X『主演:花園百々人』
もらってきたポスターには白抜きの文字でそう書かれている。舞台に立っている百々人を後ろから映したポスターの彩度は低く、たったひとつのスポットライトを当てられた百々人の周りだけが異質なもののように浮かび上がっていた。
自分が大きく映っているポスターは無理のない範囲でもらってくる。ポスターがもらえたら、ふたりで暮らすこの家のリビングに飾る。それが鋭心と百々人の共同生活で自然と生まれた、いくつかの取り決めのうちのひとつだった。飾ったポスターの代わりに剥がしたポスターはくるくるとまるめて、ふたりの台本やトロフィーが置いてある共有部屋に収めていく。その習慣に従って貼られたポスターを眺めながら、百々人が困ったように苦笑した。
「明るい話じゃないから仕方ないけどさ……これがリビングにあると、圧があるなぁ」
「すぐに慣れるだろう。俺が出たホラーイベントのポスターも数日で見慣れた」
「それもそっか」
百々人が主演を努めた舞台は昨日、その熱狂を失うことなく幕を閉じた。連日の公演で張り詰めていた気をほどいて、百々人はそっと鋭心に寄りかかる。二人の距離が近づいて、座っていたソファのまんなかがふっくらと沈んだ。
「舞台、終わったけど……すごかった。あ、もう配信のアーカイブがあるね」
「できれば実際に見たかったんだがな……アーカイブがあるのはありがたい」
鋭心は長期ロケを筆頭に仕事が立て込んでいて、一週間ほど行われていたどの公演も観劇することができていなかった。映像がパッケージ化されるのかを百々人は知らないが、舞台は映像配信があり、一週間ほどアーカイブが解放されていた。
明日はふたり揃ってオフ──と都合良くはいかず、鋭心は比較的早い時間から撮影がある。パチッと目が合ってから数秒後、「明日見ようか?」と「今すぐ見ないか?」の声がきれいに重なった。
「マユミくん明日けっこう早いでしょ? これ二時間あるし、内容も重たいから結構疲れちゃうと思うよ」
「む……だが、気になって……」
「気になるなら内容だけ教えようか?」
「ネタバレだけはやめてくれ」
ふ、と見た時計の針は、夜の九時を越えたところだった。もう九時だよ、と百々人が言う前に、鋭心が「まだ九時だ」と口にする。
「もう……じゃあ、タブレットを持ってくるよ」
「ありがとう。なら俺は紅茶をいれよう」
二人が立ち上がる。沈んでいたソファがうっすらと膨らんで、しばらくの不在を受け入れていた。
戻ってきたふたりはまたソファをくぼませて、くっつきながらひとつのタブレットを覗き込む。高校生の幼さからは離れて久しい指先が、そっと再生ボタンを押した。
*
舞台の幕があがる。真っ暗な空間を照らす、たったひとつのスポットライト。それが、たったひとりで舞台に立つ百々人をぽつりと照らしている。
百々人の演じる役は、何者でもあって何者でもなかった。正体もなく、ただ『X』という名前だけが与えられた存在が、花園百々人が演じたすべてだ。
未知を意味する『X』を冠する男。
変幻自在の人物『X』。彼は何者でもないが故に何者にもなれる。あるときは学生、あるときは医師、あるときは乞食、あるときは革命家。そうして歩むいくつもの人生に、何故か繋がりを持つひとりの男の物語。
あるときは同志として、あるときは敵対者として。あるときは理想として、あるときは絶望として。何度も、何度も、『X』と男の運命は交錯する。
男にとって『X』は何者でもあった。ならば、『X』にとっての男とは何者だったのだろう。
ひとつの人生を生きる男の存在は、多数の人生を持った『X』にはどう映るのだろう。不変なのか、他人なのか、彼から見たらひとつの人生しか持たない男が未知なのか。
引力も斥力もなく、ただ交わる。
悲しい話、なのだろう。虚しい話とも言えるかもしれない。
男は半ば焦燥に突き飛ばされるように『X』を捉える。理解されることを強いる。形を与える。固定する。未知を失った男は全ての人生を背負うことも、ひとつの人生を受け止めることもできなかった。正気を振り切るように、狂気に逃げ込むように『X』は呆然と呟いた。
『僕は、だれなんですか?』
暗転。
たっぷりの静寂の後、おずおずとひとつの拍手が鳴る。
連鎖するようにそれは歓声となり、それを受け入れるように壇上がぱっと明るくなった。過去の百々人が微笑むと同時に、現在の百々人が再生停止ボタンを押した。
*
鋭心が画面から視線を外し、放心したように息を吐く。一寸の沈黙を散らすように、百々人がおずおずと口を開いた。
「……どうだったかな?」
「……すごい舞台だった」
「ありがと。あ、挨拶はひとりで見てね……なんだか照れくさいからさ」
「わかった。どのみち、いまは余韻にひたっていて、見ることができそうにない……」
鋭心は二時間手をつけることがなかったマグカップを手にとって、冷め切った紅茶を一気に飲み干した。そうしてからっぽになったマグカップを手に持ったまま、ソファの背もたれに沈み込む。
「……すごいものを見た」
鋭心はそう言って映画を見たときにしか吐かないような深い息を吐く。百々人はそれをどうするでもなく、ただ黙って隣にいた。
チクタクと、時計の音が鳴る。ふいに鋭心は視線を上げ、壁に貼られたポスターを見た。
「この舞台は百々人が主役なのか」
未知の人物、『X』。
「どうだろうね。このポスターだと主演は僕だけど、ポスターは二種類あるから」
「二種類?」
「うん。同じ構図で、さっきの男が映ってて……主演も、その人の名前になってる。ダブル主人公って感じかな」
「……どちらにとってもお互いが未知で、主人公は自分なんだろうな。例え無形のような男でも」
「主人公かぁ」
アマミネくんみたい。ぽつりと百々人が呟いた。彼は未知でも無形でもないけれど、出会ったときから自らを主人公だと言うことにてらいがない。
「まぁ、僕だって自分が主人公だと思ってるけどね。……思うことにしてるっていうか……難しいなぁ。なんて言ったらいいんだろう」
「それなら、百々人の人生にとって俺は共演者か」
「とびきり近くのね。マユミくんがいなかったら、僕の人生は成立しないよ」
鋭心はようやくソファの背もたれからからだを離し、マグカップをテーブルの上に置いた。自然と絡んだ視線に、百々人は独り言のように呟く。
「……もしも、さ。マユミくんにとっての僕もそうだったら……マユミくんの人生に必要な存在なら、すごくうれしい」
「……もちろんだ」
鋭心が立ち上がる気配を察して、百々人はココアにしようか、と問い掛ける。鋭心のマグカップを受け取ろうとした百々人を制して、鋭心は百々人のマグカップも手にとって台所へと引っ込んだ。
「砂糖はどうする。甘くしていいのか?」
「うん。頭使ったからね、甘い方がいいでしょ」
やがて漂ってくる甘い匂いに、百々人は「代わろうか?」と呟いた。鋭心が何かを返す前に、百々人は鋭心の隣に並ぶ。
「代わらなくていい」
「うん。でもそばにいないのは寂しいから」
「そうか。……牛乳を取ってくれるか?」
「はーい」
鋭心の家事は丁寧だ。実家のハウスキーパーに教わったから当然と言えば当然だが、牛乳にさっと溶けるココアしか飲んだことのない百々人にとって、こうやって丁寧に作られるココアは何度見ても珍しくて、なんだか照れくさい。
鍋に少しの水を入れる。沸かして、少量のお湯で粉を溶く。ゆっくりと練る。少しずつ、牛乳で伸ばす。砂糖を加える。そういえば、ココアを作ると言ってしばらく台所から帰ってこなかった鋭心を心配したこともあった。甘い匂いにふと思い出して、百々人はくすくすと笑う。
「どうした?」
「思い出しちゃって。マユミくんが初めてココアをいれてくれた日、僕こんなに時間がかかるって思わなくて……」
「ああ、そんなこともあったな」
べっとりとしたチョコレート色が、真っ白な牛乳で柔らかな色に溶かされていく。お揃いのマグカップをあたたかな液体で満たして、ふたりはまたソファに腰掛ける。熱すぎるココアをふたりして持て余しながら、ふいに鋭心が口を開いた。
「未知の人生か……」
本来なら夢想するだけで終わるようなイメージだ。それでも彼らはアイドルだったから、求められる形があれば応じるときもある。偶像と現実。その人生は重なり合うけれど、ときに乖離する。鋭心にとって、それが恐ろしいことなのかはわからない。
「考えちゃうよね。……例えば、あのときマユミくんが僕を止めてくれなかったらって思うと、ゾッとする」
そういう、運命と名をつけても違和感のないような奇跡の積み重ねにふたりはいた。人は誰だっていくつも奇跡を持っているけれど、同じ奇跡を分け合った人間の隣に入れることは幸福なのだろう。
「もしも他人のままだったら、って」
「それは……恐ろしいな」
張り詰めた沈黙があった。ココアを少しだけ口にして、百々人が短く息を吐く。
「……僕が『X』だったら、マユミくんとどうなろうか」
「……どうなる、ではなくて?」
「うん。敵にもなれる。味方にもなれる。いまみたいに愛し合うことも……憎しみあうことだって」
彼の演じた『X』は、舞台にいる限り何者にもなれる。彼は舞台の上でしか存在のできない虚構でしかないけれど。
「僕は僕でいるかぎり花園百々人でしかないけれど、舞台の上なら別人になるんだね。知ってたけど、少しこわいかも。あ、もちろん楽しかったよ? でも、」
僕が、僕でなくなっちゃう。そう百々人は呟いた。だが、鋭心はそれがすべて悪いことだとは思えない。
「少しの時間なら、他人の人生を歩むことは嫌いじゃない。……眉見鋭心を忘れられる時間には、覚えがある」
百々人は肯定するように、もう一度ココアを口に含んだ。彼が映画を好きな理由のひとつを、百々人は教えてもらったことがある。
「……いまもそうなの?」
「そうだな」
「こわくはない?」
「いや、……落ち着くと言っていいのかわからないが、恐れるようなものではない」
鋭心にとってのその時間は安寧だった。鋭心がそういう時間は面白いと呟けば、百々人は不安げに口にする。
「……キミはなにかになりたいの? それとも……眉見鋭心をやめたいと、思う?」
鋭心はココアに息を吹きかけて、甘い液体を一口飲んだ。柔らかく目を伏せた後、若葉によく似た色の瞳を百々人に向けて笑いかける。
「……眉見鋭心でなければ、俺たちはこうして一緒にはならなかっただろう。……いまさら、眉見鋭心は捨てられない」
鋭心の唇が百々人の頬に触れた。ふわ、と甘い香りを意識して、百々人はくすぐったそうに微笑む。
「僕も花園百々人をやめたくない。……でも、舞台の上でなら、マユミくんとなにもかもになってみるのも面白そう」
花園百々人に戻れるなら、いろんな形でキミと出会いたい。そうして出会う眉見鋭心は別の誰かなのに、百々人はじゃれつくようにそう願った。
「なにもかも?」
「うん。友達でいたい。恋人はもちろん嬉しい。でもね、ライバルでもいたいし、一度くらい敵になってみたい。家族にも、なってみたいな」
なにもかも、を考えているのだろう。百々人が斜め上を見ながらぼんやりとしだした。その頬を鋭心はつつく。
「家族には、将来なるだろう」
「ほんと? やったぁ」
頬に当てられた指に、百々人は軽く噛み付いた。軽く力を入れて、パッと離す。
「兄弟にもなってみたいな。お兄ちゃんも、弟も経験してみたい。他人からやりなおして、何度でも運命を結びたい。……教師と生徒とかも、どうかな? いまが同僚なら、上司と部下もいいかも」
「面白いな。舞台の上でなら、俺が年下になることもできるのか」
演じるとき、自分自身はどこにいくのだろう。そういう、恐怖にも、逃避にも、安堵にも似た感情を無視して、百々人は『もしも』を続ける。
「いろんなことができるね。愛し合いたい。憎んでいたい。キスしたい。殴り合いたい。笑いあいたい。教えたいし、教わりたい。飼われて、噛み付いて、殺して、殺されるのもいい。……全部、花園百々人に帰れるから言えるんだけどね。作り物の世界で、キミとなんだってしてみたいんだ。……マユミくんは、僕と何になりたい?」
「俺は……恋人のいまが、一番いい」
鋭心にはそれ以外が考えられなかった。望んだ形が鮮やかに咲いたいまが、彼にとっての幸いだ。それを聞いた百々人は楽しそうに笑う。
「舞台の上だけの話だよ」
女にだってなれるし、人間も辞めちゃえる。百々人は子供のようにニコニコとした。
「そうか……それなら、酒が飲みたいな」
「僕、あと一年したら飲めるよ」
「特別なシチュエーションで飲みたいんだ。洋画のシーンなんだが……酒場でしか出会わない、本来は出会うことのないふたりが恋に落ちるんだ。そういう……かけ離れた刹那的な恋は、少し陶酔的だと思う」
「いいね。他には?」
「どうだろうな……たとえば俺が病弱な入院患者だったら、お前は何になる?」
「んー、同室の入院患者もいいけれど、病棟の幽霊なんかも面白そう」
「すごいな。俺たちは舞台の上なら何にでもなれる」
選ばれれば、変わる。たとえ望んだ形になれなくても、一度舞台にあがってしまえば、もう彼らは彼ら自身ではいられない。それでも、舞台を降りれば彼らには彼らの人生がある。『眉見鋭心』と『花園百々人』が待っている。
「舞台の上ならなんにでもなるよ。……でも、僕が舞台を降りたら抱きしめて。僕をマユミくんの恋人に、花園百々人に戻してね」
百々人は冷めはじめたココアが半分ほど残ったマグカップをテーブルにおいて、鋭心の肩に頭を預けてぴったりとくっついた。鋭心もマグカップを置いて、そのからだをぎゅっと抱きしめる。
「……ただいま」
「ああ、おかえり」
百々人もその腕を鋭心のからだに絡め、ぎゅっと抱きしめた。しばらく鋭心の胸に抱かれていた百々人が、訴えるようにぽつりと呟く。
「マユミくんもね、『眉見鋭心』をやめたらいやだよ。変わることが必要なことだってわかってる。否定するつもりなんてない。それでも……最後には、必ずここに帰ってきて」
「……ああ」
ココアが冷え切るまで、そうして熱を分け合っていた。ふいに鋭心が口を開く。
「……昔、俺にとって『眉見鋭心』から離れる時間は必要なものだった。でも、それは帰るべき場所があってこそだ。百々人、お前を失うことは耐えがたい。俺はもう『眉見鋭心』を手放せない」
互いを灯台のように目印にして、必ず帰ってくる。だから何度でも別の人生に飛び込んで、その生涯を燃やし尽くすことができる。そうやって、また魔法のように、恋人として笑いあえたら。
「僕らきっと、これからいくらでも他人になるよ。舞台の上で、モニターの向こう側で、スクリーンの喧噪の奥に。カメラ越しに視線を合わせて、指先で印刷されたキミをなぞる。でもね、ちゃんとここに戻ってこようね」
「ああ……」
どちらからともなく離れて、微笑みあう。ふと百々人はポスターを眺めて、それから部屋をくるりと見渡した。
「マユミくんが連れてきてくれた、ここが僕らの家だ」
そっと、百々人がその手を鋭心の手に重ねる。
「マユミくんが手を取ってくれた、僕は花園百々人だ」
百々人はそのまま愛おしそうにその手を自分の頬に寄せて、甘く掠れた声で囁いた。
「そしてマユミくんが嫌だって言わないかぎり……僕は眉見鋭心、キミの手を離さないから」
だから、僕のことも離さないで。願うように口にした百々人の頬をその手で包み込んで、鋭心は百々人と額をあわせる。
「約束しよう。百々人、俺はお前を手放さない」
いくつもの人生に自分を見失った、憐れな男を思い出す。彼にはきっと、彼を証明する人間がいなかった。
「俺がいつでも、花園百々人を証明する」
「僕も。僕が眉見鋭心の証明だ」
鋭心は返事をしなかった。代わりに、思い出したようにふっと微笑む。
「映画で共演した男女がいたんだ。夫婦の役だった」
「うん?」
「そのふたりはそれがきっかけで結婚した。本当の夫婦になったんだ」
「へぇ。そういうこともあるんだね」
「……その映画には続編の話があったが頓挫した。なぜだと思う?」
「え? なんでだろ。なにか特別な理由があるの?」
「本当に夫婦になってしまったから、必要以上のリアリティが出ることを監督が嫌がったんだ。そういうこともある」
俺は続きが見たかった。
鋭心はそう言って困ったように笑ってみせた。