酔い宵 もうどれくらい飲んでるだろう。ボクとしたことが、すっかり羽目を外してしまったよ。燈京駅付近に、こんなに美味しい飲み屋さんがあったなんて。もう少し早く気づければ良かったな。教えてくれた四季くんに後でお礼を言っておかないと。
せっかくだからと仁武、十六夜を連れ出して酒を煽る。すっかり上機嫌になった十六夜が、「純壱位をハブくのは可哀想だろぉ」と、途中で一那を呼び出した。呼び出したと言うより、わざわざ地下まで迎えに行って、引っ張り出して来たって感じだったけれど。いやいや、しっかりお酒が回った十六夜の行動力には驚かされるばかりだね。
最初は嫌々していた一那も、お腹が空いていたのか、いざテーブルについたら、その小さな口でもくもくとテーブルに並べられた料理たちを食べ始めた。十六夜が頼んで一那のテーブルに置かれたのは…、薄い桃色の飲み物。苺関係のジュースだろうか。白い液体と混ざっていて……、あぁ、きっとこれは、いちごミルクだね。ガラスの中身をこくこくと煽った一那は、少し目を見開いて、でもそのままいつものように目を細めると、再びもくもくと箸を進め始めた。なんだか初めて食事をしているみたいで可愛いくて。見ていて飽きないなぁ。十六夜と仁武の愉快な笑い声をBGMにして、ボクはぼーっとその様子を眺めていた。普段はマスクに隠された、ピンク色の薄い唇が、ほうれん草のおひたしを挟み込む。箸を使って上手に口内へしまい込んで、小さく咀嚼する様が、なんだか見慣れなくて、可愛いと感じる。
「一那。それ、美味しい?」
一那の瞳が、ほうれん草から、ボクへと移った。あぁ、と短い返事が聞こえて、再び視線がほうれん草へ戻る。
「随分と美味しそうに食べるじゃないか。ボクも同じものを追加で注文してしまおうかな」
一那が美味しいと言うのなら、ボクだって同じものを食べてみたい。最近、一那とはよく結合訓練を一緒にしているし、ボクはもっともっと、一那のことが知りたい。
でも一那は、ボクが自分の領域に進入するのをとても嫌がる。まぁ、そんなの、ボクにはあんまり関係無いのだけどね♪ だけど、やっぱりボクだって、それ相応の礼儀だってわきまえてる。一那が嫌がることはできる限りしたくない。だから一那が食べているものと同じものを頼もうとしたのだけれど。
「別に、これをそのまま食べればいいだろう」
「えっ?」
その言葉の意味が一瞬理解できなくて、ボクは一那のことを見る。すると一那は、唇に挟み込まれた箸を抜き取って、お皿に盛られたおひたしを挟み込んだ。そのまま救い上げると、ずいっとボクの正面に突き出してみせたんだ。
「ホラ」
「!?」
状況を理解できずに、流石のボクでも動揺した。確かに、正面に座った一那が、ボクに向けて食べ物
を差し出してる。これは、つまり、その。あ~ん、てことなのかい?
「ん」
一那は早く、とでも言うように、箸で掴んだおひたしを再び前へと突き出す。ボクはそのまま、恐る恐る口を開ける。
前へと顔を進ませて、一那の手が差し出したそれを、ぱくりと口に含んだ。一那の目じりがゆるりと緩んだのが分かる。口の中のおひたしを咀嚼すると、つゆのしょっぱさとほうれん草本来の味をしっかりと感じた。美味しい。
「ん! これはなかなか美味しいね!」
「だろう」
ふにゃりと、一那の口角が上がった。彼はこんなに笑う方だったかな? 普段マスクに隠れて意識をしていないだけで、実は結構よく笑うタイプなのかもしれない。そんなことを考えていると、一那の真っ白な肌が、少し赤みを帯びていることに気が付いた。
「もしかして一那……、酔っているのかい?」
「ん……」
一那が飲んでいるこの苺ミルクだと思わしき飲み物は、もしかして、しっかりお酒なのだろうか。一那は普段、ボクや十六夜とご飯を食べていても、あまりお酒を飲んでいる所を見たことがない。酔った勢いで十六夜が頼んだもんだから、アルコール入りを選んでしまっていたのかもしれない。
またグラスを煽りながら、一那が唸る。ボクの問いには答えずに、もくもくとほうれん草を食べ終えて、十六夜の目の前に置かれた唐揚げにまで手が伸びる。十六夜はすっかり仁武との話に夢中で、一那の手が伸びていることに気づいてない。一那は、唐揚げの乗った皿を自分の目の前に引くと、一番大きな塊を箸で刺して持ち上げた。そして先ほどのように、ボクの前に差し出して見せる。
「食うだろ?」
そう言ってまた一那が笑って見せるから、普段見ない彼の姿に、僕はきゅうっと心臓が締め付けられるような感覚に見舞われた。
なんだろう。この気持ちは。
「もちろんだよっ」
一那の差し出した箸の先から、唐揚げを啄み、咀嚼する。うん。美味しい。まるまる1つは大きすぎるし、少し冷めて硬くなってしまっているけれど、一那が僕のために食べさせてくれたという事実があるだけで、こんなに嬉しいことはない。
ボクは思い立って、そのまま、テーブルの上に置いてある厚焼きの卵に自分の箸をのばした。一那の小さな口でも問題なく食べられるように、箸先を使って、一口サイズに切り分ける。添え物の大根おろしを乗せて、それを箸で掬い取って、一那の前に差し出してみた。
「ボクからもお返し」
一那は一瞬キョトンとしていたけれど、くあ、とその小さな口を開くと、ボクの差し出した箸の先の卵焼きをぱくりと咥えた。その様子を見て、きゅうっと苦しかった僕の心臓が、ぎゅんぎゅんと激しく締め付けられたような感覚に陥る。
まるで、小さな雛鳥に餌をあげているような、小動物にご飯を与えるような、何とも言えない気持ちに、思わず口角が緩む。
一那ってもしかして……、とっても、かわいい?
すっかり店の閉店時間まで居座ってしまった。こくりこくりと船を漕ぐ一那が座敷の上に伏せないように、ボクは一那の隣に腰をかける。一那は、ボクが隣に座ったことに気が付くと、擦り寄るようにして頬を肩に乗せて、すうすうと寝息を立て始めた。まったく、どこまでも子どもみたいで可愛らしい。一那って、お酒に酔うとこんなにも可愛らしかったんだ。そんなこと、全然知りもしなかった。
「一那。ここで眠ったら風邪引くよ」
「ん……」
軽く揺すり起こそうとしたけど、一那は小さく唸るだけで。火照った顔のまま、そのまますうすうと規則正しい呼吸を続けていた。
それにしたって、こんなに長時間、マスクを外した一那の顔をまじまじと見たのは初めてのことだった。唇の隅から少しだけ涎が垂れていることに気が付いて、ボクはそれを、親指の腹で拭ってあげる。
ふふ、嬉しいな。一那はボクが添い寝をしても、いつも気を張っているような感じがしたし、ましてや涎を垂らして眠っているような姿を見たことがなかった。だから一那が、こんなにも愛くるしくて無防備な姿を見せてくれているのが嬉しくて嬉しくてたまらない。そうなってしまうとボクは、とことん世話を焼きたくなってしまうんだ♪
ボクはなかなか起きそうにない一那の前に回り込むように移動すると、その身体をひょいと担ぎあげる。思ったよりも簡単に身体を持ち上げることができて安心した。一那はちゃんとご飯を食べているんだろうか。軽すぎて心配になってしまうよ。酔いつぶれた十六夜は仁武に任せることにして(仁武もだいぶ出来上がってるようだけど)、ボクはそのままお店を出た。
すっかり日付を跨いだはずの燈京駅裏は、まだまだ人が多い。次の店を探す酔っ払いや、そんな酔っ払いを狙うコソ泥なんかで溢れた煩い通りを足早に抜けると、すぐに人気がなくなって、静かな住宅街が広がっている。一本道を変えるだけでこれだけ人通りがちがうんだから、つい感傷に浸ってしまうね。
「みて一那。ここの通りは暗いから、星が良く見える」
返事はなかった。規則正しい寝息が続いているのを確認して、ボクは一那に声をかける。
「ボク、一那とこんなに楽しく食事ができる日が来るなんて、思ってもいなかったよ」
媒人くんがやって来て、ボクと一那が結合訓練をするようになって。でも君は、ボクと居るよりも一人で居ることを望んでいただろう? 正直、君がボクをこうやって受け入れてくれるようになるとも思っていなかったし、ここ最近のボクらなんて、随分と息ぴったりじゃないか。
「だからボク、こうやって君と一緒に居られることが、なによりも嬉しくて幸せなんだ」
「んん……」
一那が小さく声を上げる。ボクの背中でいい夢を見てくれていたら嬉しいな。
「クオン……」
ボクの夢でも見てるんだろうか。一那がぽつりとボクの名前を呼んだ。
「なんだい? 君の話なら何だって聞くさ。言ってほしいな、一那」
いつもならここで騒がしいと叱責されてしまうボクだけど、今なら、一那の気持ちを汲み取れるような気がして、眠っている一那に声をかける。でもまた、背中からは規則正しい寝息が繰り返されるだけ。ボクは思わずクスリと笑うと、足早に一那の地下室を目指すことにした。
夢を見た。あたたかい地面に頬を付けて伏せている。地面が揺れながらも、その温かさを心地いいと感じて、思わず地面に頬を擦る。まるで湯船の中にいるようだ。温かくて心地が良い。ただ、大きく地面が揺れると、頭がグラグラと揺れて痛む。心地がいいのに、視界が大きく揺れて気持ちが悪い。それを振り払うように、きゅっと眼がしらに力を込めると、目が覚めた。眼前に見えるのは、馴染みのある石でできた冷たい天井。身体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走る。なんだ…、この経験したことのないような気だるさは……。
昨日の夜の記憶がない。殺戮衝動に飲まれた時とはまた違った記憶の飛び方に困惑する。とにかく気分が悪い。
昨晩、イザヨイが突然やって来て、無理矢理連れ出された辺りまでは覚えがある。そこで確か……、そうだ、クオンやジンとも合流して、あれこれ食べたのは覚えている。それ以降の記憶がない。
酔っ払い共と一緒に酒に飲まれた可能性が脳裏をよぎり、余計に頭が痛くなった。オレには別に、酒を楽しむ趣味はないから、気づかないうちに飲んでいた可能性もある……。
それにしたって改めて、自分の酒の弱さに呆然とした。別に酔うこと自体に興味はない。こんなに頭が痛くなるようであれば今後、飲まなくても良いと思えるレベルだ。
視線を落とせば、オレの隣で寝息を立ててる奴がいる。クオンだ。最近よくオレの寝床に潜り込んでは、ここで眠るようになった。昨日飲みの席にクオンがいたことは覚えている。クオンがオレをここまで運んで来たということか…? うぅ……、考えようとすると酷く頭が痛む。
普段は鬱陶しいて、煩いだけだと思っていたが、こうやって近くですやすやと眠るクオンは、まるでいつもと違って見えた。長い睫毛が伏せられた瞳、鼻、頬……。全てがとても綺麗だと感じた。人と人とを繋ぐことで生まれる愛を知っているカラダ。人を傷つける心配のない唇。オレが、生まれ持つことができなかったもの。
「クオン」
名前を読んでみた。もちろんだが、返事はない。オレはそのまま、無防備になっていたクオンの掌に、自分の掌を重ねてみる。あぁ、やっぱり……。
「お前の近くは、あたたかいな」
まだ、すこし頭が痛む。今日は特段予定もないし、クオンが起きる様子もない。
オレはそのまま、クオンの温かい背中にぴったりと背中を重ねると、もう少しだけ眠ることにした。頭が痛くて眠れない日なんてものは良くあることだが、この日のオレは、考えるまもなく深い眠りへ落ちていった。