Ramen 百々人と暮らし始めてよかった。横で寝転びならが台本を読んでいる百々人を見ると、心からそう思う。
俺は高校を卒業してすぐに家を出て、半ば強引にあの家から百々人を連れ出して共に暮らし始めた。家族の在り方は人それぞれだし、俺は正しさや間違いを説けるほど成熟してはいない。それでも、一度話を聞いてしまった以上、あの家に百々人を住まわせておくのは一分一秒だって嫌だった。俺は百々人のことが好きで、百々人を取り巻く環境が嫌いだった。
百々人は俺の手を振り払わずにただ笑ってついてきた。一度捨てられているから二度目は傷つかないようにと、自らを守るような、そういう類の笑顔だった。それでも、半年以上経ってそういう笑みは減っていったように思える。ただ無邪気に笑うことが増えて、口を大きく開いて笑うことが増えて、無理をして笑うことがなくなった。
心にない表情はしないでほしい。手を伸ばして、百々人の頬に触れる。俺たちはこの部屋の大半を占めるくらい大きなベッドの上で、いつもこうやって清潔なシーツの上でくっついていた。
「ん、なぁに? マユミくん」
「……いや、百々人がいるな、と思って」
「ふふ、なにそれ」
マユミくんがいる。そう呟いて百々人は俺の手にそっと触れた。明日はオフだからとずいぶん夜更かしをしたものだから、湯冷めした手は少し冷えていた。秀から借りて二人で少しずつ進めているゲームが楽しくて、ついついやりすぎてしまったから日付が変わってしまっている。それでも、夜更かしを咎める大人はどこにもいない。
「ああ、俺はここにいる。俺がいて、隣に百々人がいる。……これ以上幸せなことはない」
百々人は俺の手を取って、そっと頬をすり寄せてくる。その仕草がどうしようもなく愛おしくて、俺はたまらず百々人を抱きしめた。寝転んで、俺の腕の中に百々人を閉じ込める。
「……マユミくん」
百々人が俺の背中に手を回して囁く。百々人の指先がつつ、と俺の背筋を撫でた。
「……わるいこと、しよ?」
「……え?」
「ずっとしたかったことがあるんだ……僕、マユミくんにね、イケないことを教えたい」
甘やかな百々人の言葉に、自分の心臓が滑稽なほど跳ねたのがわかった。百々人は俺の首筋をぺろりと舐め、するりと足を絡ませてくる。
「も、百々人、俺たちはまだ未成年で、お前は高校生だ」
「……それがどうかした? 僕らに出来ない事なんてないよ。法律とか大人がダメっていうだけで、僕らは真夜中にどんなところまで行ってもいいし、どんなにわるいことをしたっていいの……」
百々人は俺の腕の中から抜け出して、じっとこちらを見つめてきた。自分自身に課している正しさとか節度とか、そういう倫理が好みそうな『正解』が、紫陽花色をした瞳の熱でどろどろに溶けていく。きっと短くない間、俺は馬鹿みたいに硬直していたんだろう。百々人は俺の魔法を解くように、人差し指でそっと俺の唇に触れた。
「……マユミくん、いやらしいこと考えてる」
「……ああ」
「……わるいこと、する?」
「……百々人が、どうしてもしたいと言うのなら」
俺の返答を聞いて、「いくじなし、」と百々人は呟いた。そして、あーあ、とわざとらしく肩をすくめてみせる。
「じゃあ、しよっか。わるいこと」
「あ、ああ」
「決まりだね。いまからうんとわるいこと、しよう」
言うが早いか、百々人は立ち上がって部屋から出て行こうとした。急に熱が離れてうろたえる俺に向かって、背中越しに百々人は言う。
「……いまから、僕たちは深夜ラーメンを食べます」
「……は?」
「これはわるいことだよ、マユミくん」
百々人は振り向いて、ニヤリと笑う。早く、と急かされて俺も立ち上がった。
「……わるいこと……」
「そう。深夜ラーメン。したことないでしょ」
教えたげるね。そう百々人は呟いて俺を待っている。隣に並んだ俺の手をしっかりと握って、ゆっくりと台所まで歩き出した。
「……マユミくん、やらしいこと考えた?」
「……ああ。考えた」
「ふふ、マユミくんのえっち」
でも、マユミくんがしたいって言わなかったからダメ。
それを聞いて落胆している自分に驚いた。百々人が高校を卒業するまで性行為はしないと決めたのは他ならぬ俺自身だと言うのに、なんとも意志が弱い。
***
百々人が戸棚の奥から取り出したのは見慣れない袋だった。塩、と書いてある。
「マユミくんは袋麺食べたことある?」
「袋麺……? ないな。この袋の中に麺が入っているのか」
「そうそう。カップ麺と違って茹でないといけないんだけど……」
袋麺は初めて見た。流石にカップラーメンくらいは知っているが、これはどうも勝手が違うらしい。百々人は「具を探そう」と言いながら、冷蔵庫の中を物色し始めた。
「ハム食べちゃおうか。明日のパンはジャムだけになるけど……それか、明日の朝コンビニで買ってくるとかかな」
「ジャムでいいだろう。なんだ、ハムを入れるのか」
「うん。なんでもいれちゃう」
そう言って百々人は冷蔵庫にあるものをどんどん取り出し始めた。俺たちはあまり自炊をしないから出てくるものは限られていたけれど、その少ない食材を百々人は惜しみなく取り出してテーブルの上に並べていった。
「明日の目玉焼きもなし」
残りふたつしかない卵を掴んで百々人が言う。
「ああ……そうだな。ラーメンにたまごはあう」
「だよね。先に茹でておいてもいいけど……めんどうだし、生卵でいいかな?」
「構わない。生卵をのせることはあまりないから楽しみだ」
「お店だとゆで卵だもんね。僕もひさしぶりかも……とろとろの黄身に麺を絡めるの、好きなんだ」
「なるほど」
俺も、と冷蔵庫を覗く。液体の味噌が見えた。
「……味噌」
「え? 味噌ラーメンにする?」
「いや、いれたらどうなるかと思ってな」
「あはは、塩って書いてあるじゃん。塩ラーメンに味噌なんて入れたら……んん、どうなるんだろう?」
お互いに興味はあったが却下した。百々人がカット野菜を取り出しながら言う。
「明日のサラダもなしかな」
「問題ない。明日の朝食は外食でもしよう」
「いいね。いまからラーメン食べるし、ゆっくり起きて遅めの朝ご飯、とか」
「それなら隣駅まで足を伸ばそう。エッグベネディクトの専門店ができたらしい」
「えっぐべ……? まぁ、マユミくんが言うならおいしいんだろうな。楽しみ」
かさかさとカット野菜の袋が揺れる。レタスの薄緑とニンジンの赤。その隙間に亡霊のような、うすぼんやりした白い野菜が見える。
「……レタスってキャベツみたいなものだよね?」
「んん……?」
「いれちゃえ」
次々とテーブルには食べ物が並んでいく。袋麺にハム。卵にカット野菜。これだけでもかなりのボリュームがあるのに、百々人はパスタの入っている引き出しを開けた。
「じゃーん。缶コーン。これは絶対に入れたかったんだー」
こと、とテーブルに缶が置かれた。たしかに、コーンが入っているラーメンはある。
「買っておいたのか?」
「うん。……いつかね、こうやって真夜中に、マユミくんとラーメンが食べたかったんだ」
なんだかわくわくする。そう言いながら百々人は引き出しを探す。
「……百々人。なにか俺としたいことがあったら、いつでも遠慮なく言ってくれ」
「うん……ありがとう。あ、ツナ缶あるかと思ってたけど、ないや」
「ハムがあるのにツナもいれるつもりだったのか」
「お肉は多い方がいいでしょ?」
冷蔵庫と引き出しを見終わったら、もう食材を探すところはない。百々人が腕まくりをした。
「よし、これ全部……いや、卵は生でよくて……よし、卵とコーン以外は全部炒めよう」
まだ新品同様にきれいなフライパンを取り出して百々人は真剣な顔をする。ゴマ油をフライパンに流し入れ、そこに丸いままのハムとカット野菜を無造作に入れていった。
「ハムがデカいな」
「包丁だすのやだもん」
「手で千切ればよかったか」
「あ、たしかに」
ゴマ油の匂いはそれだけで食欲をそそってくる。百々人は遠慮がちに塩胡椒を振って、足りなかったらあとでまた足せばいいと独り言のように呟いた。
「……うーん」
「どうした?」
「キャベツがしんなりしたら完成らしいんだけど……レタスってもともとしんなりしてるから……」
フライパンの中では、油を吸ってテラテラとしたレタスがくったりと伏している。
「……しんなりしたら食べ頃ということなら、もう食べても問題ないんじゃないか?」
それもそうだね。そう言って百々人は火を止めた。そして鍋を取り出す。
「ラーメン、二人ぶん一緒に茹でちゃってもいいよね?」
「構わない。二度も茹でるのは手間だろう。それに、出来上がる時間がズレていたら同時に食べられないからな」
この家には計量カップなんて気の利いたものはないから、目分量で水をいれて鍋に火をかける。気持ち、水は少なめにした。食べてみて味が濃かったらお湯を足せばいいだろう。電気ケトルが役に立ちそうだと思い、そちらにも水を入れた。
「……百々人、作り方は誰かに習ったのか?」
水が沸騰するまで、時間がある。
「え? そうだけど……よくわかったね」
「さっき『完成らしい』と言っていたからな。事務所には料理上手も多いし、誰かに聞いたのかと思ってな」
「うん。簡単なものなら僕も作れるかなって思って。アスランさんとかは本職の人でハードルが高そうだから……大河くんと一緒に円城寺さんに聞いたんだ」
うっすら、鍋肌に気泡がくっついていく。
「大河くんすごいんだよ。元々ボクサーやってたから、糖質制限とか高タンパクの食事は作れるの。ただ、それだと三食ささみになっちゃったり、ご飯が食べられないんだって」
百々人が誰かの話をするとき、俺は幸福になる。この柔らかい生き物が優しくされると嬉しい。この愛おしい存在が尊重されていると誇らしい。半ば無理矢理、百々人から引き剥がした『お母さん』を思い出すと暴力的な気持ちになる。この人間は、愛されて然るべきだ。
「だから、こういう背徳メニューを聞いたんだよね。あ、こういうの背徳メニューって言うんだって。アマミネくんが言ってた。悪魔の食べ物らしいよ」
「……俺は聞いていないな」
かと言って、近しい人間との会話に俺がいなければ少しは妬く。百々人は俺を見て愉快そうに笑った。
「マユミくんは収録でいなかったんだよ。あ、お湯沸いた」
百々人はべりべりと袋を開けた。真四角に固まった麺を取り出すとき、欠片がぱらぱらと床に散った。
「……片付けも明日でいいや」
「……虫が湧かないか?」
「一日くらい平気でしょ。麺、乾いてるし」
夜食を食べるときには、夜食のこと以外を考えちゃいけないんだよ。
百々人は謎のルールを口にして、麺を鍋に突っ込んだ。一瞬お湯がすっと沈んで、麺を取り囲むようにあぶくが浮かぶ。
「それでね、えっと……そうそう。これなら簡単だって教えてもらったんだ。冷蔵庫にあるもの全部炒めてラーメンに乗っけるの」
「たしかに、これくらいなら俺たちでもできそうだな」
「ね。なんでもいれるから、栄養もすごそうじゃない?」
そういえば時間を計るのを忘れていた。麺を箸でつつきながら百々人は言う。
「……レタスのラーメン食べるの、はじめて」
「ああ、俺もだ」
それだけじゃない。俺はハムをいれたラーメンを食べることも、袋麺を食べることも初めてだった。
これは言うべきことだろうか。逡巡の間に百々人は言葉を続ける。
「おいしかったらさ、これが我が家の味にならないかな」
「ん?」
鍋の中で麺がほぐれていく。ぼこぼこと沸騰する鍋に、百々人が粉末スープをふりかけた。
「……僕ね、マユミくんとの『我が家の味』がほしいんだ。僕らだけの、あたりまえが」
やわく濁った白に染まるスープの中で、麺がぐらぐらと煮えていく。
「……たとえば、たとえばだよ。僕がマユミくんに『ジャムを買ってきて』ってメッセージを送ったら、マユミくんは何も聞かずにリンゴのジャムを買ってくるの。そういう、僕らだけの当たり前がほしい」
百々人は麺を一本取り出して噛み付いた。百々人は麺について何も言わなかったけれど、火を消さないということはまだ固いのだろう。
「……だから……レタスのラーメンがおいしかったらいいなって、思ってるよ」
百々人の唇がうっすらと湿っていた。鍋から目を離して俺を見た百々人の髪にそっと触れて、伝える。
「レタスのラーメンがおいしくなくてもいい」
「……そっか」
ごめんね、と百々人が口を開くから、俺は慌てて首を振る。
「言葉が足りなかった。そうじゃない……レタスのラーメンがおいしくなくても、次を探せばいい。ずっと一緒にいて、いろいろなものを食べて、そうやってずっと笑っていよう」
死ぬまで一緒にいたいんだ。触れた頬はしっとりと冷えていて、そこに俺の熱がゆっくりと伝っていく。
「愛しているんだ」
水面のように揺れた瞳を射貫いて、想いを伝える。
「百々人。俺は百々人と家族になりたい。……百々人もそう思っていると……自惚れてもいいのか?」
「……うん。……そうじゃなきゃ、僕はここにはいないよ」
はにかむ百々人を見て、なんだか自分の感情がひとつ、ほぐれた気がした。
俺は自分が正しいとは思っていなかった。百々人を肉親と引き離したことも、俺と暮らすように持ちかけたことも、全ては俺のエゴだ。百々人は断り切れなかっただけかもしれないし、もしかしたらあの家から離れられるなら俺じゃなくてもよかったのかもしれない。常にそんなマイナスの感情を抱いていたわけではないが、そう思ったことがないと言えば嘘になる。
「……マユミくん。僕を……」
「待ってくれ、百々人。……それは、俺から言わせてくれ」
百々人の手を取った。からん、と箸が落ちる音がどこか遠くで響いた気がした。
「俺の家族になってくれ、百々人」
「……うん!」
百々人が俺に抱きついてきたから、全部を受け止めて抱きしめ返す。百々人、と名前を呼べば、百々人が俺の名前を呼ぶ。もう一度、と百々人を呼んだ瞬間に、何かが溢れ出す音が聞こえた。
「あ! おなべ吹きこぼれてる!」
「なっ、早く火を止めて」
「水! 水いれたら止まるって円城寺さんが言ってた!」
そういえば家庭科の授業で習った気がしなくもない。水を足した鍋の中で、ふにゃふにゃの麺がふくれていた。
***
茹で上がった麺を取り分ける。ところが器はひとつしか用意されなかった。
「百々人、丼が足りない」
「ふふ……マユミくん。これが背徳飯たる所以だよ……!」
百々人が丼に取り分けた麺はおおよそ半分だ。半分の麺はまだ鍋にいるというのに、百々人はそこに炒めておいた具材を突っ込んでしまう。
「なんと……鍋のまま食べちゃいます!」
「おお……」
「わるいことでしょ?」
茹ですぎたラーメンに具材をたっぷりのせて、コーンを散らして生卵を落とす。うっすらと固まっていく白身を無視して、百々人が告げる。
「これをね、さらに背徳にするよ」
「……これ以上があるのか……?」
「うん。なんと……バターものっけちゃう」
百々人は冷蔵庫からバターを取り出し、とても大きな塊にしてラーメンにのせた。じわ、と油が溶けていって、スープにきらきらとした円がいくつも浮かぶ。
「……これは、わるいな」
「うん。大河くんが『目眩がする』って言ってたよ。もしもボクサー時代だったら見ただけで倒れちまう、って」
ボクサーの減量がいかに厳しいかは聞いたことがある。三食ささみのストイックな生活を続けていたところにこんなラーメンを出されたら、確かにくらくらするに違いない。
だが、俺たちはボクサーではない。ラーメンを食べると聞いたときはそこまで空腹を感じてはいなかったが、完成したラーメンを目の前にしたら一気に腹が減ってきた。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
麺を持ち上げて卵を沈める。生の黄身はおいしいが、白身は少し固まっている方が好きだ。スープに沈んでいく卵を見届けて、しんなりとしたレタスを口に入れた。
「……ん、うまいな」
「本当だ。レタスってラーメンにあうんだね」
「塩味だからあうのかもしれないな。店にレタスラーメンがないのが不思議なくらいだ」
「ふふ、おうちの味だね」
食べ始めると余計に腹が減ってくるから不思議だ。大きなハムを持ち上げて、齧り付く。切られていないハムも、大胆に入れられたバターも、キャベツの代わりにしんなりとしているレタスも、全部、よそでは食べられない。
「俺たちの、ひとつめの『我が家の味』だな」
「……うん。あ、でも麺は次からちゃんと茹でようね」
ストップウォッチを買おう。伸びきった麺を持ち上げて、百々人は幸せそうに笑った。