ナナシくんなら、きっと出来る…はず! HANOIの自由を訴えるべく、設けられた演説会の帰り。
よく使用する古いセダン型の車を後々ちゃんと免許を取ったナナシが慣れた手付きで運転をして、保護センターへと向かっていく。
後部座席に保護センターの施設長であるコーラルと付添のクレヨンが乗っていて、時折二人が話をしているのを振り返ったりせず会話にも入らず、ただ聞き耳をたてながら運転を続ける。
とある大通りで先頭で赤信号に引っかかっていると、ミラー越しに周囲を見ていたナナシは、サイドミラーで僅かに写る、一台後ろの車が気になった。おそらくハッチバック型で色は真っ黒。ルームミラーでその車の正面を、乗っている人物を少しでも確認しようとするが、全体的に窓は黒くなっており、車内の確認が出来ない。
それが分かると同時に、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、どこかへ電話をかけて通話し始めたかと思えば、短い言葉だけ伝えて一方的に通話を切って、ポケットしまった。
そして、ミラー越しにコーラルとクレヨンに見ると、ため息をもらした。
「あのですねぇ。後部座席だからって、シートベルトをちゃんとしてもらわないと困りますよ」
「…あ、あぁ。そうだね。ごめんね、ナナシ。うっかりしてた」
急にそう言われて驚くコーラルだが、ミラー越しのナナシの顔を見て、何かを察した様子で慌ててシートベルトを閉める。それに続くようにクレヨンもシートベルトを閉めると同時に、横断歩道の信号が青から赤へと変わる。
「あーそれと、今から結構揺れるんで…クレヨン」
「っ!うぃ!任せてナナシ!」
クレヨンはコーラルを守るように体で彼に軽く覆い被さり、伸ばした腕でがっしりとその体を固定する。
そして、車道の信号が青へと変わった。
変わる瞬間に、ギアを素早く操作したナナシは思いっきりアクセルを踏み込む。勢いよく発進した車は、制限を優に超える猛スピードで大通りを走り抜ける。すると、黒いハッチバック型の車が、前の車にぶつかりながら無理やり前に進み、抜け出すとナナシ達の自動車が行った方向へ、こちらも猛スピードで追いかけてくる。
その光景をミラーで確認したナナシは、ハンドルをぐるぐるとまわし、ジグザグに車の進行方向を変えながら走っていく。車体はもちろん車内も前後左右に激しく揺れるが、クレヨンのおかげで体を固定されたコーラルは、どこかにぶつけたりすることもなく、ただ前を向きミラー越しにナナシを見る。道の曲がり角に来る度に、ギア、アクセルとブレーキ、ハンドルを巧みに操作するナナシは、ほぼスピードを落とさないまま運転していく。
そしてしばらくそれが続いたが、何度目かのカーブで曲がった後、確認の為にミラーで後ろを見ると、あの車の姿が見えなくなった。ミラー越しにナナシの顔を見ていたコーラルが、彼の表情の変化から直接後ろを見て、車が来てないのが分かると彼へと振り返る。
「…まけたの、かな?」
心配そうな表情を浮かべるコーラルを見て、眉間に皺を寄せたまま、ナナシは首を横に振る。彼の勘が、前にいたマフィアでの経験が、彼からの問いを否定している。
「いや、おそらく。…っ!」
言いかけた瞬間、何かに気づいたナナシは、素早くアクセルから足を離して、思いっきりブレーキを踏み込んだ。キキィーと耳障りな音を鳴らし、タイヤを軽く滑らせながらも、車は急停止した。急なことに驚くコーラルとクレヨンの目線の先、すぐ目の前の横道から見覚えのある車が通り過ぎて行った。あのハッチバック型の車だ。どうやら先回りされてたようだ。それが分かると、ギアをすぐにバックに切り替えたナナシは、数メートル後ろへと下がった後、すぐ側の脇道へと車を進ませ再び猛スピードで走っていく。すると、ミラーにあの車が再び写った。
「っ!ナ、ナナシ!」
揺れながらも、ミラー越しに後ろの車を見ていたコーラルが何かに気づいたようで声をあげた。その理由を知るべく、ナナシもミラーをよく見る。すると、その車の後ろを似たような車が付いてきているのが、わかった。
そう、二台になって、ナナシ達の車を追いかけてきているのだ。
それがわかったナナシは、大きく舌打ちをしながら、再びジグザグに道をかけ、それでも何処かへと向かっていく。
車は街から離れていく。建物も疎らになっていき、窓から見える景色に木々が多くなってきたかと思えば、その木々の間に青いものが見え始めた。街を出て、木々を抜け、海の崖付近を走っていく。まだあの二台の車は距離はあるが追ってきている。
そのまま舗装された道を外れ、ゴツゴツとした道を通っていく。さっきよりも車内は激しく揺れる。まだ追ってきている。
それを確認したナナシは、ため息をついた。
「…クレヨン。ベルトを外せ」
「えっ?」
「うん、わかった」
言われた言葉に意味が分からず、思わず声が出てしまうコーラルのベルトをクレヨンは躊躇いもなくガチャと音をたてて外し、自身のベルトも外す。それに驚くコーラルがナナシに目を向くと、彼も運転しながら自身のベルトを外している。
「え、ナ、ナナシぃ?こ、これは…」
オロオロするコーラルに何も言わず、ナナシは曲がり角でハンドルをきった後、横のボタンを操作して、車のドアロックを解除して、後ろのドアを軽く開ける。そして、自身の横にあるドアも軽く開ける。
その時、前を見たコーラルが大きく声を上げる。車の進む先、数百メートル先で地面が途切れていたのだ。このままだと車が落ちる。
ミラー越しにあの二台の車を確認する。まだ映ってない。
「クレヨン!コーラルと一緒に降りろ!」
「えっ!?ちょっ、う、うわぁ!」
ナナシの言葉に驚くコーラルをギュッと抱きしめたクレヨンは、開けかけたドアを勢いよく開けると、そのまま彼と一緒に外へ向かって跳ぶ。抱きしめたコーラルに怪我のないように自分の背中から地面へと、受け身を取ったまま落ちていき、そのままコロコロと近くの林へと転がっていく。
それを見届けたナナシも同様に、運転席側のドアを開け、外へと飛び出した。彼もしっかりと受け身を取って、そのまま林の中へと消えていった。
運転する者がいなくなった車は、目前に迫った崖から飛び出し、重力に従って下へと落下していき、そのまま大きな音を立てて、海へと吸い込まれていった。
追ってきた二台の車は、落ちた崖付近で停車すると、中からガラの悪い人達が数人降りてきた。崖ぎりぎりまで近づき、下を覗き込む。海面からはブクブクと大きな泡が出来ていて、その辺りに車が沈んだということがわかる。すると、車から明らかにボスらしき男が降りてきて、部下に声をかける。
「どうだ?」
「完全に沈んでいますね。ありゃ助かりませんねぇ」
「…そうか。追い詰められた末に自暴自棄になって自殺したっといった感じか」
「はい。その見立ててよろしいかと」
「ふん。哀れな男だ。ただの道具でしかないHANOIに心があるだとかなんだとかで世論を変えていこうとするから、こんな悲惨な目にあうのだ。…よし、引き上げるぞ」
ボスらしき男がそう言って車へ戻る。部下たちも続いて車へ戻り、すぐに車を発進させて、その場から去っていった。
車のエンジン音が遠のき、完全に聞こえなくなると近くの林からガサガサと音を立てながら、コーラルたち三人が出てきた。
「これで、完全にまけましたね。…ったく、最終手段を使う羽目になるとは、手がかかるっつーの」
「ナナシ!最終手段って何?どうしてちゃんと言ってくれないのさ!?」
「…アンタに言ったら、止められるに決まっているだろ」
「止めるよ!当たり前じゃないかっ」
「はいはい。説教はよして下さいよ。結果的にちゃんと助かったんですから、もういいでしょう」
「よくないよぉ!もうっ!クレヨンにも危険な目に合わせたし」
「クレヨンには事前と言ってあるんで大丈夫です」
そう言われて、コーラルがクレヨンの方を見たら、クレヨンは内緒にしててごめんね。ティカや他の職員は知ってるよと、言われた。
「…何で、僕だけ」
「だから、止められるからって言ったでしょう。何度も言わせんな。…さて、少し歩きますが、予備の足はちゃんと用意してるんで、さっさと行きましょう」
車が落ちた数メートル離れたところの空きスペースに、見覚えのある車がカバーにかけられた状態で置かれていた。前もって準備していたようだ。
車に乗り込み、一応死んだと思われてまけてはいるが、念には念を入れていつもとは違う道で保護センターへと向かっていく。その帰り道の最中で、ナナシが内緒にしていたことを話してくれた。
数日前に保護センターに今日の演説会に出た場合殺害するという脅迫状が届いたこと。それを警察に相談すると、特定のあるマフィア集団がこちらを恨んでいるという情報を得たこと。情報だけでは警察は動けないので証拠があれば動くと言われたこと。それを聞いたナナシが、前もって隠し持っていたボイスレコーダーで先程の崖での彼らの会話を録音していて、これが証拠なり、彼らを逮捕できるということ。そして、これらのことをコーラルに話すと絶対に止められるので、話せなかったこと。
車を運転しながら、全てを話してくれたナナシに対して、コーラルは真っ先にごめんと謝った後、今後同じようなことがあったら、絶対に話してほしいと強く彼にそう言った。
その言葉に対して、ナナシはため息をつきながら、善処しますと言って、この話は終わりだと言いたげに、近くのボタンを操作して音量を小さめにしてラジオを流し始めた。
彼のその態度から、これ以上言及しない方がいいと思うコーラルだが、一つだけ気になることがあった。
「ねぇ、ナナシ。さっきのあれ。車から飛び降りてそのまま海に落とす、あれね。…君、なんだが手慣れてたような感じでクレヨンに指示出したり、行動してたけど。…もしかして、あれ。…その、前にやったことあるの?…前のところで」
コーラルがそう言った瞬間、車が急に停まった。それに驚いたコーラルが前を見ると、信号が赤だった。自分の問いで急停車してないことに安心したコーラルは、嫌なら無理に答えなくてもいいからねっと、言葉を付け加える。
コーラルからの問いにナナシは何も答えずに、ただミラー越しに彼を見る。すると、彼と目が合う。何を思ったのか、すぐに視線を反らして、横を見たら、横断歩道の信号がもう少しで変わりそうだ。そのまま前の信号機へ視線を動かす。
「…やったことありませんよ。あれは、少し前にテレビで流れたドラマシーンを真似ただけです。上手くやってたように見えたのなら、恐縮ですよ」
前の信号機を見たままナナシがそう言うと、後ろからフゥーと息を吐く音がした。安堵しているようだ。
「そ、そっか。…あ、でも、上手く出来たからって、もう二度とあんな危ない真似しないでよ。君にもしものことがあったら…」
話の後半で、少しコーラルの声が震えてるのがわかる。彼に大事にされてる。嘘偽りもなく、本気で。だから、その暖かい気持ちに答えるべく、ナナシは返事をする。
「わかってますよ。もう二度としません。まぁ、やった奴らは逮捕されるんで、やる機会もないでしょうけど」
「機会があっても、やらないでよ。約束!」
「…はいはい。約束しますよ」
仕方ないと言いたげな感じで返事をしていると、コーラルの横に座っているクレヨンが彼に話しかけてきた。そのまま自然と話題が変わり、全く関係のない話をし始める。
前の信号が変わりそうだ。
(…アンタは、知らなくていいんだ。俺が前にいたところのことなんて。知ってほしく…ねぇ)
信号が青に変わる。ゆっくりとアクセルを踏んだ。
車はナナシの運転通りに走っていく。保護センターに到着するのは、まだ時間がかかりそうだ。
終わり