石を拾い上げて僕たちの手に乗せて言った。
「これはお前たちだけのものだよ」
アマミネくんはなにやら感極まってマユミくんに抱きついて、僕だって気分がよかったからアマミネくんごとマユミくんを抱きしめる。何秒かくっついて、それすらも面白くってまた笑って、無くしては困るから宝石をポーチだの財布だのにしまったあと気が済むまでお酒を飲んだ。
アマミネくんが盛大に酔い潰れていたから、介抱がてら朝食を作ったりしていたら家に帰るころには昼になっていた。高く昇った太陽から逃げるように、僕は玄関の扉を開ける。
僕の家の、僕の部屋の、窓に向かい合う位置の棚。そこに飾ってあるひとつの瓶を手に取った。その瓶の中にはいくつかの宝石がきらきらと光に照らされていた。
この宝石は僕がマユミくんの特異体質を知るきっかけになった大喧嘩で生まれたものだ。あれは僕の人生史上最大の喧嘩だったし、あれ以上の喧嘩は金輪際ないと断言できる。
なんせ、殴り合いの喧嘩だ。殴り合いの喧嘩をしたのは生まれて初めてだった。し、あれが最初で最後だろう。先に手を出したのはマユミくんだったけれど、続行を希望したのは──逃さなかったのは僕だ。殴って殴られて、それでこの男の本心に近づけるのなら、それなら痛みくらいは安いものだと心から思っていた。アイドル・花園百々人としては最悪の行動だったけれど、あの時に息をしていたのはマユミくんの友人としての花園百々人だったから。
僕はスポーツでも賞を取ったことがあるけれど、マユミくんは喧嘩慣れしていて勝負は互角だった。人を殴る感覚を初めて知った。口の中に広がる血の味を強く意識した。
マユミくんは見たことのないくらいぐちゃぐちゃの顔をしていたけれど、それは痛みからではなく自分の内面に踏み込まれた動揺からきたものだったのかもしれない。マユミくんはどうしてこうなってしまったのか、なんて考えていたのかも。
でも僕からしてみれば、この喧嘩は望むところだったし成るべくして成ったようなものだ。そりゃ、殴り合いはよくないけれど、僕はマユミくんのことがもっと知りたかった。マユミくんの言葉が、どうしようもなく欲しかった。
ほとんど抱き合うようにもつれあってマウントを取り合う。幾度の攻防の末に優位を取ったマユミくんが、僕に馬乗りになって半ば悲鳴のような声で叫んだ。
言葉は、ほとんど形を成していなかった。
なんて言っているのかわからなかった。言葉は嗚咽に掻き消されて、意味のない音だけが僕の耳に届く。マユミくんは泣いていた。
「……喧嘩をして泣くなんて、子供みたい」
僕の頬に硬くて冷たいものが降ってくる。涙だ、って思った。だって、透明でキラキラしていたから。視線を少しだけ向けると、僕の顔のすぐそばには宝石が落ちていた。
「へんなひとだね」
マユミくんの息が震えてる。マユミくんはなんだか驚いていたけれど、それは自分の涙が宝石になった驚きではなくて、自分が泣いていることへの驚きだったみたいだ。
マユミくんは口を手で覆って、ぎゅっと目をつぶって、怖い夢を見た子供みたいに身を固くしていた。僕はそっとその手に触れた。
「……いいよ。たくさん泣いて?」
キミに近づきたい。そう囁けばマユミくんは拒絶するように首を振った。
「……ちがってる」
「……なぁに?」
取りこぼしたくなかった。マユミくんの言葉は、一つ残らず僕のものにしたかった。
「間違っている。俺が俺の感情で……俺のために泣くなんて」
ハッキリとした言葉だった。凛とした、悲しい声色をしていた。
「そんな価値は俺にはない」
そう言ったきりマユミくんは僕の手を払い、その手で顔を覆って黙ってしまった。数秒か、数十秒か。僕がその手を取ると、隠されていた宝石がバラバラと落ちた。
「百々人、」
「うん」
「俺は、俺の本性はこんなやつなんだ」
少しずつ、少しずつ、マユミくんは言葉を吐き出す。
「……人を殴るという選択肢がある」
「そうだね。でも僕だって殴ったよ?」
「先に殴ったのは俺だ。暴力という選択肢があって、俺はそれを選ぶような人間なんだ」
僕はどう声をかけようとしたんだろう。僕が口を開こうとした瞬間、マユミくんは「違う」とだけ呟いた。
「望まれる眉見鋭心じゃない、眉見鋭心になれない自分がいる。こんな、こんなの、」
懺悔のような言葉はまた嗚咽に飲み込まれてしまった。たっぷりの沈黙で、またいくつかの宝石が落ちる。
「……すまない」
小さな、謝罪の言葉だった。僕が「なにが?」と問いかけたら、マユミくんは悲しそうに首を振った。
「何も言えないんだ。まだ、何も言えない……違う、言いたくない」
「言いたくないなら、いいよ」
「違うんだ。ただ、俺は……」
たった一粒の宝石が落ちた。それを拾い上げて僕は笑う。
「……おしゃべりなひと」
きらきらと光る、きれいな宝石。その輝きに嘘はなかった。いくつもの言葉よりも信じられる美しさがそこにはあった。
***
「色が違うんだね」
殴り合いの記憶を閉じ込めた瓶に詰められた宝石と、酔っ払いの泣き笑いで生まれた宝石は色が違った。昨日もらった宝石は日の光のような、目を閉じていても照るようなオレンジ色をしているけれど、瓶のなかに閉じ込めた輝きは深い悲しみの青だ。瓶を弄んでその深い青をからころと鳴らす。僕だけしか知らない、海の底のような藍色だ。
「……僕しか知らないキミがいる」
アマミネくんがオレンジ色の宝石を喜んだように、特別を愛する心は誰にだってあるはずだ。僕にだってそれはちゃんとあって、僕を『特別』にしてくれるこの深い青を愛している。
「……ほかの人にも、見せられたらいいね」
僕はあの愛おしい人が心のままに泣ける世界を望んでいる。そうして、彼の抱える深い悲しみがこんなにも美しいことを知る人がいてくれるなら。それに値する人が、彼の周りに増えていくのならば。
「願ってるんだよ。……本当に」
からからと、振った瓶から宝石のさざめきが聞こえる。
「これは、これだけは僕のものだけど」
瓶を置く。僕の影が窓からの光を遮って、その輝きは暗がりに沈む。
「本当だよ。ただ、ずっと特別でいたいって……そう思っちゃうんだ」
特別の証明の、小さな小瓶。
マユミくんが僕だけに見せた深い青。
この瓶に鮮やかなオレンジ色を混ぜる気にはなれなかった。だってこのオレンジは僕だけの『特別』じゃないから。
僕は新しい瓶を買うために、もう一度玄関のドアを開けた。空はまだ高くなりきれず、宝石のような陽光が若葉の緑をやわらかく照らしていた。