夜食の作法 夜更かしをしすぎたな、と思い視線を向けた時計の針は24時を越えていた。
最近増えすぎた映画のパンフレットを整理しようと積んでいたものや棚に並べていたものを広げた結果、まんまとふたりして読み耽ってしまったのだ。パンフレットは規則ではなく、読んだものと読んでいないものがそれぞれ山になっている。典型的な、片付けの失敗例だろう。
時計を見つめた目を手元のパンフレットに移し、パンフレットをそっと退ける。そうすると俺の膝にからだを預けてパンフレットを読んでいる百々人の、柔らかい色の髪に埋もれたつむじが見えた。先ほどの俺もきっとこれくらい夢中だったに違いない。百々人は俺の視線に気がつくことなく、ゆっくりとページを捲っている。
明日は仕事こそないが、俺は大学がある。とはいえ授業は午後からだし百々人は完全にオフだから、これくらいの夜更かしなら許容範囲か。「百々人」と声をかければ百々人は誌面を見つめていた春色の瞳をこちらに向けて柔らかく笑う。その幸せに自分の表情が綻ぶのがわかってしまったが、意識して表情を引き締めて時計を指した。
「ん? ……うわ」
「やってしまったな……」
この状況を『片付けあるある』や『案の定』と言うのは少し悔しいが、なんと言おうと現状は変わらない。流石に今から片付けるのは無理なので「そろそろ眠ろう」と促せば、百々人がにやりと、悪い顔をして囁いてきた。
「夜更かししちゃったしさ……せっかくだからもっとイケないこと、しよ?」
眠気を自覚して休もうとしていたからだが一瞬でカッと熱くなるのがわかった。咄嗟の言葉も出ずに引き攣った喉を無理やり動かしたのに、口から出てきたのは同意にもなりきれない情けない声だった。
「あ……ああ、」
「ふふ、決まりだね」
さっきまでくっついていたというのに、今は腕一本分の距離にすらめまいがしそうだ。我ながら単純すぎて恥ずかしいが、叶うのであれば触れていたい。抱きしめたい。熱を感じたい。そうして、ひとつに混ざり合ってしまいたい。
そういう欲で思考がドロドロと溶けていく俺を置き去りにするように、百々人はすっと立ち上がり台所へとむかってしまった。
台所と俺の想像した欲求が繋がらない。水でも飲みに行ったのかと結論づける前に、電子レンジの動くブーン、という音が聞こえた。
「イケないこと……?」
ああ、これはなんというか、俺が勘違いをしているパターンか。
イケないことには種類がある。例えば映画で流す際には年齢制限がかかるようなもの──つまり、俺が想像したようないやらしいことなどは『イケないこと』に入ると思うのだが、背徳が食事と繋がっているパターンもあるのだ。けしていやらしい意味ではなく。
夜中にラーメン、とか。
秀から背徳メシの存在は聞いているし、アイドルである俺たちが深夜にラーメンを食べたりしたらそれは罪深いことだろう。つまり、きっと、台所に向かった百々人が言っている『イケないこと』というのも、そういった類のものに違いない。
ああ、恥ずかしい。
許されるなら無垢な恋人を置いて、このまま布団を被って眠ってしまいたい。それくらい、どうしようもなく、本当に、恥ずかしかった。
そんな俺の心境など露知らず、百々人はリビングで俺を待っているんだろう。白状して笑い飛ばしてもらいたい気持ちもあったが、それよりも悟られずにこの夜を無事に終えたい気持ちの方が強い。それに背徳メシのことを考えたら腹が減ってきたのも事実だ。百々人のからだを想像していた脳内を、意図的に冷蔵庫の中身を思い出すことで埋めていく。そんなに充実していない材料でどこまで背徳的なものが作れるのか。それだけを考える。無心になる。なりたい。
そんなことをしていたら電子レンジが仕事を終える音が聞こえた。何を調理したのかと、百々人のうなじを見ないようにしながら覗き込めば、湯気の向こうにご飯のパックが見えた。百々人は俺に気がついて、ふわりと笑う。
「うめぼしでいい?」
「あ、ああ」
イケないことと言っていたから、もう少しハイカロリーな、背徳的なメニューを想像していた。例えば、次のドラマ撮影のためにからだを絞っている大河なんかが見たら卒倒するような、そういうメニューを考えていた。
だが百々人はただでさえ量の少ないパックご飯をさらに半分にして、小さなおにぎりをふたつ作って皿に並べた。
「はい、マユミくんも」
少ないと思っていた小さなおにぎりはさらに半分に分けられるらしい。もらっていいのかと問い掛ければ、そのつもりだったと百々人はいう。なんだか妙に気が落ち着いて、勘違いを隠したまま笑いかけた。
「なんだ。イケないことと言っていたからな、もっと罪深いものが出てくるのかと思っていた」
「え?」
「え?」
百々人が驚いたような声を返してきたから俺も同じような声を出してしまう。少しの沈黙を挟んで、百々人がそっと、慎重に口にした。
「だって……え? するならそんなに食べない方がいいよね……?」
百々人、いま『するなら』って言った。
「……するんだよね?」
「する……」
少し食い気味に返事をしてしまったが、俺の不埒な考えは勘違いではなかったようだ。百々人も俺と同じで、ちゃんといやらしいことを考えていて、
「……あー、僕、あれだね」
どれだ。
「お腹減ってるから軽く食べてからしようって……言ってない、のかな」
「言ってないな……」
百々人が視線を下げておにぎりを齧るから俺もそれに倣う。塩の量が少なくて、梅が多い。夜に似合いのおにぎりだった。
小さなおにぎりは三度齧ればなくなってしまうほど小さくて、俺はあっという間に食べ終えてしまう。百々人を見れば最後の一口を咀嚼しているところだった。うっすらと、耳が赤い。
少しだけ加虐心が顔を出すが押しとどめる。からかってはいけない。
そう思った矢先に百々人がこちらを見て笑う。普段の無邪気な笑顔ではない。俺が知る、開き直った時の笑顔だ。
「……イケないこと、夜食だと思ったの?」
「思った」
「本当に……?」
つつ、と百々人のつま先が俺の足の甲を撫でる。百々人は姿勢を崩してテーブルに上半身を預け、上目遣いにこちらを見ている。落ち着いたはずのからだに、再び熱が灯るのが手を取るようにわかった。
「途中からだ。さいしょは百々人と同じことを思っていた」
「ふーん……そっかぁ」
照れてくれれば可愛いのに、開き直った百々人はタチが悪い。なんというか、魔性という言葉が似合ってしまう、そういう表情を浮かべながら俺に笑いかける。
「……ちゃんと食べてくれるんだよね?」
「食べる。……テーブルマナーは期待しないでくれ」
俺も百々人も、もうおにぎりはとうに食べ終わっている。それでも俺は百々人をまっすぐに見てそう答えた。いますぐ百々人が欲しい、と。
それを聞いた百々人はからからと笑う。俺が悪徳だと自制するすべてを許容して笑う。
「僕はマナーの悪いマユミくんのほうが好き」
そう言って寝室へと向かう百々人の耳とうなじが赤い。噛みついてしまいたい、と思いながら、俺も百々人のあとに続いた。