恋の卵1「今日は冷えるな」
時刻は「明日」をまたぐ頃。風呂から上がってバスタオルで髪を拭きながら、アキはそんな一言を漏らした。
勤務を終えて帰宅する道中では、ちらちらと粉雪が舞っていたが、風呂に入る前に窓から見た外は大粒の牡丹雪が降っていた。確か夕食時に見たテレビでも、今夜は一番の冷え込みだと言っていたか。
北海道出身のアキにとっては東京の冷え込みなんて大したことでは無いのだが、やはり風呂あがりとなると寒いものは寒い。このまますぐに布団に潜り込んでしまおうと、寝間着を着ると髪をドライヤーで乾かし、歯磨きまでも一息に終えてしまう。
明日が晴れることを祈りながら洗濯機の予約運転を設定し、冷え切った廊下に出て自室までを急いで戻る。
つい一時間ほど前までパワーとデンジの元気な声が響き渡っていた空間は、今では吸い込まれるような漆黒に包み込まれてひっそりと静まり返っている。きっと今頃二人は、仲良く夢の中にいるに違いない。
彼らが生み出す喧騒は最初こそ騒々しいと毛嫌いしていたものの、今はそこまで嫌ではなくなっていた。一人で暮らすにはやや広いこの部屋には、ちょうどいいぐらいかもしれない。
「いや、やっぱり煩すぎるか」
アキは口元だけで小さく呆れ笑いながら、自室のドアノブに手をかける。電灯のスイッチを手探りで点けて視界が明るくなると、室内に広がるその「違和感」にすぐ気づいた。
「……なんだ?」
部屋を出る時はぺちゃんこになっていたベッドの掛け布団が、今はこんもりと盛り上がっていた。それはちょうど人間一人分の大きさぐらいあるだろうか。
この「かまくら」の主は考えるまでもない、先程脳裏に浮かんだばかりの二人のどちらかなのだろうが、しかしなぜこんなことをしているのだろうか。
アキは頭に疑問符を浮かべつつ、盛り上がった掛け布団に手をかけてそろそろと剥がしてみる。
「……デンジ?」
「おー……早パイ」
現れたのは、自室から持ってきたのであろう枕を体に抱えて、赤子のように横向きで丸まっているデンジであった。蛍光灯の明かりを受けて眩しそうに目蓋をしょぼしょぼと瞬かせている。眠たげな声音から察するに、どうやらアキが風呂に行ってすぐここに忍び込んで、ひとりすやすやと眠っていたようだ。
「何してんだ、俺のベッドだぞ」
「今日すげ~~寒くね? 早パイが寒くてぶるぶる震えてたらカワイソーだなって思ってさ」
「何だよ、寒いのか? パワーと抱き合って寝ればいいだろ」
子どものような意地を張っているデンジの意図は、もちろんすぐに理解できた。しかしアキが掴んでいた毛布を「さみいっ」という言葉と共に奪い返したデンジは、毛布を巻き込みながら地中から掘り起こされたばかりの芋虫のように丸まった。
「パワ子は寝相悪すぎんだもん」
――要するに、都合の良い「湯たんぽ」が欲しいだけらしい。
「なあ~早パイ、ベッドデカいんだからいいだろ? 俺の事ユタンポだと思っていいからっ」
「俺を湯たんぽにしたいのはお前だろう? まったく」
「野郎なんか嫌いだ」と何度も口にしていたデンジにしてはらしくない行動だし、えらく強情だった。
「今日だけだぞ」
「んっ!」
果たして寒いだけが理由なのだろうか。アキは疑問を抱いたものの、彼自身も早く布団に入りたかったし、なにより漬物石の様にその場からどこうとしないデンジを蹴り出すのは、骨の折れる作業であった。根負けしてため息を吐くと、デンジは嬉しそうに目を細め、ずりずりと体をベッドの端に寄せた。そしてアキが入るスペースを作ると、ぱっと毛布ごと手を広げてみせた。
「ようこそ~お布団、あっためときました~」
「そりゃどうも」
電灯のスイッチを切ると、アキはデンジの待つベッドに乗り上げる。体を横たえてデンジの手から毛布の端を受け取ると、彼の肩まですっぽりとかけてやった。
「野郎とべたべたするのは嫌じゃなかったのか」
「別に、早パイならいーし……」
揶揄いのつもりで口にしたのだが、なぜか少し拗ねたようなデンジの声が返ってくる。電灯を消してしまったせいでよく見えないが、きっと顔を顰めて唇を尖らせているのだろう。
最近アキがデンジ叱る時、彼はよくそんな顔をした。共同生活を開始した頃は言動こそ破天荒ながらも、やや無理をして表情を押し殺しているようにも見えていたから、これは変わったというよりも本来の表情を取り戻し始めているという方が正しいのかもしれない。
「デンジ、あんまり端にいたら落ちるだろ、もうちょっと寄ってこい」
アキのベッドはデンジ達の部屋にあるベッドよりも一回り横幅は大きいが、大の男二人が並ぶといささか窮屈なくらいだ。アキ側には少し余裕があったから、デンジ側はきっと狭いだろうと思い声を掛けると、
「い、いいのか?」
なぜか緊張と期待の入り混じったような声が返ってきた。
「うん? ああ」
するとデンジはおずおずと体を寄せてくる。少し寄れば十分だろうと思っていたのだが、デンジは予想を超えてアキにぴったりとくっついてきた。
「……近くないか?」
「だって、さみいんだもん……」
言いにくそうに呟くデンジは、もぞもぞと体を動かして体勢を変えつつも、アキから離れる様子はない。
「子供みたいだな」
「……何とでも言え」
とうとう男に縋り付く羞恥をかなぐり捨てたのか、デンジはアキの服の裾をぎゅっと掴んできた。まるで子供返りでもしたようだったが、マキマから聞いたデンジの生い立ちの事を思い出して、それ以上は彼を揶揄せずにその手を素直に受け入れることにした。
「そういえば、弟ともこんな風に寝てたな」
「そうなんか?」
「ああ、北海道の冬は今日よりもっと寒くてな。弟と布団を並べて寝てると、いつの間にかこっちに潜り込んでくるんだ」
「……へぇ」
今のデンジのように「寒いよ〜」と嘆く弟を眠らせる為にしていた事をふと思い出し、デンジの頭にそっと手を置いてみる。するとぴたりと寄り添った体に強い緊張が走った。
「は、早パイ?」
「早く眠れるようになるおまじないだ。昔弟にもやってた」
「俺は、アンタの弟じゃねーもん……」
頭を撫でられることに慣れていないのだろう、アキの手のひらが触れる度に、デンジの身体は小さく跳ねている。
「なら、どうして欲しい?」
「……っ」
デンジは考え込む様に黙り込んでしまう。暫く待ってみたが、一向に返事が返ってくる事は無い。
「……寝たのか?」
「だ……」
「ん?」
「抱きしめて、欲しい……」
蚊の鳴くような声で出されたお願いに、アキは怪訝に眉を顰める。
「俺は女じゃないぞ」
「いい、から」
見境なく人肌を求めるなんて、この少年はどれだけ欲求不満なのだろうか。いや欲求不満とも少し違うのか。
「ほら」
「――!」
所在なげな声色を発する少年の背景を考えると、やはりどうしても突き放すことが出来なかった。自分が抱きしめてやってデンジの心の隙間が埋められるのなら、それはそれでいいのかもしれない。アキはデンジの背中に腕を回して、強張った体を更に胸元へ引き寄せた。
「これでいいか」
「……ん、あんがと」
デンジを慰撫したくなるのは、単なる庇護欲だろう。
「――っ」
その確信はあるのだが、しかし体の芯から響いてくる心臓の拍動が少し早くなっている気がするのは、どういうことだろうか。
すると、抱きしめられた拍子にアキの胸元へ耳でもあてていたのか、デンジの小さな声が聞こえてきた。
「早パイ、なんでドキドキしてんだよ」
「……二人で寝るのは久しぶりだから、少し暑いのかもしれない」
おおよそ外れてもいないだろうと、適当な言い訳を口にすると、
「じゃあ、俺もそうなんかな……」
「……っ」
デンジがそう言った瞬間、胸がきゅっと優しく締め付けられる心地を覚えて、アキは小さく息を詰める。
「じゃあ、やめるか?」
「……ヤだ」
胸元で頭が小さく横に振られる。アキは小さく笑って「そうだな」と訳の分からない肯定をした。
とくり、とくり、とくり
死線をくぐり抜けるような戦いをしている時は、心臓の音がこんな風にはっきりと聞こえた。しかし今はそれに加えて得体の知れない心地良さにも包まれている。それがアキには酷く不思議だった。
今自分が聞いているのはどちらの鼓動だろうか。答えは分からないけれど、考えるのも少し楽しい。
「なぁ……早パイ」
「ん?」
「また…寒い日は、来ても、いいか……?」
「ああ」
「……やったぁ」
緩やかで柔らかい声色が聞こえて、そこから少ししてすうすうと規則的な寝息が聞こえ始める。夢の世界へと旅立った少年の頭をもう一度撫でてやりながら、アキも清廉な心地で安らかに自らの目蓋を伏せた。
「おやすみ、デンジ」