「君におはようと言えたら」 パシンと紙束の表面を軽く叩き、早乙女は事も無げに言った。
「よし、俺がスイッチを押すから、あんたは本物の俺を連れて遠くへ逃げるんだ」
その言葉に狐の心臓は冷たく握り潰された。次いですうっと血の気が引くのがわかる。視界が一瞬白くなり、目眩がした。
しばらくの間沈黙が流れる。僅かに聞こえる機械の稼働音と、ゴボゴボと培養液が循環する音だけが研究所の最奥に響く。
狐はようやく上顎に貼り付いた舌を引き剥がし、引きつった笑いのようなものを浮かべた。
「ヤダ」
早乙女は返事もせずにノートパソコンや散らばった紙束に目を通していた。聞こえていないのかと、狐はもう一度、今度は少し強い調子で言った。
「ヤダ」
早乙女が狐に顔を向ける。端正で彫りの深い顔は、狐が威圧されるほど真剣味を帯びていた。刑事の眼差し。そこには一寸の隙も無い。
「駄目だ」
短く、ハッキリと早乙女が言う。狐はわざと返事をしないでいた。そうしていれば、きっと早乙女は狐の甘えを受け入れてくれると思っていた。早乙女が根負けしてくれるのを願いながら、狐はじっと黙っていた。
二人の視線がぶつかり合う。
ジリジリと押され出したのは狐だった。真剣な視線に耐えられなくなった狐は、もう一度、聞き分けのない振りをして早乙女を挑発するように薄笑いを浮かべる。
「ヤダ」
狐の挑発に、早乙女は髪の毛一筋も動かしてはくれなかった。
そこに早乙女の答えがあった。その決意は狐にもはっきりとわかった。それでも狐は半笑いを浮かべ、首を横に振った。
「ヤダ、ヤダ」
聞き分けのない子どものように駄々をこね始めた狐の右腕を、早乙女は強引に掴む。そのまま研究所の外へと足早に向かう。引きずられまいと足を突っ張りながら、狐はイヤイヤと頭を振った。
「待って、待って、早乙女さん!お願い、待って!」
「駄目だ」
「ヤダ、待って。お願い、お願いします!」
「駄目だ!」
腕を掴む力が強くなる。歩く速度を速められ、足をもつれさせながら狐は何度もその背中に懇願したが、早乙女は一度も振り返ってはくれなかった。
研究所の外へと乱暴に放り出される。バランスを崩して地面に両手両膝をついた狐の背中に、淡々と早乙女が言った。
「良いか。なるべく遠くへ逃げるんだ。本物の俺を頼んだぞ」
ガチャンと冷たい音がして扉が閉ざされる。それは狐と早乙女の間に引かれた境界線の音。狐の願いが絶たれた音だった。
「待って、待って!早乙女さん、お願いだから開けて!僕、頑張るから!」
這うようにして冷たい金属の扉に近付き、両手の拳で何度も叩く。この扉は暗証番号で開く事を思い出し、闇雲にパネルの数字を叩くが何も起こらなかった。バンっとタッチパネルを叩き、ズルズルと項垂れる。
「お願い、お願いします…。良い子にします、良い子にしますから、開けて…」
か細い声で何度も呼びかけたが、扉が開く音も、早乙女の返事すら聞こえなかった。
「早乙女さん…」
背後から低く、狐の声に応えるように呻き声がした。声がした方を見ると、先に救出していた本物の早乙女が、まだ悪夢から醒める事なく眠り続けていた。眉をひそめたその寝顔を力なく見つめ、狐はノロノロと立ち上がり、ふらつきながらも早乙女を肩に担いで山を下りた。
…助けなきゃ、早乙女さんだけでも、何とかして。
涙で霞む視界の中、何度も落ち葉で足を滑らせながらも、決して早乙女を落とすまいと狐は決めていた。この人だけは絶対に傷付けたくはなかった。
…僕が死ねば良いのに。そうやって二人が助かれば良いのに。
肩に伸し掛かる重さ。体温。僅かな寝息の音。早乙女は生きている。そして同時に、背中でもう一人の早乙女を見殺しにしている。
その事実は狐の胸を散々に引き裂いた。
山を下りる頃、辺りはすっかり暗くなっていた。
花火大会の第三会場として設営された駐車場へと辿り着くと、狐は芝生に早乙女をゆっくりと寝かせた。あまり丁寧に運んだとはいえないのに、早乙女は目を覚ます気配がない。
研究所にあった資料が正しければ、あの男が死亡しない限り早乙女は目を覚まさないはずだ。という事は、まだあの男も早乙女のクローンも生きているのだ。
…もしかして、まだ間に合うかも。
今から研究所まで戻って、どうにかして早乙女を説得すれば良いと思い至った狐が立ち上がる。さすがに大の男一人運んだ後の体は、素直に言うことを聞かない。膝が笑ってしまう。
何とか立ち上がり、もたもたと来た道を戻ろうとするとドーンっと腹の底に響く音がした。見上げると夜空に花火が上がっている。そして花火が上がるにしては不自然な、山の中腹でも真っ赤な炎が上がった。その場所に何があったかを知っている狐は、全てを悟った。
研究所が爆発した。自爆スイッチが押されたのだ。そのスイッチを押したのは、今まさに助けに行こうとした早乙女だ。
僅かな希望を打ち砕かれ、狐はへなへなと力無くその場にへたり込むと、視線を自分達が下ってきた山道へと注いだ。
そこから、クローンの早乙女が現れるのを待っていた。
何とか助かったぞと、あの顔で笑って欲しかった。助け出した本物の早乙女を見て、良かったと安堵して欲しかった。生きている姿を見せて欲しかった。
目を、耳を、鼻を、全神経を使って早乙女を姿を探す。しかし、狐の期待は全て裏切られた。暗い夜道に赤いコートは翻らない。
「早乙女さん…」
もうこの世にいない相手を呼ぶ。返事は無いとわかっていても、もしかしたら届いているのではないかともう一度名前を呼んだ。
「早乙女さん…!」
うぅ…と低い声がした。体を起こす気配と衣擦れの音がする。振り返ると本物の早乙女が上半身を起こし、額に手を当てて頭を軽く振っていた。
「何だ、また何かさせられるのか?やれやれ…」
呆然と視線を向けてくる狐に気付き、早乙女は少し目を丸くしてから微笑んだ。刑事としての厳しさは全く無い、快活な青年の顔で。
「ははっ、また稲荷田さんと一緒か。お互いに奇妙な事に巻き込まれる体質だな。まぁ、あんたと一緒なら、今回も何とかなりそうだな」
ところでここは何処だ?と辺りを見回す早乙女を見ながら、狐は声も出せずにぽたぽたの涙を落とした。突然の涙に早乙女がもう一度驚く。
「何だ、もう何かあったのか?」
こくんと頷いてから、狐は早乙女の胸に縋り付いた。夜風に当たったせいか、少し体温が低い。それでも心臓は動いていた。呼吸をして、温かだった。
いきなり胸に飛び込んできた狐に呆気に取られながらも、早乙女は邪険にする事なく、痩せた肩に手を置いた。
「何があったんだ?」
良ければ話してくれ、と穏やかに促され、狐はグスグスと鼻を鳴らしながら涙声を出した。
「早乙女さんが死んじゃった、僕のせいで!」
「俺が死んだ?」
「僕が死ねば良かったのに!死にたい、早乙女さんの代わりに死んじゃいたい…!ごめんなさい、早乙女さん…!」
早乙女の胸に顔を押し付け、嗚咽混じりの涙声を上げる。一度漏れ出した涙は簡単には止まらず、早乙女のシャツを濡らしていく。
本当に死にたかった。早乙女を見殺しにするくらいなら死んでしまいたかった。例えクローンが明日死ぬとわかっていても、死んで欲しくなかった。
「僕が死ねば良かった、早乙女さんじゃなくて、僕が死にたかった…!僕もうヤダ…!」
聞き取り難い、掠れて湿った声で狐が喚く。会話も息継ぎもままならず、嗚咽ばかりかあたりに散らばっていく。
要領を得ない狐の言葉に、早乙女が小さく吐息を漏らす。そこには呆れとほんの少しの戒めの響きがあった。
「あのな、簡単に死にたいなんて言うもんじゃないぞ」
それにな、と早乙女が狐の頭に手を乗せ、ゆっくりと上下に滑らせた。
「あんたにそんな事を言われると、俺は辛い」
早乙女からの言葉に、狐はぎゅっと両腕を回してその背中にしがみついた。早乙女の優しさを否定したいと同時に、もっと頭を撫でて子ども扱いして欲しかった。
突風のように吹き荒れる涙。言葉を発して何かを訴えたいが、何も言葉に出来ない。どうして怒らないのか、どうして見捨てないのか、どうして無視しないのか。
どうして、こんな価値の無い自分に優しくしてくれるのか。
ゆっくりと狐の頭を撫でながら、子どもをあやすように早乙女が声に笑みを混ぜる。
「多分だが、あんたのお陰で俺は助かったんだろ?…だったら、そんなに自分を責める事は無いんじゃないか?」
狐は何も答えなかった。何を答えて良いのか何もわからなかった。額を早乙女の胸に猫のように擦り付ける。
黙ってしまった狐の頭を撫でながら、早乙女も黙って次々と打ち上げられる花火を見ていた。
花火のプログラムが終わった。夜空にはまだ白く薄い煙が漂っていたが、やがて夜風に流れて消えていく。
「…帰るか」
すっかり大人しくなった狐の様子を見て、早乙女がぽつりと呟いた。狐が首を縦に振る。ゆっくりと狐を引き剥がし、もう一度ぽんぽんと頭を軽く撫で、早乙女は何も言わずに頷いた。
そのまま黙って帰路に着く。軽く背中を押してくる早乙女の手の平の温かな感触に、狐はもう一度、静かに涙を落とした。