すろべり7話途中エアコンのきいた部屋を思い切って出ると、体中を熱風が襲った。それは名前を夏という。
「うだるような暑さとはこのことでしょうか」
巨匠が作り上げた美しい石像をそのまま体現したような彼、六弥ナギは日本姓を持ちながら、ノースメイアという北国出身であり、今年度の海外支部の新人の一人である。彼ら海外支部所属の新人となった者は、内定者研修を三月の早々に終えたのち、入社式もそぞろに海外の研修先まで出張することになる。ようやく研修を終えて帰国する頃には、日本はすでに夏といっても過言ではない気温だった。ナギの母国であるノースメイアは、オーロラの美しい国だと前に彼が言っていた。図らずも寒い国の出身である彼は、見目の麗しさとは裏腹に、眉根を寄せて暑さに打ちのめされていた。
「思いを熱く伝えていただけるのは大変嬉しいのですが、レディ以外はご遠慮いただきたく」
彼がハンカチで額の汗を拭いながら、少しでも冷たいところを求めて、木陰の壁に張りつく。
「ナギさん、せめて駅まで頑張ってください! 駅の中はエアコン聞いてますから」
残りあとわずかというところで音を上げ始めたナギを励まして、
「タクシー、タクシーを呼びます。車内に氷の椅子を用意してほしいです」
「このタクシーは経費で落とせませんよ!!」
海外支部の人間はおよそ3割ほどの人間が学校を飛び級で卒業するような人材が配属されている。そんな一人の彼は、暑さで溶けそうな今はともかく、普段から振る舞いが大人びているのに対して、ようやくお酒をたしなめる年齢になったところある。
しかしながら彼について、学歴のほか、兄弟に兄がいるということ以外に、紡はナギの素性について聞いたことがない。
「今日の報告会はナギさんの助け舟があったおかげで、司会進行がスムーズに進んで長引かずにすみました。あの張り詰めた場面でアイスブレイクできるのも流石ですね」
紡がナギに労いの言葉をかけると、彼は壁に張りついたまま肩をすくめて言った。
「おや、八乙女氏には敵いませんよ。彼とのディナーはさぞ楽しまれたことでしょう」
紡の髪が静電気でも帯びたように逆立つ。
「ナギさんまでご存知なんですか! いったいどこまで話が広がって……」
思いがけず出た話題に素っ頓狂な声を上げてしまった紡は、周りをおろおろと見回す。他に会社の人間と歩いていたわけではないが、その話題には慎重になっていた。彼の私生活に支障をきたしたくないからだ。
「彼には最近、ファンクラブまであると聞きますからね。彼女たちのネットワークであれば、彼の出張先からその日のランチメニューまで、情報収集なんてなんのその。八乙女氏に近づけば、実質その日のアナタの行動の速報が共に流れます」
「それはストーカー被害にあわれているのでは……」
限りなくグレーですね、とナギは続ける。
「ファンクラブの掟により、ヤオトメ氏が会社に出たあとのプライベートについては触れられないことになっています。ミスターモモが言っていました。なので、憶測だけが出回っていますね」
それとなく話題として避けていたみたいだが、学生の間にあまりよくない思いをしたことがあると、この前のカフェで当の彼が教えてくれた。きっと今までも出処の分からない噂で苦労をしてきたんだろうというのが彼の困った表情から伺えた。
「終業後すぐに帰社してしまうのは、彼女が五人いるからなど、そんなデタラメな話も回っていますね」
「八乙女さんはそんな不誠実な方ではないから、皆さんに好かれているのでは……?」
それと、「普通に話してもらえるだけでも嬉しい」と同じくその場でやわらかくわらった彼に言われたのを、あとから思い出した。
「冗談のたぐいだとは思いますけどね」
ナギは自身の冷却が完了したのか、ふらりと壁から離れて「お待たせしました」と電池切れギリギリだった彼は何事も無かったように歩き出した。
「あまりこの話題に波風を立ててはいけない気がしますが、何事にもご両親、特に父の教えが厳しかったとは話されていましたね」
ナギが目をパッと開いて驚いた顔をした。
「総務部のアナタであれば耳に入っていると思いましたが、ヤオトメ氏は社長のご令息でいらっしゃいます。おそらく礼節等、幼い頃から教え込まれている方なのでしょう」
紡はしばらくナギを見て立ち止まる。そしてまもなく本日二回目の素っ頓狂な声を上げた。
「しゃ、社長令息 そのような高貴なお方がなぜこんなところに」
人事を兼ねている立場上、紡の部署は彼の履歴書も管理していて、「非の打ち所のない」というのはこういう方だというのは胸の内にしまっていた。
やっと日陰に辿り着いたと、ナギが嬉々として高架下に小走りする。大人びていながらときおりお茶目なところがあるのは、ごく一部の人しか知らないのはもったいないように思う瞬間だ。
「噂は聞いたことはありましたけど、まさかそんなと思って。言われてみれば、八乙女……取引先の方から八乙女グループの名前を度々伺うことはありますが、まさか彼が?」
「根も葉もない噂が先ほどから独り歩きしているようですが、今回ばかりは本当のようですね」
「ひええ」
紡はナギに「アナタもぜひ日陰へきてください。涼しいですよ」とエスコートされるまで、日焼け止めの意味もなさない日差しの強さも忘れてあっけにとられていた。
「なんと」
グループ会社に勤めれば、次期社長候補として務める道もあったのではないか。深く突っ込んで聞くことでもないが、そう思わざるをえなかった。
「ご家庭の様々なご事情があるのかもしれません。はたまた、獅子の子落としか」
「それはそうですけど……」
ナギが少し考えてから言う。
「それに、ご令嬢というのはアナタもでしょう。いつもシャチョーさんにはお世話になっています。今回も海外展開の件ではお世話になりました」
ぎく、と紡が肩を揺らす。
「そういえば、ナギさんにも母のところに行くのを見られていましたね。あの後姿だけで父だと知られるとは」
紡自身はそこまで公にするつもりはないが、この会社のグループ系列会社の社長令嬢だった。たまに社長、もとい父が会社付近まで迎えに来ることがあるため、一部の人間には知られている。
「八乙女さんほどのプレッシャーではないですが、私にもいつも通り接してくださるとありがたいです」
父が迎えに来るときは、だいたいが母のお見舞いに行く日だ。町の総合病院へは距離があるため、都合がつけば父が母の数日分の日用品を揃えて病院へ向かう。その道すがら紡は拾ってもらうのだ。紡は困ったように笑った。
「いえいえ。取引先のご令嬢という前に、レディに失礼なことはできません。今夜だけはワタシにエスコートさせてください。八乙女氏に引けを取らないデートコースをアナタに捧げます」
「だからデートじゃないんですってば!」
彼は入社してからときどき、紡になにかしらのプレゼントをしたがった。それは彼女だけではなく、自身の女性に対する敬意の証としてさせてほしいとの申し出で、他にも部署でお世話になっている先輩や後輩にも分け隔てなくお菓子なりなんなりをプレゼントしているそうだ。それもどれもこれもセンスがいいのだから、もらった女性陣にも大変彼は人気である。
「ホワイトデーにも可愛らしいお菓子を頂きましたよ」
「趣味のようなものですから、気になさらないでください。どうかワタシを尊重すると思って」
彼がウインクをして、目的地のモールに入る。自動ドアが開くと、紡は気づいてぎょっとした。
「え! ここに入るんですか!」
「どうぞ中へ」
「どうぞってなんですか!?」
「一度きちんとお礼がしたかったんです。ハルキがいつもお世話になってますから。ハルキがいきいきと音楽を奏でる人に、あなたを選んだのですから」
ナギは愉快そうに紡の背中を押して中に入る。紡の叫びは、白く淡い月が低く浮かぶ、夕方のまだ明るい空に消えていった。
オーロラフィルムでドーナツをくるんで(仮)
コーヒーをこぼした。シャツは洗ったがシミは取れず、新しいものを買うかと休憩室で物思いにふけていると、通りかかる社員の皆から、コーヒーを飲んだかと聞かれた。コーヒーをこぼしたと言うと、聞いてきた皆からふふっと笑いをもらってようやく、おはようと残念を込めた「お疲れさま」を言われる1日だった。
「八乙女さん、どうしたんですか? あら? コーヒーお持ちかと思ったんですけど、そういった香水かなにか……?」
途中から何人に声をかけられるか試しに数えていた楽は「小鳥遊さんでたぶん十人目です」と答えた。
「コーヒーこぼしたんですよ。皆に聞かれます」
会議室から出た矢先にすれ違った彼女は、くりっとした目をこぼれんばかりに見開かせる。
「え!? 大丈夫ですか? シャツの染み抜きなどは?」
今日このとき、楽は初めて人に心配された気がした。
「すぐにクリーニングへ行かれる予定はありますか!」
コーヒーを飲み干したあとのコップの底のざらつきのような不服さが、この半日で大半の感情を占めていた。それが、彼女の慌てようを見た途端、どこかにころころと落ちていった。
「ふふ」
楽は腹を羽でふわふわとくすぐられたような声がこぼれる。
「笑ってる場合ですか!?」
「いえ、俺よりも真剣にシャツの心配をしてくれる小鳥遊さんがおもしろかったので。嬉しいです。けど、ちょっとこのシャツに嫉妬します」
ハンカチを出してくれた彼女に、朝一でこぼしたからもう染み込んでますよ、とお礼を言って断った。
会社に置いていた替えを二階堂に貸してそのまま新しいのを持ってくるのを忘れていた。
「シャツはこの前人に貸したので、替えがなくって。香水と思っていてください。皆からいい匂いだって言われて、結構評判良いんです」
「それならいいんですけど……外出される仕事がこれからあるんじゃ」
「それで、いまから四葉のところに行くとこなんです。あいつたしか身長一緒だったから。四葉はまだ伸びそうなんで、いつか身長抜かれるかもしれないすけど」
「ええー、では八乙女さんも伸びないとですね」
彼女がくすくすと笑う。先日の夜以降も、何度か会社で会う機会があるが、彼女は以前と変わらず話しかけてくれた。それがどんなにありがたいことか、彼女に伝わってるんだろうかと、考えるのは行き過ぎた感情だろうか。
楽は、自分がずっとあの日食べたバウムクーヘンの味が忘れられないことに気がついていた。
「海外の部署から帰ってきたんだって」
ふと、周りのざわついた空気を感じる。
「うわ、かっこいいってか綺麗な人。髪色金だし、ハーフかな」
「隣の人なんて、俺らよりよっぽど年下らしいぜ。なんでも英語ペラペラなんだとか」
「英語だけじゃなくて、なんかほかの国の言葉も話せるんだろ? なんだっけあの取引先の国……ノースメイア?」
周りがこだまのように口々に言葉を連ねていく。そのどれもが今、エレベーターでこのフロアにやってきた三人のことを言っていた。
「今エレベーター降りてきた人たちって、この前のパーティーにいました?」
四月からの記憶を辿ってみたが、三人に楽は見覚えがなかった。四月の歓迎パーティーどころか、その前後でこんなに目立つ彼らを覚えていないわけがない。それほどに華やかで周りから寵児ともてはやされている彼らが、レッドカーペットを歩くようにこちらに向かってきていた。
「海外支部の方々です。つい先日まで海外へ研修に行かれていて、パーティーには参加できなかったんですよ」
紡が眉を下げて落ち込んだ様子を見せる。海外支部だけが研修日程の都合で毎年パーティーに参加できず、他部署への顔見せはこの時期からとなるのが通例らしい。改善したいと思っているものの、なかなか研修先の予定と噛み合わないのが目下の状況だそうだ。
「三人とも八乙女さんと同期の方ですよ。今日はこれから皆さんと打ち合わせがありまして、奥の会議室で行うんです」
では、と彼女は会釈すると、向かってくる三人と合流していった。
「お疲れ様です、小鳥遊さん。今日はよろしくお願いします。今から会議に行くところですか?」
小柄ながら目を奪われるような儚さと凛々しさを持ち合わせた男だった。しかしながら、どこか馴染みのある雰囲気を楽は感じていた。
「はい! 今日はよろしくお願いいたします。海外での研修、大変でしたでしょう。シアトルはいかがでしたか?」
隣のおだやかに笑う男が、ケータイの写真を彼女に見せた。緑豊かな公園の景色の写真のほか、男の体に入り切れるのか分からないような、フードファイト用と思わせるほどの大きなハンバーガーが遠目に見えた気がした。
「楽しく過ごさせていただいて、素敵なところでしたよ。こちらで亥清さん、さみしくて泣いてませんでしたか?」
「亥清さん……あ! この前『巳波が返事くれないー!』とご立腹の様子で環さんが落ち着かせているのを見かけましたが……」
悠が食堂で大量に甘いものを頼みかけていたのを、環がどうどうと鎮めていたらしい。
少し後ろで社員の女性と話していた金髪の男が遅れて会話に入ってくる。
「亥清氏も時差のことは分かっていらっしゃると思うのですが、タマキにはご迷惑をおかけしましたね。あとでお土産をお持ちします」
「きっと喜ばれますよ」
「そうですツムギ、さっそく使ってくださっているのですね」
金髪の男がいっているのは、紡のポケットから少し頭を出した、先ほど楽に差し出そうとしたハンカチのことのようだった。
「触り心地がよくて、重宝しています」
「嬉しいです。ハルキにも今度会いに行くので、よろしければ一緒に行きませんか?」
「ええ、皆さんで行きましょう」
立ち聞きするのもよくないと、蚊帳の外となった楽は邪魔にならないよう去り際を探る。彼女が自分以外の人間とどう関わっているかなんて、知らなくていいことなのは分かっているが、彼女と誰がどうするだなんて、誰かに何かもらったなんて聞いてしまえば気になるものだ。
転がり落ちた不服さは、にじりにじりと自ら拾われにきたように歩み寄ってくる。
ふとその視線に気づいたのは、真っ先に彼女へ挨拶をした小柄な男だった。小柄といっても、彼女と頭一つ分は身長が高い上に、この場の誰よりも存在感を放っている。そう、たとえば、アイドルならセンターに立つような男だ。
「キミが八乙女楽?」