シグナルレッド・デッド 早乙女のレディスミスが銃声を上げる。
薄暗く血生臭い廃ビルのロビーに、ほのかに硝煙が香った。
ぶよぶよとした白いヒキガエルのような外見をした醜悪な化け物、ムーンビーストはその巨体に似つかわしくない俊敏な動きで大きく仰け反り、銃弾を避けた。そして軟体動物のようにぐにゃりと上半身を起き上がらせると、ぐるんと首を回し夜鷹と早乙女の方を見る。短い肉色の触手が蠢く顔をにんまりと笑わせた。
次の瞬間、ムーンビーストは右手にある大人の背丈ほどある赤い槍を投げつけてきた。夜鷹が目で軌道を追う。投げられた槍の切っ先は早乙女に向かっていた。早乙女はまだ回避行動を取れる体勢にない。
心臓を冷たい手に掴まれる。
夜鷹は躊躇うことなく、黒いブーツの底で床を蹴った。名前を呼びたかったが、その酸素すら無駄にしたくない。早乙女の胸に飛び込むようにしてその体を押す。硝煙の香りが残る体に覆いかぶさるようにして、二人で瓦礫の陰へと倒れ込んだ。
がぁん!と先程まで早乙女が立っていた場所に槍が突き立つ。ビリビリとした空気の振動が二人の鼓膜を派手に揺らした。
痺れるような音が止むと、ほっと二人の呼吸が混ざった。
「悪い、助かった」
夜鷹の下になった早乙女は、まだ少し呆然としているようだった。
「そういうの無し。今だけでも俺達はバディだから」
夜鷹がとんっと軽く早乙女の胸を叩きながら体を退かす。早乙女は少し肩をすくめ「そうだな」と短く言った。
二人で瓦礫の陰からロビーの様子を覗う。ムーンビーストはまだ二人を見つけられないでいるのか、顔の触手を前方に蠢かせてウロウロしている。まるでヒゲで獲物の動きを察知する深海魚のようだった。
「あいつ、案外素早いのな」
「あんた程じゃないがな。あんたはすばしっこくて狙いが定まらなかった」
早乙女の軽口に、思わず夜鷹が笑う。ここに連れてこられてからの記憶は曖昧だが、夜鷹は早乙女のことを好ましく思っていた。
ふっと脳裏に一人の顔が浮かぶ。
銀髪。白い細面。色素の薄い目が夜鷹を冷たく見据えている。
…お前に言われなくてもね、俺はこの人の味方になるよ。
二階からムーンビーストの咆哮が聞こえた。時間はあまり残されていないだろうと、夜鷹はもう一度ロビーをうろつき回るムーンビーストを見る。どうやらここから離れる気はないらしい。
「時間はあまりないな」
「うん。俺が引き付けるから、早乙女さんは銃であいつを仕留めてよ」
「危険だぞ、いいのか?」
「いいよ。早乙女さんに俺の命預ける」
早乙女はしばらく無言で弾丸を装填していた。革手袋に包まれた指先から、こちらが気圧される程の緊張感が放たれている。
レディスミスの装弾数は五発。その全てを装填すると、早乙女は静かに言った。
「任せろ」
その言葉を合図に夜鷹が飛び出す。赤いコートの裾を翻し、飛び出してきた夜鷹の姿を認めると、ムーンビーストは顔面の触手を激しく動かした。獲物を見つけた歓喜の雄叫びが上がる。
「ほらよ、バケモン!遊んでやる!!」
二メートルはあるであろうムーンビーストの前に立つと、やはり恐怖は禁じ得なかった。顔面の触手の一本一本が夜鷹を絡め取ろうと震えている。
白くてぶよぶよした脂肪のような腹の肉。そこに夜鷹が回し蹴りを放つ。
右、左、右と軸足を変えて連撃を仕掛ける。夜鷹が回転するたびにコートの裾がワルツを踊る。しかし、ムーンビーストのぶよぶよとした体には、しっかりとしたダメージが見えない。
夜鷹の目が早乙女を探す。
距離があると避けられてしまう。なるべく至近距離でムーンビーストを撃ち抜いてしまいたい。
ムーンビーストの背後、夜鷹の正面に早乙女が立つ。レディスミスの銃口が、静かに怪物を見つめていた。
「撃って!」
夜鷹の声に呼応するように早乙女は引き金を引いた。二発の発砲音。気が付いたムーンビーストが体を反らした。避けられた銃弾が高い音を立てて壁にヒビを入れる。
残り三発。