君が待つ場所 研究室のドアを開けると、カタカタとキーボードを弾く音が響く。休むことなく指を動かし続ける赤坂に、白金は淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを差し出す。
「お疲れさん。異変はあるか?」
「いえ、今日も異常はありません」
白金が声を掛けるとようやく赤坂は手を止め、白金の顔を見て笑顔を浮かべる。
「そうか」
白金は赤坂のものと色違いのマグカップをデスクに置き、隣の回転椅子に腰かける。
最後の戦いが終わってから、二週間が経った。エイリアンたちが去ってからというもの、異変は見られず、地球は平穏を取り戻した。念のために異常がないか確認は続けているが、研究室にいる時間はめっきり減ってしまった。少し前までは、一日の大半を研究室で過ごしていたというのに。
敵は現れないが、カフェミュウミュウは未だ営業を続けている。流石に戦いの直後、数日間は休養日を設けたけれども。エイリアンたちの脅威に晒されることはなくなったのだから、もうカフェを営業する必要はないのだろうが、白金は何となく踏ん切りを付けられないでいた。ミュウミュウの五人には、敵が現れる可能性がなくなるまでは、これまで通り活動を続けると説明し、納得してくれている。
けれど、今日、いちごに問われた。
――カフェミュウミュウは、もうすぐなくなっちゃうの? と。
当然の問いだ。とりわけいちごはあの戦いの後、変身する力を失ってしまっている。変身できなければ、敵が現れても戦うことはできない。そのため、先のことついて不安に思う気持ちは他の四人よりも強いのだろう。
白金は咄嗟に返答できなかった。この先、地球を脅かす敵が現れなければ、ミュウミュウは解散する。そうなれば、アジトであるカフェミュウミュウも閉店するのが必然だ。そう頭では理解している。カフェを始める時にも、そう考えていた。それなのに。
「……敵が現れなければ、そうなるだろうな」
少しの沈黙の後、白金は自分がオーナーであるにも関わらず、どこか他人事のような言葉を返した。いちごは「そうだよね……」と目を伏せて呟き、「でも、寂しいな」と言い残して去っていった。
感情を素直に言葉にできるヤツだな、と白金は思った。自分とは違って。
寂しい、という言葉が白金の中でリフレインする。それは言葉に詰まった理由と合致する。
白金もまた、この場所をなくしたくないと思うようになっていた。赤坂とμプロジェクトを完成させ、二人で店を始めた。そして、彼女たちに出会った。それからの日々は、騒々しくも楽しいものだった。そのような毎日を終わらせたくないと、らしくもなく願うほどに。
けれど、それだけではなく、否、それ以上に終わらせたくないものがある。
白金は自分で淹れたコーヒーを飲み、口を湿らす。口の中に苦味のみが残り、顔をしかめる。赤坂からコーヒーの淹れ方を教わったが、何度その通りに淹れても、彼のものと同じ味にはならない。赤坂が淹れるコーヒーは華やかな香りが口の中に広がり、味わい深いコクがあって、苦さの中にも甘味を感じられるのだ。彼の人間的な深みが味にも表れているのだろうか。年齢を重ねても、未だ彼には追いつけないな、と白金は苦笑する。
「なあ、圭一郎」
彼の顔を見ずに、白金は問いかける。
「今日、いちごに言われたんだ。カフェが閉店するのは寂しいって。圭一郎はどう思う?」
キーボードの音が止む。赤坂は白金の方に顔を向け、穏やかな口調で問い返す。
「稜はどう思うんです?」
「俺は……」
寂しい。終わらせたくない。言葉は心の中に留める。
五年前、父の研究を完成させると誓った。そして、無事に研究は完成し、エイリアンから地球を守ることができた。父の悲願は果たされたのだ。
それは喜ばしいことだ。けれど同時に、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。
μプロジェクトの終わりの先など、白金は考えたことがなかった。これまでの人生を研究だけに費やしてきた白金の中には、研究以外には何もない。殺風景な自室と同じように。
唯一願うのは、赤坂と離れたくないということ。両親を亡くしてからの五年間、白金の側にはいつも赤坂がいた。研究や生活面のサポートはもちろん、両親を亡くした悲しみを受け止め、精神的な支えになってくれた。彼がいなければ生きていくことはできなかった。
μプロジェクトの終わりは、すなわち、赤坂といる理由がなくなることを意味する。赤坂はそうは思わないのだろうが、白金はそのように受け止めていた。かつてはまだ無力な子どもで、一人でできることは限られていた。けれど、今は違う。自立して一人で生きていくことはできる。
研究という繋がりがなくなった今、残る繋がりはこの場所だ。赤坂がいつも帰りを待っていてくれた、おかえりなさいと言ってくれたこの場所。
――カフェミュウミュウを終わらせたくない。
白金が赤坂にそう願えば、人の良い彼はきっと、その願いを叶えてくれるだろう。けれど、その言葉で彼を縛りたくはない。彼は五年間、当然のように側にいてくれた。これからは、自由に、彼が思い描く人生を歩んでほしい。
押し黙ったままの白金に、赤坂はふっと笑みをこぼす。
「私は寂しいですよ。終わらせたくありません」
白金ははっと顔を上げる。赤坂と視線がかち合う。
「ここであなたの帰りを待つのが私は好きでしたから」
彼の方が自分より一枚も二枚も上手だ、と白金は思う。自分の気持ちを見透かされているようだ。白金は椅子ごと赤坂に背を向ける。今の緩み切った表情を彼に見られるのは恥ずかしい。
赤坂はそんな白金を微笑ましく見つめる。
「ケーキを作るのも板についてしまいましたしね。それに、エイリアンたちとした約束を果たさなければなりません。そうでしょう? 稜」
自分たちの手で地球を守る。白金がエイリアンたちに誓ったことだ。赤坂に言われて、そうだったと思い出す。感傷に浸って見えなくなっていた。白金は赤坂の方に向き直る。
「そうだな。……圭一郎も手伝ってくれるか?」
「ええ、もちろんです」
「ありがとな」
二人は互いに笑顔を交わす。これからまた忙しくなるな、と白金は心が浮き立つ。空虚感はすっかり消えてなくなっていた。
「さあ、今日の確認も終わったことですし、そろそろ夕食にしましょうか」
赤坂が一つ伸びをして立ち上がる。白金も赤坂に続いて立ち上がり、研究室を出る。
「カレーできてるから、食おうぜ」
「嬉しいですね。稜のカレーは美味しいですから」
「圭一郎は俺への評価が甘いよな」
「いいえ、正当な評価ですよ」
共に食事をして、研究をして、話をして――。そんな当たり前がこれからも続いていく喜びを、白金は噛みしめていた。