もうすこし、しゃべりましょ 満員電車から駅のホームに吐き出され、アーサーはほっと息をついた。冷えた夜風が頬を撫でる。日本の冬だ、とアーサーは考える。地元であるロンドンの刺すような寒さではない、どこか温和な冬。
改札を通り、夜の街を歩き出す。半月が夜空の向こうへ消えていく頃合いだった。持ち慣れたはずのビジネスバッグはひどく重く、職場で一日中酷使した脳はどこかぼんやりとしている。夜道を機械的にたどりつつ、家路につく。手癖のようにコートのポケットからスマホを取り出して、チャットアプリの画面を呼び出す。一番上にある名前をタップして、打ち込む。
「駅着いた」
「おかえりなさい」
すぐさま返された一文に、アーサーはようやく頬を緩ませた。疲弊しきって熱を持った思考回路にあたたかな慈雨が降るような感覚だった。
「もうご飯作ってありますから」
簡単な文章からもやわらかい愛情が滲む。こんな返事のときは大抵鍋料理なんだよな。そう思いつつ、スタンプだけを返してまた前を向く。アーサーと恋人の暮らすアパートまで、あと少し。だが帰宅するまでにひとつ、やっておきたいことがあった。冬と鍋、そしてついこの前出したばかりのこたつときたら、必ず買い足さなければならないものがある。
静かな住宅街のなかにあって煌々と光る、人工的な店灯。日本社会の叡智たるコンビニエンスストアの自動ドアを、アーサーはくぐった。
玄関の鍵を開けた途端、パタパタと軽い足音とともに「おかえりなさい!」と菊に出迎えられた。仕事を早めに切り上げて先に帰宅していた恋人はもう風呂にも入ったのか、黒髪がしっとりと光っていた。寒がりの彼はもこもこと膨れたスリッパを履いて、大きめのフリースの寝巻きの上にエプロンをつけている。片手には菜箸を持ったままだ。かわいい、ととっくに馬鹿になった頭で思う。
「ただいま、今日の晩飯なに?」
「鍋ですよ、華金ですから。白菜と豚肉のミルフィーユ鍋です」
彼は微笑んだ。すん、と鼻を動かすと、確かに出汁の香りがする。アーサーの予測は当たったらしい。
「同じこと考えてた」
ほら、と缶ビールの入ったレジ袋を掲げてみせると、菊の頬がかすかに赤らんだ。そんなにビール好きだったかな、と思いつつ、アーサーは靴を脱いで家に上がった。
手袋とマフラーを外し、コートを脱ぎ、仕事モードの自分をほどいていく。あとに残るのは、本田菊の恋人としてのアーサーだけだ。家着用のジャンパーをかぶり(学生時代から数えて日本滞在歴十年を超えようとしているが、アーサーは頑なにセーターという単語を使わない)、リビングに戻ると、菊はこたつの上に小型ガスコンロをセットして土鍋を火にかけていた。いやに真剣な眼差しで火加減を見ているのが、ふくふくとした格好とギャップがあって何ともかわいらしい。
すでにお膳立ても済んでいて、特段アーサーの手伝えるようなこともない。せいぜい、しばらく冷やしていたビールを冷蔵庫から取り出してくるぐらいだ。
グラスと缶ビールを並べて置いてから、菊の準備の良さに甘えてこたつに足を突っ込む。足先からじんわりと温まるのが心地いい。べったりと天板に頬を預けて、夕飯の準備に勤しむ恋人を眺める。
「毎年思うんだが、こういうのいいよな」
寒い冬の夜、暖かい自宅で愛しい恋人が待っていてくれる。そのうえ、美味しい夕飯まで用意してもらえる。まさに幸福とはかくあるべし、である。
しかし食い気に走りがちな恋人は「こたつでお鍋が、ですか?」なんて、少々ずれたことを言う。そんなところもどうにも愛おしい。
「でも確かにイギリスにこたつはないですよね」
菊は思案顔で取り分けスプーンで鍋の中身をよそい、こちらに取り皿を差し出す。それをありがたく受け取りつつ、アーサーはかぶりを振った。
「ないな。家族でひとつのものを囲んで……ってなるとバーベキューも同じ類いかもしれないけど、こたつで鍋とはなんか違う。何なんだろうな」
「お兄様方とは毎回お肉の取り合いになるからでは?」
「あー、それもある。鍋だとそこまで弱肉強食にならないよな」
「そもそも、私たちでは食べたいものがそれぞれ違いますから争いにもならないというか」
「うん」
「あ、お肉もう少しいります?」
「いや、足りなかったらおかわりするから」
菊もこたつの中に足を入れて、ふたり揃ってグラスを持ち上げる。こつん、と軽くぶつけ、目を合わせてふと笑いあう。
「いただきます」
「どうぞめしあがれ」
ぬくもりのあるふたりきりの部屋、湯気の立つあたたかな料理、気の緩んだ笑みを浮かべるかわいい恋人。ああ、幸せだな。アーサーは、そんなありきたりなことを思う。
締めの雑炊まで味わって、土鍋の中身はすっかり空になった。食後の片付けも済ませて、揃いの湯呑みだけがこたつの上に置かれている。腹もくちくなったせいか、とろとろとした眠気に満たされて、アーサーは足だけこたつに入れたまま床のカーペットに寝転んでいた。菊もまた、同じ姿勢でうつらうつらしている。眠たげな猫のように彼の目は半ば閉ざされている。
アーサーは身を乗り出して、菊のやわらかいくちびるにキスを落とした。ふ、とかかった菊の寝息はあたたかい。彼の目の前にアーサーもまた頭を置く。眠気と愛おしさがないまぜになった感覚は、きっと菊以外に対しては決して持ちえないものなのだろう。
「来年の冬はイギリスに来ないか」
半ば寝言のような、ふわふわとした心地に任せてつぶやく。たぶん、結婚って、こういうことなんじゃないか。
ほとんど眠っているであろう菊のくちびるが、ほんのりとゆるめられた。
何となく、ふたりで同じことを思っている気がした。幼い子どもの寝姿のように、カーペットに無防備に投げ出された菊の手を取る。繋いだ手のあたたかさを感じながら、アーサーもまた目を閉じた。