「かわいい」って言わせたい! イングリットはアッシュと二人、特定の条件を満たさないと出られない部屋に閉じ込められてしまったようだった。
条件を知るべく別々に部屋を探索していると、アッシュが離れた所でイングリットに背を向けている時に、天井からひらりと一枚の紙が落ちてきた。
咄嗟に受け止めたイングリットが紙面を確認すると、そこにはこう書かれていた。
──アッシュがイングリットに「かわいい」と言わないと出られない部屋です。ただし、アッシュはこの条件を知ることはできません。
イングリットが読み終わると同時に条件の記された紙は数多の光の粒となって、消えた。
アッシュに内容を伝えられないらしいとはいえ、この条件ならば意外と簡単に出られるのでは、とイングリットは彼の背中を見て思う。アッシュとは数節前から恋人としてお付き合いをしていて、彼はちょっとした事でもイングリットを「かわいい」と褒めてくれるからだ。
「あの、アッシュ」
声をかけると、彼が振り返った。
「脱出のための条件が分かりました」
「本当ですか!」
アッシュがほっとしたように表情を緩めてイングリットの元へとやって来る。
「あなたが特定の」
言葉を言わなければならないのですが、と続けようとしたイングリットだったが、途中から声が出なくなった。口も動かない。
どうやら、条件そのものはもちろん、ある基準を超える手がかりも伝えられないようだった。
「イングリット?」
不安そうにアッシュが眉を下げた。
「あなたが特定の行動をしなければならないそうなのですが」
言葉を変えて言い直すと、今度はするりと声が出た。
「……どうやら、あまり詳しい事は伝えられないようです……」
状況を説明すると、アッシュも納得したように頷いた。
イングリットは考える。
どうにかして、アッシュを答えに導かねば。
どうしたら、この状況で彼がイングリットを「かわいい」と言ってくれるのか……。
そこまで考えて、イングリットは自分が、恋人に褒められたがっているみたいじゃないと少し恥ずかしくなる。だが、ともかく彼に「かわいい」と言ってもらわなければならないのだから、どうにかして彼がそう言ってくれるように仕向けるしかないのだ。
意を決して、イングリットは彼に質問してみることにした。これで声が出なくなるようであれば、また別の方向から考えるしかない、と思いながら。
「アッシュは、私を、どう思っていますか?」
この質問で「かわいい」という答えを引き出そうとしているのだから、自意識過剰なのではないか、とイングリットはまた恥ずかしくなる。
脱出のために必要な質問なんだろうな、と理解したのだろう。アッシュも不思議そうな顔はせずに口を開いた。
「大好きですよ」
何度聞いても、こちらが伝えても幸せな気持ちになれるその言葉は、こんな状況であってもイングリットの胸に甘く広がる。
ただし、今言って欲しいのはそれではない。
照れを隠せないまま、イングリットは小さく首を振る。
「……あ、あの、そうでは、なくて」
「……?」
アッシュは右手を顎に当てて僅かに首を傾ける。
やがて何かに思い当たったようにはっとした顔になった。
頬を染め、照れくさそうに、彼は言う。
「僕は、君を愛しています」
「嬉しいです、アッシュ……私も愛しています」
イングリットも真っ赤になってその想いに応えるが、それでは扉は開かない。
「結婚したいと思っています!」
アッシュが宣言した。
「……!!」
愛している、までは囁いてくれたことがあったけれど、彼が自分との結婚を考えてくれていると言葉で聞いたのは初めてで、イングリットは歓喜に震える心のまま、私もです、と伝えた。
だが、当然の事ながら、それはここから出るための鍵とはならないのだ。
「……」
イングリットは喜んでいるけれど、この状況の答えはこれではない。
そう理解したらしいアッシュは、困惑した表情で考え込んでしまった。
イングリットにしても、言われて嬉しくはあるものの、答えを当てるためにアッシュが思い浮かぶ言葉を順次声に出している面も否めず、もっと違う時に言って欲しかった、とも思ってしまう。
ただ「かわいい」と言って欲しいだけなのに。
そう考えてまた恥ずかしくなりながら、イングリットは必死で思考を巡らせた。どうすれば彼が自分を「かわいい」と言ってくれるのか。いつもどんな時に、たくさん「かわいい」と言ってくれていただろうか──。
そして思い至った場面に、イングリットの全身がカッと熱くなった。
普段でも「かわいい」と言ってくれなくはないけれど、一番多くそう彼が口にするのは、えっちの時だ。
アッシュはアッシュで、「勇ましい」とか「素敵な騎士だ」とか思いついてはイングリットを褒めてくれているものの、答えからどんどんかけ離れていっているのはきっと気のせいではない。
「アッシュ……、その……」
うつむいてイングリットが呼ぶと、アッシュは考えるのをやめてこちらを見た。
幸いにもというか何というか、この部屋には寝台がある。
口の中に溜まった唾を飲み込んで、イングリットは決死の覚悟で彼を誘った。
「えっち……しましょう……!!」
途端にアッシュの目が真ん丸に見開かれた。
この状況で? と考えているのがありありと伝わってくるが、イングリットだってこんな時にしたいと思って誘っているわけではない。
アッシュはぱちぱちと目をしばたたいた。
「え……、あ、……えっちだなあ、とかですか……?」
現状でイングリットが誘う意味にすぐに思い当たったアッシュが、そこから導き出したらしい言葉を口にするが、全然合っていない。
それに、もしそれが答えなのだとしたら、最初の質問で「どう思っているか」なんて訊いていない。それで「えっちだなあと思っています」とか答えが返ってきてもいたたまれない。
「……アッシュの方がえっちです……」
思わず言い返してしまうと、アッシュは恥じ入るように頬を赤くして、目を伏せた。
「す、済みません……。大好きな君とするのが、嬉しくて」
「い、いえ、私も嬉しいです……」
「ありがとう……」
ひとしきり照れた後で、二人は防具を外すと抱き合って寝台に倒れ込んだ。
**
脱出条件のことは考えず、普通にしてください。
行為の前にイングリットはアッシュにそう伝えた。
だっていつもいつもアッシュは、最中から事後まで浴びるほど「かわいい」と囁くからだ。
それなのにどうしたことか、今日に限って一度も「かわいい」と言わない。
どうしてかしら、と考えて、「綺麗です」とか他の賛辞や愛の言葉は何度も口にするのにそれだけを言わないのはたまたまかも知れないが、とにかく自分は彼を誘導して答えを求めるばかりだったと気がついた。
好きだと言われたら、嬉しい。そうしたら同じように返したいし、好きだと伝えるのも嬉しい。
褒められるのだって、きっと同じこと。
イングリットは抱きついていたアッシュの背中を引き寄せた。
寝台を軋ませる熱を少しゆるめて、アッシュが彼女の瞳を見つめる。
イングリットは微笑んだ。
「アッシュ……、私は、あなたを、誰よりも素敵な人だと思っています。世界で一番かっこいいと、そう、思っています」
心の底からの正直な想いを言葉にすると、アッシュの顔はそれまでよりも更にとろけた。
「ありがとう、イングリット……。僕も君を、この世の誰よりも魅力的だと思っていますし、世界で一番、かわいい人だと」
ガシャッ。
金属の動く音が部屋に響いた。
それが、どうやっても出られなかったこの空間の扉が開いた音だと理解するのに、さしたる時間はかからなかった。
アッシュがぽかんとした顔をする。
「え、……あ……、そういう、こと……?」
口の中で転がすように繰り返す。
「かわいい、かわいい、イングリットはかわいい……」
なんだか確認するように復唱されて、イングリットは恥ずかしくなってくる。
アッシュは今度はまじまじと彼女の目を覗き込んだ。
「僕にかわいいって言わせるために、あんなに頑張ってくれたんですね……」
嬉しそうな声でしみじみと言われて、更にイングリットは恥ずかしくなって思わず両手で顔を覆った。
「だ、だって、伝えられないけれどそういう条件だったので……」
「うん……」
アッシュの両手が、顔を隠したイングリットの両手をそっと退けさせる。
「察しが悪くて済みません……。でも、君に伝えたこと、全部本心ですし、君の言葉も全部、嬉しいです」
とろけた笑顔で語ったアッシュは、優しくイングリットに口づける。
「私もです」
離れた唇を追ってイングリットも口づけを返すと、アッシュは困ったように笑った。
「折角ここから出られるようになりましたけど……、ちょっと、すぐは無理そうです……」
ゆるりと腰を揺すったアッシュの言わん事は理解した。
確かに身の内で燃え始めている情動は、今すぐに彼と離れることを嫌がっているし、きっと男性であるアッシュは尚更だろうと思う。
照れ隠しに軽く頬を膨らませて視線を逸らしたイングリットは呟く。
「やっぱりアッシュはえっちです……」
すると、彼はイングリットの耳元に、今日いちばんの熱を込めて、囁いた。
「君がかわいいから、です」