サシャアニ飲酒静まり返った空間に金属が重なる音と不規則な足音が響く。その音に呼応するようにゆっくりと閉じていた瞼が開いていく。どれくらい眠っていたのだろうか。ぼやけたままの眼を擦りながら音が鳴る方へと目を遣ると、ふらふらと頼りがいのない足取りをした愛しい恋人が電気をつけながら玄関に倒れ込んでいた。
「あーあーもうこんなになるまで飲んで…。」
肩を竦めつつ独りごちて少し足早にアニの方へと向かう。玄関の鍵を閉めて荷物と上着を半ば剥ぎ取るように受け取った。靴を脱がせた後、まともに歩けなさそうなアニの両脇に腕を突っ込んで強引に抱き込む。
「はいはい。アニちゃんソファに行きますよー。」
見た目より重い…と言ったらアニに蹴られそうだが、毎度の如く想像以上に力を込めないと抱えられない重さのアニを、リーチ分の筋力だけでカバーしてリビングへと運ぶ。言葉にならない言葉を発している彼女を横にして、お水でも取ってこようかとその場を離れようとするが、その瞬間首裏に重力がかかる。
「ぅ……サシャ、どこ行く、の…。」
どうやら腕を巻き付けられているらしい。物の見事に身動きが取れない。単純な筋力だけならアニの方が強いのだ。今までの経験上これは抵抗するだけ無駄だと理解している為、それ以上逆らうつもりはない。立ち上がろうとした腰をそのまま落としてアニの顔を覗き込む。
「こーんなに真っ赤になるまで飲んだくれた誰かさんの為に、水を取ってこようとしてたんですよっ…と。」
汗で張り付いた前髪を梳かしながらおでこを顕にする。無防備な額を軽く指先で弾くようにすれば、小さくイタッ…と呻き声が聞こえた。一気にシワがよった眉間に指を這わせてぐりぐりと押し当てつつ、今にも噛み付いてきそうなアニをじっと見つめたまま、
「で?こんなに酔って、どうやって帰ってきたんですか?」
少しだけトーンを落とした低い声を出す。私以外の誰かに支えてもらわないといけないような状況だった事はこの様子を見るに明らかだ。心配もあるけれど、怒りが湧かない訳では無い。最悪な場合、アニに邪な気持ちを抱いている輩に連れていかれてしまうことだってありうるのだ。アニも自覚はあるらしく、目を逸らしながらバツが悪そうな顔をする。
分かっているならしないで欲しいんですけどね、こんな事。
心の中で悪態をつきつつも、アニだから仕方ないのか、とも思う。私が言い聞かせているからそういうものかと頭で理解しているだけで、実際自身に向けられる好意や感情に呆れるほど愚鈍なのだ、アニは。自分が好かれているなどと端から思考の隅にすらない。そういう人だから私達が付き合う事になった経緯もそれはもう大変だった、と近からずも遠からずな記憶に想いを馳せていたところで。
「ヒッチが…タクシーのせてくれた……。」
別に真剣に求めていた訳ではなかった質問の返答をアニが律儀に返してくれる。ただどうしてこんな事をするのかを問い詰めるだけの常套句のつもりだったのだが。
「もう、またヒッチですか。そろそろ菓子折でも持っていった方がいいかもしれませんね…。」
ヒッチは悪態をつきつつもなんだかんだ面倒見が良く、特にアニに対しては甘いところがある。めんどくさいだけよ、あんな朴念仁。と口癖のようにアニを評価しているが、その実どうにも放っておけないらしい。アニに対するヒッチの甘さ加減など、周囲の人から見れば火を見るより明らかだというのに口先では戯言を繰り返す。仮に本心でそう思っていたとして相手にしなければ良いものを、気になっては構ってしまう上に、アニ自身も散々に言われながらも構われてしまうのだから、この二人の関係性も不思議なものだ。しかし恋慕といったものとは無縁らしく、どこの誰だったか、ヒッチにアニとの間柄を尋ねた際には顔を真っ青にしながらそれだけは無い。絶対に。と力強く否定されたそうだ。曰く、庇護欲みたいなものとの事。
私自身もヒッチとアニの関係性を間近で見てきた分、一定以上の信頼がある。それだけにヒッチがいるならと、安心してしまう部分が多かったのは認めざるを得ない。それに味を占めてしまったアニがいるということも含めて。以前は事前に知らせてくれていたことも、最近では事後報告で秘技・ヒッチ召喚を使うようになってしまった。
…それ言えばなんでも許されると勘違いしてませんよね?
「とにかく、後でヒッチにはお礼を言っておくとして……って。」
思考を巡らせていた間に、さっきまで会話ができる程には意識がハッキリしていたはずのアニが、息苦しそうに肩を大きく上下に動かしている。熱の篭った吐息を深く吐き出している事から察するに、強い酔いの波が来ているのだろう。この感じだと飲みの席の解散間近で思いっきりお酒を煽ったことが伺える。その時のアルコールがちょうど今回って来たというところだろうか。
「ちょ、どうしてこんなになるまで飲んじゃったんですか!?」
そこまでお酒に強くないアニは普段から積極的にアルコールを摂取しようとはしない。そこまでお酒自体好きという訳ではないらしく、なんとなく場の雰囲気でちびちびと嗜む程度にしか飲まないはずなのだが、今回はえらく調子が良かったのか。いや悪かったとも言えるのか…とにかくいつもの様子からは考えられない行動をとったことは事実だ。やはり一旦水を飲ませないと…と立ち上がろうとしたところで今度は服の裾がつんと伸びきった。
「…サシャ、っぁ…。」
途切れ途切れの息の中、懸命に名前を呼び傍に近づこうと手を伸ばしてくるアニ。そのまま体ごと手繰り寄せられたかと思えば後頭部を力強く掴まれる。次の瞬間、口元に走る鋭い痛み。
「んっ……痛ッ。」
勢いがつきすぎたのか、唇に相手の歯が押し当てられる事で出来た痛みがじわじわと周囲に広がっていく。今のはアニからキスをしようとしたのだろうか、普段の彼女の様子では滅多に起こりえないことの為に判断がつきにくい。決して頭突きをしようとした……とかではないはず。多分。いやアニならありえるかも…。
ムードもへったくれもなくうんうんと唸っている間に目に映るのは、私のその様子がご不満だったようで軽く唇を尖らせて眉を下げているアニの顔。ムッとした表情のまま今度は私の鎖骨あたりに頭を預けてぐりぐりと押し付けてくる。お酒の影響か力加減が出来ていないようで、先程から全ての素振りが絶妙に痛い。いや本当に痛い痛い少し待って。
「アニ、アニ…あの、ちょっと痛いです。」
「………じゃあ…もう、いい。」
「あーいやいや嬉しいんですよ。ちょっとだけ力が強いっていうか……あぁもう拗ねないで、私が悪かったですから。」
顔を背けて離れようとするアニを今度は逆にこちらから捕まえる。後ろに回り込んで脚の間にアニを座らせると、ちょこんと擬音がつきそうなくらいすっぽりと簡単に収まってしまった。こと武術に関しては定評のあるアニが、まるでお人形さんのように大人しく自分の体の中に収まってしまう事がたまらなく愛おしい。しかし愛おしさと同時に独占欲と優越感も抱いてしまうのはここだけの秘密だ。
「アニもしかして…今日は甘えたさんなんですか?」
「…………ん。」
少しだけ意地悪のつもりで、からかうつもりで軽口をたたいたのだが、帰ってきた反応は存外素直なもので。てっきり怒られるだろうと思って身構えていただけに肩透かしを食らった気分だ。アニが自ら進んで甘えてきた事など片手で数える程しかない。……いや片手で数える程はあったはずだと信じたい。が正しいか。ともかく、想像だにしなかった反応に、少しだけこちらもどう返事をしたものか迷ってしまう。
「……私があまえると、へん、……?」
あんまりそういうの、サシャはすきじゃない?と続く言葉を心の中だけで即座に否定する。好きな人に甘えられて嫌な人なんているわけないじゃないですか。と、口に出せたら良かったのだが、つい吃ってしまって上手く言葉が出てこない。
「サシャみたいな子にはあかるくてすなおで楽しそうな子がにあうっていってた。」
「きっと、サシャがすきになる人もサシャといっしょみたいなタイプだろうって。」
「でも、サシャはわたしとつきあってるし……サシャ私のことほんとうにすき…?」
私たちってつきあってるよね?と不安げに尋ねられるも、一体アニが何を言っているのかさっぱり分からなくて思わず呆けてしまう。私に構わず矢継ぎ早に紡がれた言葉が右から左へと流れてしまって、全く状況が理解できない。そもそも「言ってた」って何?どこの誰が?アニは昔から言葉足らずなところはあるが、今回に限ってはあまりにも主語も脈絡も無さすぎる。現代文の成績は悪くなかったはずなのだが。
「何をバカな……忘れちゃったんですか?アニの事、こんなに大好きだって伝えてるのに?」
アニをだき抱える方向を変え、向かい合わせの体勢になるようにする。顔を覗き込もうとすれば、ぅ〜……と呻いて伏せてしまうから、仕方なく後ろ髪を優しく梳かしつつ子供を宥めるように背中をゆったりとたたく。
「だって、サシャはめんどう見るより見られたい側だろうって。」
「いやだから誰なんですかそれ言ってるの。別に誰でもいいですけどなんでアニは他人が言った事を真に受けちゃうんですか。」
あとさっきから話の前後が繋がってなくて分かりにくいです。と小言を追加してやればみるみると萎れていく。
ここまで来ると一瞬止まってしまった思考も再び起動し、ある程度勘も働く。推測にはなるが、恐らく飲み会の席で曰く恋バナといった話題が提供された際に私の話があがったのだろう。順に誰々はどうこうっぽいとか、そういうありきたりなやつだ。アニがいつもより酔っていたのもそれならば納得出来る。無駄に一人で抱え込んで考え込んでしまいがちなアニのことだ。無視すればいいものを、それを小耳に挟んでしまったアニが思わず真剣に聞き入ってしまって、あれやこれやと悩んでいる内にお酒をいれすぎてしまった、という流れなのだろう。おまけに最近は私に向けられる好意が男女問わずに増えてきている…のかは知らないが、実際告白される機会は増えたので、それに対する懸念もあったのかもしれない。アニは自分に自信が無いところがあるから、似たような流れで変に突き放すようなことをされた事は正直今までも幾度かある。にしてもこの流れで甘えてくる方に転じたのは初めてだったけれども。アニなりに頑張ろうとしてくれたのだろうか。もしかしたら話の中に出てきた私の理想像とやらに近付こうとしてくれたのかもしれない。話を部分的に掻い摘んだのか、その理想像とやらに一貫性がなかった気もするが。先程お酒を飲みすぎてしまった理由を決定づけたところだったが、もしかすると素直になる為にお酒の力を借りようとした、という説も考えられるのかもしれない。思考を深くすれば深くするほどそんなアニがいじらしくてたまらなく可愛くて、このまま甘やかしてあげたい気持ちになってくる。しかしここはきちんと分からせてあげておかないといけない事がある。
「アニのこと、大好きですよ。アニが一番好きです。アニがアニだから好きで愛おしい気持ちになって、付き合って欲しいってなったんですよ。ね?そんな何処の馬の骨だか分からない人の言うことなんて気にしてないで、私の言葉を信じてくれませんか?」
アニが信じられないのは自分自身だ。それはもう性分だから仕方ない。でもそれなら貴女が好きになった私を信じて欲しい。そう祈りを込めて、伏せてしまったアニの涙の滲んだ目尻にそっと唇を落とす。すると私の体に添えられていた腕にぎゅっと力が込められる。それを返事として顔中に優しく口先だけで触れていった。小鳥が戯れているかのような触れるだけのキス。持ち上げられた瞳と向かい合わせになれば、アニの方から顔を近づけてくる。今度はちゃんとゆっくりと、ぶつからないように。
「…アニからのキスってもしかして初めてじゃないですか?」
「………そうだっけ。」
「そうですよ!」
アニはそうやって不安がりますけど、私だってあんまり放置されると悲しいし不安になることだってあるんですからね!と釘をさしておくが、返ってきた言葉は生返事なもの。聞いているんだか聞いてないんだか…と半ば諦めに似た気持ちを抱いていると、アニが啄むように口付けを繰り返してくる。それはまるで幼子が親にするような幼稚なもので、決してロマンティックな恋人同士の触れ合いとは言えなかったが、心を満たすのには十分すぎるものだった。
「…どう?あんしんした?」
「それはもう…ものすごく。」
お返しのように私からもアニに触れていく。こっちがしたらアニがして、その繰り返し。穏やかな時間が過ぎていく。数秒か数十分か。ある程度時間が経過したところでアニがすり…っと首の辺りに擦り寄ってきた。
「サシャは…私とつきあってる。」
「そうですねぇ。アニちゃんだけです。」
「サシャは私のことが……すき?」
「なんで疑問形なんですか。大好きですよ。自信もってください。」
「サシャは私にあまえられるの、うれしい?」
「嬉しいです。とっても。」
「……そっか。」
満足のいく答えだったのか、ぐりぐりと額を擦った後、小さく喉を鳴らす音が聞こえてきた。ご機嫌な様子のアニを暫くそのままにしておいて、頭を撫で、時には鼻先で髪を掻き分け、届く範囲で頭頂部、後頭部、首の裏にキスの雨を降らせていくとアニは擽ったそうな声をあげる。そんなアニがおもむろに首をもたげて視点を合わせてきたかと思うと。
「私も…サシャのこと、すき。」
それだけ告げてきて。唐突なことに目を見開いて動けないでいると、徐々に恥ずかしさが勝ってきたのか、いたたまれない様子で徐々に頬を紅潮させたアニが目線をそらす。
「なんか…いってよ。」
「や、だって……えぇ?」
「なに…………いやなの?」
「っなわけ…!ないでしょう。」
初めて想いが通じあったカップルかのような初々しい会話をしている自分たちに少し呆れる。それなりに付き合ってから時間も経過しているし、やることだってやっているというのにこの体たらく。不器用にも程がある。でもアニからこういう感情を面に出すような行為など今までほとんど無いに等しかったのだから、慣れていないのは致し方ない。なんとなくぎこちない雰囲気が流れてきたところで、一息ついたアニが耳元に息をふきかけてくる。
「私も……ちゃんとサシャのことすきだから…。…その、がんばる…ね?」
色々と…。と付け加えた後、羞恥心が限界なのだろうアニは眉を下げたまま口を結んでしまった。
「……っ、ねぇそれ煽ってますよね?」
私はというとアニから発された言葉に簡単に乗ってしまうくらいにはこの場の雰囲気に酔ってしまっていた。もちろん、アニには挑発したつもりなど毛頭ないのだろうけれど。向き合っていた肩を掴んで、 ゆっくりアニを押し倒す。一度だけ口付けを交わしてから許可をとるようにアニの顔をじっと見つめて。良いですよね?と暗黙の了解を求める。
「あおってるつもりはなかったけど…。あおられてくれたんなら、うれしい。」
一瞬困惑した様子のアニだったが、自分が求められた事と、私の方に余裕がなくなった様子が見受けられた事がさぞご満悦だったらしい。恥じらいの中に確かに恍惚とした表情を浮かべている。あぁもう全く。私をこんなに夢中にさせといて、あんなに自信なさげな振る舞いをするのだからこの娘はおそろしい。いつだって、アニの方に余裕がないように見せかけてその実私が振り回されているのだ。
釈然としない気持ちを抱えながらも、アニからの「うれしい」の言葉を皮切りに、ゴーサインを受けたものと解釈して目の前の甘美な果実に齧り付いた。