「降る、落ちる、枯れる」 最高裁判所は藤堂椿に死刑判決を下した。身を切る様な冷たい冬の日だった。
喫煙室で稲荷田狐は何本目かのメビウスに火をつけた。火をつけたはいいが煙を吸い込む事はせず、ただ無駄に紫煙が立ち上る様を虚ろな目で見ていた。
ここ数日で煙草を吸う量が目に見えて増えていた。喫煙が目的というよりも、手元に何かが欲しかった。それがたまたま禁煙に失敗した煙草だっただけの話で、立ち上り、どこからか入り込んでくる冬の風に揺れ、形を変える煙を目で追わないといけないような気さえしている。口に咥える事もなく、呆然と灰皿に何本もの灰を落としていた。
ギィっと喫煙室のドアが開く。冷たくて新鮮な空気が肌を刺した。
「稲荷田さんも休憩か?」
ドアを開けて入ってきたのは早乙女智雪だった。狐は少し顔を挙げてすぐに目線を落とす。今は警察関係の人間と上手く話せる自信が無かった。それはどんなに慕っている早乙女でも例外ではなかった。
足音が響き、俯く狐の視界に早乙女の革靴が映る。少し狐の顔を覗き込むような気配がした。
「隣、良いか?」
「いくらでも空いてますよ」
棘のある言い方をしてしまったと自分でも思った。早乙女に対して不貞腐れるのは全くの間違いだとわかってはいるが、喉が上手く声を出してくれない。
どうも、といつもと同じ調子で早乙女がソファに座る。電子タバコを咥えると、しばらく無言で煙を吐き出していたが、やがてちらりと視線を狐に向けた。
「あんた、食事はしてるのか?前より痩せているぞ」
ふふっ狐が笑う。煙草を咥え強がってみせたが、上手く煙を吸い込めずにケホっと小さくむせた。
「…喉、通らない」
早乙女が狐の顔を覗き込むように身を乗り出した。後ろで一つにまとめた髪がさらさらと赤いコートを滑る。
「気持ちはわかるが、俺は友人としてあんたが心配だ」
「…すみません」
早乙女からの慰めと気遣いの言葉に、思わず気が緩む。しっかりと張り詰めていた糸が切れるように、狐は堪えていた涙を溢した。散々泣き喚いたはずなのに、涙は一向に枯れてはくれない。口元を手で覆い、早乙女の視線から逃れるように顔を逸らした。
狐のすすり泣く声が喫煙室に響く。早乙女は狐から視線を外し、眉間に皺を寄せ、小さく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「…これは独り言だ。オフレコで頼むぞ」
つまらない反発の意味を込めて、狐はわざと返事をしなかった。早乙女はそれすらも分かっているかのように、一拍間をおいてから喋りだした。
「藤堂椿の取り調べをしたのは俺だ」
弾かれたように狐が顔を挙げる。みるみるうちに色素の薄い目に生気が宿った。信じられないとばかりに口が半開きになる。
「…早乙女さんが?」
「ああ、そうだ」
メビウスが指から落ちそうになる。慌てて灰皿に押し付けて火を消そうとするが、手が震える。何とか火をもみ消すと、早乙女の方に体ごと向けた。
「ねぇ、早乙女さん。あの子、ちゃんとお話出来ましたか…?」
頭の中に椿の姿が蘇る。散々喧嘩をして、怒鳴り合い、泣き喚く椿の顔。狐の胸に懐かしさが込み上げ、思わず声が震えた。
「手の掛かる子だったでしょ?」
愛おしさを込めるように狐は泣き笑いをした。椿ならきっとそうだと確信があった。早乙女が眉を少しだけ寄せ、優しさと呆れ、憐憫の混ざる苦笑いを浮かべる。
「…あんたの言う通り、大分苦労したよ」
ほっとしたように狐が吐息で笑う。椿が椿らしく、また自分の想像通りでいてくれた事が嬉しかった。
早乙女が大きく息を吸い、タバコの煙を長々と吐く。狐はその煙に早乙女の僅かな迷いと、不吉な気配を感じ取った。
二人はしばらく無言で電子タバコから立ち上る煙を見ていた。降り積もる沈黙の中、少し躊躇うように早乙女が重い口を開く。
「…最終的にな、藤堂和真が藤堂椿を取り調べた」
狐の顔から笑みが消えた。血の気が引くのを感じながらも、目を見開いて早乙女を凝視する。心臓が早鐘を打ち、息を飲んだ。
和真は狐が尊敬してやまない探偵の先輩でもあり、同時に椿の全てを完膚なきまでに叩きのめした人物だった。そしてまた、和真も警察に身柄を拘束されていたはずだ。
「和真さんが…、どうして?」
驚きのあまり呂律が回らない狐を見て、早乙女の表情がほんの僅かに曇る。電子タバコをポケットにしまい、少し考えるように唇を結んだ。
「そうだな…、藤堂椿がしきりに藤堂和真に会いたいと言っていて、正直最初はまともに取り調べが出来なかった。…俺は途中から介入したんだが、あの様子から部下の誰かが圧を掛けたらしい」
早乙女が狐の目を見ながら冷静に、言葉を選ぶようにゆっくりと口にする。鋭すぎる狐の目は、今は子どものように無防備に見開かれていた。
「最終的に藤堂和真に取り調べをさせる形で落ち着いたな」
しわがれたうめき声のようなものを狐が上げる。そろそろと早乙女の革手袋に包まれた手に触れ、何も咎めない事を確認すると、ギュッと指先に力を込めて握った。
「二人は、ちゃんと、お話出来ましたか…?」
「ああ。あの時は…今思えば二人にとっても重要な時間だったんだろうな。過去の清算という意味で」
早乙女の視線は握られた狐の手に注がれたが、何度かの瞬きの後に狐の目をしっかりと見据えた。その目には何の計算もない誠実な光が宿っている。
早乙女が静かに聞いた。
「…俺を恨むか?」
声が出ない。二人はしばらく無言で見つめ合った。何の音もしない純粋な静けさが、耳鳴りのように鋭く刺さる。
窒息でもしそうなのか、狐は何度か引きつった深呼吸をした。
「早乙女さんは、和真さんが、あの子に、何をしたか知っていて、そうしたの?」
「…勿論だ。調書には全て目を通した」
早乙女が狐から目を逸らす。それはたった一瞬の事だったが、早乙女が二人の全てを把握している事を意味していた。すぐに視線が狐に戻る。
「取り調べが進まなかった当時の状況、藤堂椿の精神状態、話にあがった藤堂和真が元警官で、かつ捜査に協力的だった事…諸々を考慮した結果だ」
狐は吸い込まれるように早乙女の目を見た。ここしばらく感じた事の無い程に頭が、感覚が冴えていた。早乙女から何一つ、聞き漏らす事も見逃す事もしたくなかった。
身を乗り出し、早乙女の手を握る指先に力を込める。
「あの子はちゃんと、自分の気持ちを言えましたか?」
「ああ。取り調べを受けているとは思えない位穏やかな顔で話をしていたな」
耳の奥でパパ、と椿が和真を呼ぶ。その顔に可愛い自分を一生懸命探して見つけた、満面の笑みを咲かせて。その笑顔を狐は恐らく、もう一生見ることが出来ない。
「藤堂和真の手腕も相まって、俺達では聞き出せなかったような事にまで素直に答えていた」
当時を思い出すかのように、早乙女が視線を遠くへ向けた。
「話を聞いている限り、最初で最後だったんだろうな。あんな時間は」
「そうですか…」
ため息のように狐が呟く。力が抜けてしまうと同時に、笑いが込み上げてきた。
「あの子、何もわかっていないんでしょうね。ホント、いつもそう…。僕がおんなじ事で何回小言を言っても、なんにもわかってくれないんだから…」
椿と何回言い合いをしただろうか。本当に意地の張り合いばかりしてきた。和真の側で愛されている椿が大嫌いで、嫉妬にまみれて大声を張り上げ、どちらが折れるかまでの勝負もした。和真に二人して何度叱られただろうか。二人で和真の前で子どものように振る舞った。怒鳴り合いながらも、時に励ましあう狐と椿を、和真はいつも不思議そうに、困った顔をして見ていた。
その藤堂探偵事務所も、今は無い。
肩を震わせて笑っていたつもりが、いつの間にか泣いていた。
戻りたい。何もかもをやり直したい。全ての不幸と間違いを避けて、何とかしてもう一度やり直したかった。
片手に縋り付いて嗚咽する狐から視線を外し、早乙女は空いているもう片方の手で黒のチェック柄のハンカチを差し出した。
少しだけ顔を挙げ、のろのろと狐はハンカチに手を伸ばす。そしてハンカチごと早乙女の手をギリギリと締め上げた。
どうしても一つ、聞き出さなければいけない事がある。
ねぇ早乙女さん、と低い声で問う。
「あの子に、圧をかけたって、何?」
「勾留期限が迫っていたからな。躍起になって揺さぶりを掛けた奴がいたんだ」
狐は掴んだ手に僅かに力が込められるのを感じながら、低く言葉を続ける。
「…それ、早乙女さんが指示したの?」
狐は渾身の力を込めて、ハンカチごと早乙女の手に爪を立てた。
「そんな指示、俺がする訳無いだろ。担当した奴の独断だ」
少し顔を挙げると早乙女と目が合う。真っ直ぐな目線から逃れるように狐は目を逸らし、イヤイヤをするように首を振った。
「そんなの僕じゃわかんない」
しっかりしろと、宥めるように早乙女が手を握り返してきた。
「俺は立場上、当初は報告書だけで状況を把握していた。だがあまりにも進みが遅かったからな…、直接行って確認する事にしたんだ」
子どもをあやすかのように、握る手に拍子が取られる。それは出会った頃と変わらない早乙女の優しさだった。懐かしくて、いつでも狐の心を慰めてくれる優しい記憶。
痛みと共に胸に激情がせり上がる。恐怖、不信、憤怒、安堵、恋しさ、承認、名付けるにはあまりにもまとまりがないドロリとした塊を、胸を引き裂いて早乙女の前にぶちまけてやりたかった。そしてこのどうしようもない自分を、どうにかして助けて欲しかった。
「あの子に、そんな事したの誰?」
「取り調べの経験が浅い警官だった。後で指導を入れるように言っておいたが、それでも自白を強要した事実は消えない。…こればかりは俺のミスだな」
「あの子に、何言ったの、その人?」
「お前が答えないせいで、父親に迷惑が掛かっているぞ、とかな」
ズキンと鈍い痛みが心臓を潰した。その痛みでそのまま死ねるかと思った。同時に、この痛みで椿に自白を強要した警官も死ねば良いと思った。
歯を食いしばる。悔しかった。和真の罪を椿に擦り付けられたのがひたすらに悔しかった。食いしばった歯から唸り声が漏れる。椿の人間として、女性としての全てを和真が踏みにじったのに、それなのに。
「…和真さんがこんな事になったのは、和真さんのせいでしょう?あの子のせいじゃない!」
狭い喫煙室で狐は顔を挙げ、金切り声を上げた。早乙女は少しも動じること無く狐を見ている。静かに、狐の言葉を待っていた。
「和真さんだけじゃない!大人があの子から全部取っちゃったからこんな事になるんでしょ!!」
狐から呪いの産声が上がる。これは自分から、椿から、子どもから与える事もなく、散々奪ってきた大人への呪いだった。子どもが無条件に欲しがる愛を、安心を全て与えずに、自分達の幸せを優先した大人への呪いだ。これは子ども達から産まれた呪いだ。それをたまたま椿が発現させただけだ。
目の前にいる早乙女に全ての拒絶をぶつけるように、狐は喉を震わせて叫んだ。
「嫌い嫌い!大人なんて大っ嫌い!!」
両手に縋りながら泣き叫ぶ狐を、早乙女は静かに見守っていた。
「…生まれ育つ環境は自分じゃ選べない、か」
早乙女が小さく呟き、ハンカチのチェック柄に目を落とす。本来であれば綺麗な格子を描いているはずだが、狐に爪を立てられて皺が生まれ、歪んでしまっている。
早乙女の胸にふと僅かな疑問が生まれた。何故、狐はこんなにも藤堂椿を庇うのか。確かに彼女の過去は壮絶なものであったが、大勢の人間を殺した殺人犯である事実は変わらない。いくら藤堂椿が身内でも、狐にしては冷静さを欠いているように感じた。
稲荷田さん、と声をかける。
「…あんたは、藤堂椿の死刑は妥当な判決だと思うか?」
そっと目を覗き込みながら尋ねると、狐は大きく目を見開いて、引きつった笑いのような呼吸を何度かした。
「妥当、です。罪は、罪だって、わかってます」
早乙女からの問いかけに、一瞬狐は理性を取り戻した。多少なりとも法律は知っていたし、死刑判決が下される基準と照らし合わせても、逆立ちしようが椿は絞首台から逃げられない事も確信していた。それでも椿の手を取って逃げようと足掻いた。少しでもこの世界から遠くに逃がしてあげたかった。
早乙女が静けさと力強さを併せ持つ声で言う。
「…死刑に関しては、俺も妥当だと思っている。情状酌量の余地も無い」
「…でも、でもね」
狐が子どもの言い訳のような言葉で早乙女を遮る。今まで砕けろと言わんばかりに握っていた手を離し、赤いコートに包まれた両肩を掴む。口を開くが言葉が上手く出なかった。言葉よりも胸の中の思いが我先にと涙と一緒に込み上げてくる。
「か、可哀想だって、思っちゃ、駄目ですか?」
早乙女の肩を揺らす。その目に縋るように、瞬きを忘れて食い入るように見つめた。
「被害者遺族がいるって、知っていても、あの子が可哀想だって、思うのは、駄目ですか?」
脳裏に浮かぶ冷たい法廷の傍聴席、証言台。そこは全て椿を裁くための舞台だった。遺族のすすり泣き、陳述、弁護士の声、何一つ理解出来ていない椿の背中。どうしてこんなにも責められているのかわからない幼い横顔。あんなに愛されたがっていた椿は、全ての人間から憎まれてしまった。
ねぇ、とせがむように何度も早乙女の肩を揺らす。
「早乙女さんは、どう思うの?警察官じゃなくて、早乙女さんは、どう思うの?」
法も社会的な立場も全て捨て、ただの人として答えて欲しかった。早乙女智雪はどう思っているのかが知りたかった。
早乙女が狐と目を合わせる。その表情と、かつて留置所で「なんでパパと会わせてくれないの?」と自分に弱々しく問い掛けてきた椿の表情が重なり、はっと目を見開く。
誰かの承認を、優しさを、ありのままの肯定を求めて彷徨う子どもがそこにいた。
嘘偽りの無い、純粋な心で答えてあげたいと思った。
「いいか、稲荷田さん。よく聞いてくれ。これは警察としてでは無く、一人の人間として抱いた感想だ」
両肩を掴む腕をそっと降ろし、今度は早乙女が励ますように、両手で狐の痩せた肩をしっかりと支えた。
「俺もそう思う」
はっきりと、力強く早乙女は言葉にした。
「残酷な話だよ、本当に。縋れる相手がいなかった所為で歪んで、堕ちて…。自分の過ちどころか、された事の大きさにすら気付けなくなるなんてな」
和真から取り調べを受けていた椿の様子を思い返す。
楽しかった出来事を親に報告するかのように、無邪気に己の罪や過去を明かしていく様は、取り調べ室に異様な雰囲気を醸し出していた。
「稲荷田さんは、藤堂椿をずっと近くで見ていたんだろう?他の誰もそんな事をしなかったのに」
ぐっと肩を掴む手に力を入れる。
「藤堂椿が可哀想だって言ってたな」
こくんと無言で頷く狐に、早乙女は微笑んだ。
「法や世間は彼女を悪とみなしているが…、良いんじゃないか、そう考えてやれる人間が一人くらいいても」
ぽとりと言葉が胸に落ち、じんわりとした熱となって痛みを伴いながら広がっていく。何の否定も無く、早乙女は難なく狐を受け止めてくれた。
静かに話しを聞いていた狐の表情が、みるみるうちに崩れる。眉を寄せ、唇を歪ませた。早乙女から視線を離さないまま、狐は大粒の涙をボタボタと落とした。幼い頃から決してそうはしまいと決めていたのに、悲しみと安堵はあっという間に自戒の蓋を押しのけて溢れていく。
「ふ、う、うぇえ…」
全ての力が抜けたかのように、狐は早乙女の前でソファに両手をついて頭を垂れた。
「う、えぇえ、えぇぇん…!」
みっともなく子どものように泣き声を上げる。しゃくり上げ、ずっとずっと抑え込んできた子どもの狐が、ようやく仮面を外して素顔を晒した。
早乙女がそっと狐の方へと体を近づける。彼の背中はこんなにも小さかっただろうかと、震える背を見て思った。
声を上げて泣く姿からは、いつもの飄々としながらも落ち着き払った狐の影は消え去ってしまっている。代わりに幼い少年の狐がいた。狐もまた、子どもである事を許されず、大人にもなり切れなかった子どもだった。
よしよしと背中を撫でる。手の平から伝わる感触で、本当に痩せたなと思った。
早乙女には椿の事は分からない。取り調べで知ったのは、椿の人生の断片的な情報だけだった。辛い過去があると知っても、狐のように椿を思って泣く警察官は誰一人いなかったと、今になってようやく気付いた。
恐らく狐が世界で唯一、椿を心から理解できるのだろう。
「どれだけ壮絶な過去を背負っていても、その程度の事で情をかけてはいけない。彼女が犯した罪はそれ程までに重い」そんな事は誰でも幾らでも言えるし、法が既にそれを証明していた。
現に狐は椿の法の裁きを受け入れている。しかし、それでも情で椿を必死に庇ってもいる。一人の人間として藤堂椿を思って泣く、その胸の内に渦巻く怒り、悲しみ、憤りは他人では計り知れない。
満たされなかった子どもだけが知る、深い悲しみと苦しみの世界。そこは何人にも口出しが出来ない秘密の遊び場。否定するような真似はしたくなかった。
今、早乙女に出来る事は、泣き崩れている狐の背中を黙って摩ってやる事だけだった。
ひとしきり大声を上げて泣いたせいか、狐は力尽きたようにソファにゴロンと寝そべった。気が済んだのか、頭の中は大分すっきりとしている。泣き腫らした目がやたらと痛かった。
隣でじっと見守ってくれている早乙女に目を遣る。
「早乙女さん、休憩だったのにすいません」
「別に構わないさ。あんたが落ち着けた様でなによりだ」
憑き物が落ちたかのように、どこかすっきりとした顔をしている狐を見ながら、早乙女が安堵の笑みを浮かべて答える。その笑みを見て、狐は照れたようにゴロゴロと狭いソファで寝返りを打った。そしてはっと思い出したように上半身を起こし、早乙女に顔を近づける。
「ねぇ、出来ればあの子に伝えて欲しい事があるんです」
「何だ?」
急に起き上がった狐に、早乙女は少し驚いたように目を丸くした。
「あの子ね、しょっちゅう自分はクズだから何しても良いって変な事言うんです」
あたしってクズだからぁ、と椿は口癖のように何度も口にしてきた。きっとこれからもそうだろうと狐は予感していた。
何度となく椿の手を握り、励ましてきた手を見る。
「そうしたら、そんなクズを助けたくて必死になったバカの事を思い出せって、言ってあげてください」
狐の身も蓋もない言いように早乙女が笑った。
「…あんたがそう言うなら。もしまた会えたら伝えておくよ」
「うん。ありがとう、早乙女さん…」
ゴロンと再びソファに寝そべる。
…いつだって心の中で、君を思っている人がいるんだよ。離れ離れになったって、それは一人ぼっちじゃない。
もう一度、椿にそう伝えたかった。
…寂しくなったらね、心の中で振り返ってごらん。いつも僕が見守っているから
そうでありたいと、真心からそう思った。
椿の花が落ちるその時まで。