砂漠の砂はダイヤにならない『特技・人に愛されること』
特技、と問われて一瞬だけ手が止まった。大体のことは問題なくこなせるから何を書いても嘘にはならないが、それでは『アイドル、眉見鋭心』のプロフィールには相応しくないだろう。きっと華やかなほうがいい。珍しいもののほうが会話が広がる。少し考えて、その空欄に『水上オートバイの操縦』と書いた。嘘を吐くことがなくてよかった。水上オートバイは正しく、うまくこなせることだったから。
残りの空欄も埋めて、なんともまぁ話題に事欠かない特技や趣味だと思う。俺は嘘を美徳とは思わないが、芸能人の両親を持つ人間として夢を見せることの必要さも知っている。嘘について俺が思うことは『必要ならば』というところだろうか。進んで吐きたいものではないが、そこに俺の主義主張や好みが入ることはない。
プロデューサーに提出するために彼のデスクに向かう。直接渡せたら、と思ったがあいにく都合があわなかった。大きめのクッキー缶を提出箱にしているのは感心できないが、ふと祖母を思い出して懐かしい気持ちになる。真っ青な缶は見知ったブランドだ。よく両親がもらってくる、食べても食べても一人では減らないまま湿気ていくクッキーの缶。
「ん……?」
クッキー缶には先客がいた。ぺらりと寝そべった紙、その右上には写真には華やかで柔和な笑顔が張り付いている。
花園百々人だ。俺と同じ有名生徒会長で、これから同じユニットを組む相手。
意識して目を逸らした。どうせこれは事務所のホームページに公式プロフィールとして掲載される内容なのに、見てはいけないものに見える。公然の秘密がこんなに益体のないヴェールを纏っていることを初めて知った。
デビューして数日後、俺は花園百々人の公式プロフィールを見た。偶発的にではなく、自ら進んで見にいった。特技の欄を見て心臓が跳ねた。この人間にとって、愛されることは臆面もなく特技と言えるほど当たり前のことなのだと。
違和感はひとつの季節を過ごしてからやってきた。
花園百々人へ抱くイメージが徐々に変容するにつれ、彼の特技について考えることが増えたからだ。
百々人の特技に嘘偽りはない。『アイドル花園百々人』は少なくとも表面上は誰にでも好意的に受け入れられ、事務所での評判も高い。俺は百々人を信頼しているし、もっと百々人を知りたいと思っていた。
正しく言えば、百々人の特別になってみたかった。それが恋愛感情なのかはわからないが、万人に愛される人間の特別になれたらどんな気分になるのだろうと、自らの機嫌のために相手の感情を求めるという幼児性があった。百々人はトロフィーなどではないのに、きっと間違った感情で百々人のことを欲しいと思っていた。
みんな、きっと、百々人のことが好きなんだろう。だから油断したのかもしれない。こんな言葉は言われ慣れてるに決まっていると。
「俺は百々人のことが好きなんだろうな」
「え……?」
事務所にふたりきり、なんかじゃなかった。そこかしこに当たり前に人はいて、デスクには先ほどまで百々人が手伝っていたプロデューサーがいる。ただソファーに並んで座っているのが俺たちだけで、百々人が評判だという菓子をくれた。それだけだ。
「……えっと、」
百々人が言い淀む。何度も聞いた言葉だろうにこの反応が引っかかる。少しだけ悲しかったのかもしれない。万人に愛されていても俺が好意を持たないと思い込んでいたのだろうか。なんだかひどく間違ったことをした気持ちになり、誤魔化すというにはあまりにも拙い八つ当たりのように言った。
「なんだ、聞き慣れているのかと思った」
「きき、え?」
「特技だ。愛されることが特技なんだろう」
好きを手渡すのは俺だけじゃない。誰も彼もが俺のような感情ではないと思うけれど、俺よりも切実な感情を持っている相手もいるだろう。好き、という言葉のいくつもの意味を考えて、ノイズのようにいくつかの恋愛映画を思い出した。
はぐらかすつもりがあったのだろうか。自分自身のことすらわからずに口を開く。
「……恋愛映画があるだろう」
「うん……?」
「洋画なら翻訳が入る。きっと正しい『好き』の意味を俺たちは知ることがない」
「……なにそれ。そうなんだろうけど、唐突すぎてめちゃくちゃだなぁ」
間違ったことは言っていないはずだと開き直れば、百々人は「へんなの」と言って一足先に日常へと戻っていく。
これでいい。ようやくスタートラインに立てた『好き』という言葉は百々人が受け取った何百もの『好き』に希釈されてどうでもよいものになっていく。
きっとそれが相応しい。こんなものが恋であっていいはずがない。ましてや、愛だなんて。
「キミが好きだよ」
ふたりきりだった。事務所でもレッスン室でもなく、カラオケの安っぽい照明のなかで俺たちは向き合っていた。別に歌いたいわけじゃない。ただ、ふたりきりになりたかったと百々人は言った。
百々人はしばらく俺の目を見ていたけれど、数秒か数分か──諦めというよりは興醒めといった様子で俺から視線を外し、メロンソーダをひとくち飲んだ。
「マユミくんの目の色だ」
「目……?」
「メロンソーダ。ねぇ……さっき見飽きるほど見つめたのに、キミは何も言わないんだね」
薄暗い照明の中でメロンソーダは重く沈んだ色をしている。俺の目は百々人にどう映ったのか考えて、百々人の瞳の色をうまく思い出せない自分に嫌気がさした。
「キミが好き。キミだって僕のことを好きって言った」
「……聞き慣れているだろう。好き、だなんて」
何百分のイチに希釈された言葉。そんなものは恋だなんて、ましてや愛だなんて呼べないだろう。ああ、不貞腐れている、とわかる。俺がどんなに好きと言っても、それは百々人にとって数ある好意の一つでしかない。
それなのに百々人は言った。もう一度、まっすぐに俺の目を見て。
「キミが言ってくれたら、それは特別になる」
そっと百々人の手が俺の手に触れた。メロンソーダの水滴が百々人の指先から伝って俺たちの肌に馴染んでいく。
「そう言ったら……もうキミは好きって言ってくれないの?」
百々人の特別になれる。望んだトロフィーに目が眩む。でも、こんなのは間違っている。百々人の好意はこんな感情に食い荒らされていいはずがない。
「好き、には……多くの意味があるだろう」
「……キミはそれでいいの?」
「俺は……」
「いいよ。……期待しちゃった。バカみたい」
歌おっか、と言って百々人は端末に手を伸ばす。大きな音で掻き消される前にたったひとつを口にした。
「……なんで、俺なんだ?」
百々人が笑う。俺のことも百々人自身のことも嘲るような、愛嬌のない笑みだ。
きれいだ、と思った。特別なものだと思った。受け取る資格がないことも知っていた。
「キミはたまに、すごくバカだね」
内緒、と百々人は言う。どうしても聞きたいと顔に出ていたのだろうか。百々人は「聞いたら応えてくれないとやだよ?」と笑い、それ以上なにも言わなかった。俺だって、何も言えなかった。