生卵粉砕事件コーヒーの香りが漂うシェアスペースのキッチンに、ぐしゃ、と鈍い音が響いた。
反射的に音の方向を向くと、卵……だったものを握り硬直している魔デさんがいる。
「…………しくじった」
長い沈黙の後、彼は右手に握った生卵の残骸に目を落とした。辛うじて残った中身をボウルに入れたものの、黄身は割れ、白身の大半とカラの破片は彼の手にへばりついている。失敗したで済ませられるレベルではなく、もはや事故だ。
「えっと……」
この瞬間、私の頭には様々なものが過った。
魔デさんって不器用だったっけ。いやいや、色んな薬品や魔法を調合しているから手先は器用だった。いくら調剤師にあるまじき筋肉をしているからって卵を粉砕するか? 寝ぼけてたのかな? でもブラックコーヒーを飲んでからもうだいぶ時間が経っているし……などなど。
「ぇぇ……あ、魔デさんってば、力み過ぎですよ」
当たり障りのない言葉をかけても、彼は動かない。これはいつもの無表情ではなく、びっくりして完全に硬直しているやつだ。オムレツを作るから卵を割ってくれと頼んだだけでこんな惨事になるとは思わなかった。
「どうせ混ぜちゃうんだから、卵のカラだけ取ってくれれば大丈夫です」
「ああ……」
流石の彼も言い訳を捻り出せなかったらしい。仮に自分が同じ状況に置かれたとして、何を言っても掘った墓穴を深くするだけだろう。気まずそうに手を拭った後、フォークでボウルの中に入った卵のカラを取り出している。
「(……しょげてる!!!)」
しょうもないくせに弁明のしようがない失敗。ドアに足を挟まれるとか、寝転がって読書している最中本を顔面に落とすとか、こういうのが意外と心にくることを私よく知っている。
「ま、魔デさんもうっかりすることあるんですね!ほら、次のを割っちゃいましょう!」
からかいも哀れみも感じさせない、いつもの声で次の指示を出す。すると彼は言われた通りに二つ目の卵を手に取った。ほっと一息ついて手元の鍋に視線を戻すと、再度ぐしゃりと鈍い音がキッチンに響き渡った。
「え…………」
音のしたほうを横目で見れば、無残な生卵の残骸を握ったまま再度硬直している男がいるではないか。
「(魔デさーーーーーん!!!)」
叫び声を頭の中で留めた自分を褒めたい。
彼は調子が悪いのかもしれない。熱があるのではないかと確認しようとしたが、何もなかった場合、彼の尊厳は生卵と同じ運命を辿るため思いとどまった。
「…………」
「……だ、大丈夫ですから!!!」
全然、まったく、これっぽちも大丈夫ではないのだけれど、上手いフォローを考える余裕はなかった。黄身が割れてしまったとかならまだわかる。なぜ二度目も粉砕なのだ。このようなシチュエーションは覚えがある。娯楽小説で読んだ……人間と仲良くなろうとした人外が力加減がわからず相手をうっかり殺してしまうやつ!
「……茹でていたんだ」
「え?」
「卵を調理する時はいつも茹でていた」
ぼそぼそと語り始めた彼の頭のてっぺんの飾りは心なしかいつものキラキラとした光を帯びていないように見えた。感情と連動しているのだろうか。
「あー……生卵を割るのは久しぶりだったんですね?す、すこし鍛えすぎているんじゃないですか?」
「そうだな」
あまりにも弱弱しい返事だった。今度はそれなりにいい感じのフォローができたと思ったのに、これは完全に心が折れている。もうだめだ。立ち直らせるには今夜のメインディッシュをステーキにするしかない。
「オムレツの具材、好きなのにしていいですから」
「……うん」
その後、彼は厚切りのベーコンとチーズを所望した。しかし朝食後もどこか抜けており、瓶を落として足の小指にぶつけ、果物を食べれば思い切り種を齧り、昼寝をした際は寝返りをうって床に落ちた。
***
それはいつも通りの休日の朝だった。翌日が休みなのを良いことに、昨日は夜遅くまでエリア探索を続けていた。当然起床時間は遅くなるわけで、こういう日は魔デさんが朝食を用意してくれる……のだが。
「……おはようございます」
「ああ、朝食はできているから食べると良いよ」
「(…………うん?)」
なんでもないはずの朝に交じった、微かな違和感。いつもなら遅く起きてきたことに対して、一言二言皮肉が飛んでくるものだ。促されるまま椅子に座り、お茶を啜る。そのまま視線を下へ落とせば、綺麗に焼かれた目玉焼きと簡単なサラダ、お味噌汁が並んでいる。
「(今日は日本風か……珍しいな)」
日本の料理が食卓に並ぶこと自体は珍しくないし、作るのも簡単なので週に一度はお目にかかる。何故珍しいかといえば、こういった異国の料理を作るのは基本的に自分であり、彼は洋風の食事を好んでいる。メニューは大抵パンにコーヒー、たまにスープがついてくる程度で、同じものを食べる方が落ち着くのだと言っていた。何故急に日本風の朝食を……と首をひねったところで、魔デさんが目の前に調味料を差し出した。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
目玉焼きにかける調味料、今日はどれにしようかと選び始めた、ふいに思い至った。
「(そうだ、目玉焼き……!!!)」
彼による生卵粉砕事件は記憶に新しい。卵を割ろうとして黄身を崩すどころか丸ごと粉砕していた男。その彼が、綺麗な目玉焼きをこしらえた。これはもしかしなくても、もしかするのではなかろうか。
「(練習したのか、したんだよね? オムレツでもスクランブルエッグでもなく目玉焼きにするってことは、そういうことなんだね!? ああ、褒めたい! 物凄く褒めたいけど……ストレートに言ったら絶対認めないんだよな~!!!)」
ここで前回の失敗を話に出すと絶対に不機嫌になる。あくまで自然に、気づかないように、彼の成長を褒め称えなければならない。
「じゃ、じゃあ今日は醤油にしよう……いやあ、魔デさんが日本風の朝食を作ってくれるなんて珍しいですね!」
「……ただの気分だ」
「私は好きですよ。今後もぜひ!」
彼はコーヒーを飲みながら、ふん、と鼻を鳴らす。なんでもないふうに繕っているが、頭上の飾りがキラキラしていた。生卵を粉砕したときは枯れかけた花のごとく萎れていたというのに。
その後、彼が日本風の朝食を作る頻度は増えた。目玉焼きを皿に盛り付ける彼はどこか誇らしげだったという。