ラムネに溺れるアンノウン 今日は高校生の子がたくさん集まって勉強会をしていたから賑やかだった。最初はみんながそれぞれ宿題や問題集を解いていたんだけど、気がついたら自然と教える人と教えられる人に分かれて和気藹々と勉強をしてる。こういう雰囲気が僕はすごく好きだった。
しゅーくんも、えーしんくんも、僕も、教える側だ。C.FIRSTはすごいね、って。前だったら素直に受け取れなかった言葉も今は嬉しい。そりゃ黒野くんがそばに居ると何も思わないわけじゃない。それでも感情を全部トータルしたら僕は楽しく笑っていた。
えーしんくんは伊瀬谷くんにスパルタでいくと宣言してたんだけど、貴重な三年生だということで蒼井さんたちに引っ張られていった。黒野くんも高校二年生の範囲は完璧じゃないから、しゅーくんと一緒に伊瀬谷くんと紅井くんを見てた。あとはわからなくなった人が挙手したら誰かが見てあげる、みたいな。
水嶋さんは「ロール以外の人と勉強するのは新鮮」って言いながらえーしんくんにわからないところを聞いていて、それを見ながら卯月さんが「なんだか変な感じ」って笑ってる。東雲さんが作ってくれたお菓子を合間に食べて、陽が傾くまで勉強会は続く。そのはずだったんだけど、不意に勢いよくぴぃちゃんがラウンジに駆け込んできた。
「すみません! ここで皆さんが勉強会をしていると聞きまして。いま、大丈夫ですか?」
みんなの視線を集めたぴぃちゃんが申し訳なさそうに聞いてくる。僕たちは誰が答えたらいいのか、と固まったが、十秒もしないうちにえーしんくんが口を開いた。
「問題ない。手の離せないやつはそのままでいい。俺が聞いておく」
こういう時、えーしんくんって一番生徒会長っぽいなぁって思う。しゅーくんが三年生になったらこうなるのかな。僕には絶対になれないなぁって思っていたら、一番ヤバそうな若里さんが「オレは大丈夫だぜ!」だなんて言い出すから、それなら俺も、となし崩しにみんなが大丈夫だと返事をした。
「そうですか。そうしたら皆さんにもお聞きしようかな。とりあえずHigh×Jokerのみなさんと神速一魂のお二人、こちらに来ていただいてもよろしいですか?」
そう言いながらぴぃちゃんはハンカチを取り出した。水嶋さんが小さく「手品かな?」と呟く。なんだなんだと近寄った7人にぴぃちゃんは言い放った。
「このハンカチでボケてみてください」
「……ん?」
「どういうことだい、番長さん」
近寄ったみんなが……いや、ここにいる全員がきょとんとしてしまう。あ、とぴぃちゃんが説明に入る前に、真っ先に順応した伊瀬谷くんが元気よく手を上げた。
「あ、モノボケっすね! えーっと……こういうのはどうっすか?」
「嘘でしょ……あの反射神経、見習わないとかも」
しゅーくんが小声で感心している前で、伊瀬谷くんはハンカチを手に取ってねじねじと捻り出した。
「こうしたら輪っかにして……ハルナっち! 細っそいドーナツ!」
「えっ」
多分動揺は数箇所から発せられた。しかし当の若里さんは急に振られたにも関わらず一瞬で状況を理解して手を伸ばす。
「おっ! うまそうだなー……ってこれハンカチじゃん!」
「イエーイ!」
「メンタル強っ」
僕としてはしゅーくんの脳を通さないでそのまま出てきた発言の方が面白かったんだけど、ぴぃちゃんはどうだろう。ぴぃちゃんはなんだか神妙な顔持ちをしていたけど、突然ぱっと表情を明るくして言った。
「……ありですね!」
「ありなの!?」
しゅーくんってツッコミの反射神経がいいなぁ。さすが僕たちのリーダーだ。
「やったっすよハルナっち!」
「おう! なんだかよくわかんないけど、やったな!」
「何をやったって言うんですか……」
なんだか疲れ切った様子の冬美くんが独り言のように問いかける。すると、ぴぃちゃんが困ったように話し出した。
「実はちょっとした変更があって……どちらかのユニットにバラエティに出てほしいんです」
なんでも急な変更だったらしく、スケジュールの空いているHigh×Jokerか神速一魂に代打で出てほしいとのことだったらしい。先方は315プロダクションなら信頼していると言い、どちらのユニットでも大いに歓迎するとのことだ。
「モノボケのコーナーがあるので、より楽しんでくれそうな方に出てもらいたくて」
「はいはい! オレすっげー楽しかったっすよ! プロデューサーちゃん!」
「なっ、オレも出遅れたけど絶対楽しんでみせるぜ、プロデューサーさんよぉ!」
「俺もやれるよ! 野球選手にハンカチを使う人がいてさ……」
この事務所の人は仕事が好きで、自分の力を試したくてうずうずしているように思える。もちろん苦手な仕事もあるんだろうけど、基本的に、言い方を考えないなら『貪欲』だ。
「バラエティは苦手ですが、僕も仕事はしたいです。……一応スケジュールを聞いてもいいですか?」
「そうだな。空いてる日なんだろうが、教えてくれるかい? 番長さん」
みんな予定がある日は仕事をいれないようにってぴぃちゃんに伝えてるけど、念のためっていうのは大切だ。それでもどんな仕事かの詳細を誰も聞かないのは、ぴぃちゃんのことを信頼してるからなんだろう。
「えっと……」
それなのに、ぴぃちゃんは言い淀んだ。一瞬だけ場がしん、としたのがわかる。そうしてぴぃちゃんは困ったようにスケジュールを告げる。
その日は、僕たちC.FIRSTも予定のない日だった。
僕たちじゃダメだって思われたんだ。もう大丈夫だとわかってるはずなのに、少しだけ身が竦む。しゅーくんも、えーしんくんも黙っちゃった。でも僕たちの動揺を少しも悟らずに伊瀬谷くんが声をあげる。
「あ、それってもしかして漣っちの代打っすか?」
「牙崎さんの?」
「オレたち3人でカラオケ行こうって言ったの、断られた日っすよ!」
なんだか芋づる式に情報が引っ張られて、ぴぃちゃんはなんだか困ってしまったようだ。うーん、と唸るぴぃちゃんだけど、ぴぃちゃんは嘘を吐かない。ぴぃちゃんが嘘を吐く時がきたら、きっとみんな黙って受け入れるんだろう。
「……はい。THE虎牙道の代打としてバラエティに出てもらいます」
「はいはい! ならやっぱりオレが出たいっす!」
「いいの? 漣くんの予定が空いたなら3人でカラオケに行けるよ?」
「どあーっ! た、確かに……でもオレ、仕事したいっす!」
卯月さんの素朴な疑問に頭を抱える伊瀬谷くんを中心に、High×Jokerと神速一魂の7人はわいわいと自分たちのアピールをしている。
ぴぃちゃんはそれを一通り聞いた後、持ち帰って判断しますと行ってラウンジを後にした。
「うおー! オレ、今からモノボケの練習するっす!」
「伊瀬谷はまず宿題を終わらせろ。大丈夫だ、俺が見てやる」
「眉見っちが? そーいえば前に教えてくれるって言ってたっすね! よろしくっす!」
「四季、もしかして無敵……?」
率先して伊瀬谷くんがいた机に移動するえーしんくんと、ウキウキと机に戻る伊瀬谷くんと、それを見てポカンと呟くしゅーくん。僕はそんな3人をぼんやりと眺めていた。
***
「やっぱり悔しいですよね」
「うん。向いてないのかもしれないけど……それでも、候補にも選ばれないのは悔しい」
「ああ。だがまたチャンスはある。それまでに俺たちに足りないものを補えばいい」
選ばれなかった。候補にもならなかった。ぴぃちゃんに見捨てられやしないかという不安は、勉強会の帰り道にしゅーくんが溢した「悔しい」という言葉で闘争心になった。
選ばれなかったなら、次のチャンスまでに選ばれるようになればいい。
「……あのあと、プロデューサーに言ったんです。俺たちもスケジュール空いてるよ、って」
「え? そんなこと言ったの?」
しゅーくんってこういうところある。直球すぎるというか、あえて言葉にしないものを言葉にしてほしがるというか、なあなあで流そうとしたことを逃がさないっていうか。僕もやられたからわかるけど、あの真っ直ぐさって困っちゃうんだよなぁ。ちょっとぴぃちゃんの気持ちがわかる。
「はい。そうしたら『C.FIRSTにはまだそういう仕事はさせない』って。イメージ戦略だって言うんです」
「確かに、俺たちのイメージには合わない仕事かもな」
「そっか……そっかぁ。なんかホッとしたかも」
ぴぃちゃんは僕たちがうまくできないって思ったから外したわけじゃないんだ。そうなると逆にぴぃちゃんに守られているような気になってきて、僕はすとんと落ち着いてしまった。だけど、僕らのリーダーは僕らの中で一番『貪欲』だ。
「まだ。つまり、いつかはくるってこと……ううん、もぎ取れる仕事だってことです。だからそれまでに少し特訓しておきましょう」
そう言ってしゅーくんは事務所の倉庫のドアを開けた。たくさん物があるのは貸し倉庫のほうだけど、あっちは鍵が必要だ。こっちの倉庫にもモノボケの練習になりそうな物はたくさんあるし、ぴぃちゃんにも許可は取ったからひとまずはこっちで十分だろう。
「悔しいのは本当だけど、先輩たちのモノボケが見てみたいなーって気持ちも……」
突然立ち止まったしゅーくんに僕らは順番にぶつかっていく。疑問を返す前に、理由を見つけた。
牙崎さんが地球儀を持って立っていた。
地球儀を見ている牙崎さんはいつもと違って、なんだか置物か彫刻みたいだった。真っ直ぐに、少しからだを固くして、じっと一点を見つめている。僕らは息を飲んでそれを見ていた。窓から差し込む光で銀色の髪がきらきらと光っていた。
動いたのは牙崎さんが先だった。バッとこちらにからだを向けると、すごい剣幕で怒鳴りつけてくる。
「っ、テメェら何してんだ!」
反射的に悲鳴に近い音が喉から鳴った。真っ先に返したのはしゅーくんだ。
「ちょっと、大きい声出さないでください!」
「うるせぇ!」
「牙崎。俺たちは用事があって来たんだ。邪魔をするつもりはない」
えーしんくんの言葉に牙崎さんは黙ったけれど警戒をずっと解いてくれない。あ、こわい。飲まれてるってわかる。普段の牙崎さんとは全然違う。しゅーくんとえーしんくんがいなかったらきっと逃げ出していた。でも2人は逃げないから僕もここにいて、牙崎さんと喧嘩みたいな空気になって……なんで、事務所の仲間から「逃げ出したい」って思わなきゃいけないんだろう。
牙崎さんは舌打ちをひとつして段ボールに地球儀を投げ捨てた。えーしんくんがそれを注意する前に、こちらを睨みつけて彼は言う。
「どけ。帰る」
「牙崎も用事があったんじゃないのか?」
えーしんくんが問いかける。正直、引き留めなくていいよって思う。
「どーでもよくなった。オラ、どけよ」
しゅーくんは物言いが気に入らないような顔をしていたけど、えーしんくんは意に介さず横にズレる。僕もそれに倣ったら、しゅーくんもしぶしぶ道を空けた。
のに、漣くんは自分の意思で倉庫から出ることはできなかった。僕たちの後ろから声がしたからだ。
「オマエ、こんなところにいたのか」
「げっ、チビ……!」
牙崎さんが出した声は僕のよく知っているいつもの牙崎さんのものだった。空気が変わった、というより牙崎さんの雰囲気が変わった。牙崎さんの変化で弛緩した場の空気に、それまでこの空間が牙崎さんに支配されていたことがわかる。
牙崎さんは気まずそうに目線を彷徨わせたあと、一瞬の隙をつくように駆け出して、しっかりと大河くんに捕まった。
「おいコラ! 離しやがれ!」
「断る。レッスンにも来ないでなにしてんだ」
「チビには関係ねーだろ!」
「関係ある。ほら、行くぞ」
そうして牙崎さんはずるずると大河くんに引きずられていった。なんというか、言ったら絶対に怒るから言わないけど、猛獣がいきなり首を掴まれた気性の荒い猫になったようだった。
「……なんだったんでしょう」
「わかんない……」
「用があったようだが……」
なんというか、わからないということしかわからない。
モノボケっていう空気でもなくなった僕らはおとなしくその場を後にして、事務所のソファーでしゅーくんの淹れてくれたコーヒーを飲んだ。僕はコーヒーの真っ黒とは真逆の、きらきら光る銀色の髪を思い出していた。
***
僕たち3人は様々な経験からなるべくいろんなことを話すようにしているけど、こればっかりは相談しなくていいという不文律がある。そう、コソ練には報告の義務がない。3人でやるコソ練は楽しいけれど、僕ら3人、ちょっとカッコつけなとこがある。
とはいえモノボケのコソ練ってどうしたらいいんだろう。2人が生徒会の仕事で忙しいうちにひとつくらいはボケておこうと思ったが、判断する相手がいなくてもなんとかなるものなのかな。
まぁとりあえずはなにか物を手にしてイメージするところからだろう。もしも誰かに見てほしいときは、事務所には誰かしらいるからその人に見てもらえばいい。
倉庫のドアを開ける。なんだか、デジャヴみたいな光景が広がっている。
また、牙崎くんがいた。
でも今日の牙崎くんはなにも持っていなかった。なんだか迷子のように座り込んで、ぼんやりと小物の入った段ボールを見ている。そうして、当たり前みたいに僕を見た。
「……帰る。どけ」
すっと立ち上がった牙崎くんは前みたいに怒ってなかった。こちらに歩いてくる牙崎くんを引き止めるように、後ろ手にドアを閉めて声をかける。
こんな人、怖いだけで関わりたくないのに。
「……ねぇ、」
「アァ?」
「用事があってここにいるんでしょう?」
ぴたりと牙崎さんの動きが止まった。なんでだろう。すぐにでも帰って欲しいのに、気がついたら僕は牙崎さんに近づいてその手を取っていた。
「僕に手伝えること、ある?」
牙崎さんは僕が手を取った瞬間にびくりとからだを固くした。なんだか、そういうのも含めて動物っぽい人だなぁって思う。牙崎さんはたっぷりと沈黙したあとで、なんだか諦めるような声で呟いた。
「らんどせる」
「え?」
「……らんどせるってどれだよ」
ランドセル、って、牙崎さんはそう言った。『どこだよ』じゃなくて『どれだよ』って、そう言った。
場所を知りたいの? って聞いたら多分傷つけてしまう。僕は牙崎さんのことをなんにも知らないけど、牙崎さんが『どれだよ』って言った意味を理解していた。
牙崎さんはもしかしたら、ランドセルを知らないのかも。
なんかの冗談かと思った。それか、僕の勘違いで場所を探してるだけ、とか。
でも、なんとなく牙崎さんはランドセルを知らないんじゃないかって思う。胸がざわざわする。牙崎さんはいつだって大丈夫そうに見えるのに、いや、いつだって大丈夫なのに、どんどん僕の方が大丈夫じゃなくなるみたいだ。
手を離したら帰っちゃわないか、逃げだしちゃわないか不安だった。「待っててね」って言ってランドセルを探す。僕たちの目の前の棚には真っ赤なランドセルと真っ黒なランドセルが一目でわかる位置にある。
ああ、本当に知らないんだ。
こんなに見えやすいところからランドセルを取ったら、彼のプライドやなにかしらを傷つけやしないか。それでも僕は真っ赤なランドセルを手に取って、彼に渡す。
「……これがランドセル」
「これが……」
牙崎さんは「ふーん、」と言ったっきり黙ってしまった。ランドセルをぺたぺたと触って、くるくると回して観察してる。
「ねぇ」
「ん」
「……誰にも言えなかったの?」
怒られるかもしれないのに、気がついたら僕はそう口にしていた。牙崎さんが返事をしない意味を勝手に考えて、言葉を続ける。
「……なんで僕に言ってくれたの?」
「ア? オマエが聞いてきたんだろうが」
もっともだ。本当に、それ以外に理由はないように思える。それでも、そうだねって笑うよりも、牙崎さんの言葉を待っていたかった。
「……別に。たまたまそこにオマエがいたんだろ」
牙崎さんはそう言ってその場に座り込んでしまった。一緒にいることを許されたようで、僕もその隣にしゃがむ。ランドセルを開けようとしている牙崎さんに問いかけた。
「牙崎さん、前に地球儀を見てたよね」
牙崎さんは本当に心当たりがないとでも言うように首を捻った。牙崎さんのことだから僕たちと出会ったことなんて覚えてないのかもしれないって思う反面、もしかして、って思う。
「あ、丸いやつ。丸い世界地図……」
「あーあれか」
なんだかずいぶんと打ち解けたように牙崎さんが言う。なんというか、あんまり怖くない。
「その辺にあったから見てただけだ。地図なら読めるし」
「そうなんだ」
ランドセルは知らないのに地図は読めるなんておかしな人だ。でもやっぱり牙崎さんは変わらずに大丈夫で、だんだん僕も大丈夫になってくる。
「……牙崎さんはどこの生まれなの?」
ちょっとだけ、牙崎さんのことが知りたかった。
「ンなモン知るか。どっかそのへんだろ」
「どっかそのへんかぁ……」
はぐらかされてる感じはしない。もう少し話したいなって思って僕は続ける。たくさん質問したかったけど、質問ばっかりするのもなんだか一方的な気がして、きっと牙崎さんが興味なんてない僕の話をする。
「僕は東京。事務所にはいろんな出身の人が……あっ、待って」
「もうここに用はねーよ」
やっぱり興味がなかったみたいで、すっと立ち上がった牙崎さんは普段の騒がしさなんてひとつも感じさせずに音もなく倉庫を出ていった。
僕は牙崎さんが放置したランドセルを手にして少しだけランドセルでボケてみようと思ったけれど、なんだか絵本を読み終えたあとのようにぼんやりとしてしまい、しゅーくんとえーしんくんがくる時間までぼーっと倉庫で座っていた。
***
今日も今日とてしゅーくんとえーしんくんは生徒会の仕事だ。生徒会の仕事って学校の年中行事に引っ張られるから2人が同時に忙しくなるのは当然で、むしろ暇な僕の方がなんだかおかしいのはわかってる。
「おはようございまーす」
事務所には大河くんがいた。山村さんもいたけれど、なんだか忙しそうにしてる。
大河くんは台本を読んでいた。僕に気がついて視線を上げると「おはよう、百々人さん」と挨拶をしてくれる。大河くんは律儀に台本を閉じて僕に軽く頭を下げた。
「この前はアイツがすまなかった。大きい声を出してただろ」
「あ、ううん。大丈夫」
あの時は大丈夫じゃなかったけど、牙崎さんにランドセルを教えた時にあの日怒鳴られたこともなんだか大丈夫になってしまったから不思議だ。牙崎さんがいい人かはわからないけれど、悪い人ではないんだと思う。
大河くんが台本をもう一度開く前に大河くんの横に座った。言いたいことがあった。
「あのあと、また倉庫で牙崎さんに会ったよ」
「また倉庫にいたのか」
「うん。牙崎さん、ランドセルを探してた」
なんだか、絵本のように光景が脳に焼き付いている。日を浴びてきらきらと輝く銀髪と、地球儀を見つめている彫刻のような姿と、子供みたいにランドセルを観察している金色の瞳。
「……牙崎さんはランドセルを知らなかったよ」
「……そうか」
大河くんは僕の言葉を簡単に受け入れた。大河くんにとって牙崎さんがランドセルを知らないってことは、特別に驚くことじゃなかったみたいだ。
僕は言いたいことを言い終わる。大河くんが食べるかなって思ってカバンからお菓子を取り出そうとしたら、大河くんが独り言のようなトーンで僕に言った。
「アイツは……百々人さんには聞けたんだな」
「……うん」
きっと、たまたまそこにいたから。そう笑えば大河くんは「誰でもよかったわけじゃないと思う」と目を細めた。
「アイツは俺たちには……いや、俺には絶対に聞かないから。よかった」
なんだか優しい声だった。大河くんはよかったって言ったけど、僕は牙崎さんのことでこんなに優しい声を出す人がいることを『よかった』って思う。
「そういえば、百々人さんたちは倉庫で何をやってたんだ?」
「あー、あれね……あれはモノボケの練習で……」
少し照れくさいが正直に口にした。なぜモノボケの練習を、と首を傾げる大河くんに経緯を説明していたら、そもそもの発端がTHE虎牙道の代打という話につながった。
「ああ、そういえば俺たちの代打はHigh×Jokerに決まったらしい」
「あ、そうなんだ」
「隼人さんと四季さんが盛り上がってた。……アイツは機嫌悪そうにしてたけどな」
伊瀬谷くんなら面白いモノボケでもスベっても笑いが取れるに違いない。僕も愛嬌で乗り切っている場面はあるけれど、伊瀬谷くんは僕とは別のベクトルで愛嬌をアイドルとしての大きな武器にしているという印象がある。僕と違って、無意識に。
「……ねぇ、」
「なんだ?」
もしかしたら、だけど。本当はわざわざ聞いちゃいけないことなんだろうけど。
「バラエティの仕事がTHE虎牙道から変更になったのって……」
「アイツが理由だ」
やっぱり、って言葉と息を吐いた。仕事内容はあの日に少しだけ聞いた。モノボケのコーナーがあるって、ぴぃちゃんは言っていた。
「モノボケ、ってのか? 試しにやってみようって、倉庫の物を持ち出してモノボケの練習をしてみたんだ。お題を出しあおうってなって……円城寺さんが、ランドセルって言った」
僕はランドセルが目の前にあるのに手に取れない牙崎くんのことを思い出す。なんだか諦めたように、僕にランドセルはなにかと聞いた牙崎くんの声を思い出す。
「アイツ、棒立ちになって固まってた。目を大きく開いて、でも目線は床から動かなくて。……もどかしいよな。アイツはバカだけどバカじゃないのに。知らないって、そういうことだから」
「うん……」
絶対に理解できない苦しみなのに、僕は勝手に僕のなかに似たような傷を見つけて理解したつもりになっている。模試とか、レッスンとか、わからなくて頭が真っ白になって息が止まるような感覚で牙崎さんの心の中をイメージする。
「笑わせるのはいいけど笑われるのは嫌だ。……アイツが笑われるのだってゴメンだ。だから、俺が『降りたい』って言った」
「……大河くんは優しいね」
「これは俺の身勝手だ。だからアイツの機嫌が悪い」
「そっか」
それでもやっぱり、牙崎くんの隣に大河くんがいることは幸福なように思う。大河くんと牙崎さんと円城寺さんが並んでいると、なんだかとても好ましい。事務所にいるユニットはみんなそんな感じがする。
僕と、しゅーくんと、えーしんくんも、そうなったらいいなって思う。みんなとは違う形で、僕らなりの幸福の形になれたらいいと思う。
「……ランドセル知らねぇって、考えてみるとすごいよな」
「すごい、って言っていいのかわからないけど……びっくりはするよね」
見たこともないのかな、と思ったけど道端とかでは見てるんじゃないかなって思い直した。そう考えたら僕だって見たことあるけど名前を知らないものってたくさんあるし、全然普通のことなのかも。そう理屈付けることもできるのに、やっぱりランドセルってなるとびっくりしてしまう。その境界線はどこなんだろう。
「びっくり……そうだな。たまに思うよ、俺とアイツって全然違う生き物なんだって……そういう当たり前のことを思い知らされる」
アイツ、ラムネも知らなかった。そう呟いた大河くんは少しだけ悲しそうだった。
僕はランドセルを知らない牙崎さんのことを考えて、ついでみたいに僕自身のことを考える。僕はランドセルを知ってる。牙崎さんはランドセルを知らない。別にそれ自体は悪いことでも可哀想なことでもないけれど、自分の当たり前と違うとびっくりする。
そうして考える。頭ではおかしいってわかっているのに、いつのまにか当たり前になってしまっていたお母さんとのやりとりのことを。
同情はされたくない。でもしゅーくんが僕の『当たり前』をおかしいと憤ってくれた。えーしんくんが苦しい『当たり前』から逃れられる居場所になると言ってくれた。僕はあの時、少しだけ救われた。
牙崎さんにそういう存在はいるんだろうか。いるとしたらそれはきっと大河くんと円城寺さんなんだと思う。でも、あんまりにも『大丈夫』な牙崎さんのことを考えると、牙崎さんにはそういう存在が必要なのかわからなくなる。
「俺はアイツが知らないもの、知れてよかった」
でもそういう存在は必要だとか不必要だとか、そういうのを関係なしに気がついたら隣にいるものだ。牙崎さんがどんなにうっとうしいって思っても、きっと彼を放ってはおけない人がいる。
「知らないとフォローもできないからな。……アイツの知られたくないって気持ちもわかるけど、」
それは僕にも理解できた。僕だって、あんな話は3人にしかしたくない。
「俺たちに知られたくないこと、相談できるやつがいてよかった。……百々人さんがいて、事務所のみんながいて、よかった」
「そっか……牙崎さんは逆に、仲のいい人には話せないんだね」
「俺とアイツは仲良くない」
「ふふ、そっか」
大河くんは照れ隠しみたいに台本を開いた。目線は外れたけれど、はっきりと僕に言う。
「またアイツになんかあったらよろしく頼む」
「うん。大河くんも僕のこと頼ってね」
牙崎さんには言えないでしょ? そう笑えば大河くんが困ったように笑いながら台本を閉じて僕を見た。
「サンキュ。今度勉強とか、俺の知らないことを教えてくれ」
「任せて。僕、頑張っちゃう」
僕には知っているものがあって、知らないものがある。できないことがあって、できることがたくさんある。なんだかうれしい。なんだか、やるぞー! って気分になる。
「百々人さんも俺たちのことを頼ってくれ。トレーニングのメニューとか考えるよ」
「ありがとう。……そういえば大河くんと牙崎さんって同じウォーミングアップしてる?」
「少し違うけど基本は一緒だな。……それがどうかしたか?」
「いや、このまえ牙崎さんの柔軟を見たらちょっとびっくりするくらい柔らかくて……」
「アイツは本当に人を驚かせてばっかだな……」
僕はお菓子を取り出して、大河くんとたくさん話をした。もうすぐしゅーくんとえーしんくんが来るよ、って言った。もう牙崎さんの話はしなかった。