Cheers to music マヒアには密かに狙っているコンサートがあった。
表立って言えない職務に就いているがそれでも、いや、そんなグレーな生活だからこそ潤いは必要であると常々考えている。趣味・嗜好は殺伐とした環境から気持ちを切り替えるガス抜きの役目をしてくれるし、そこから興味の種が落ちて好奇心の葉が芽吹き知識の花を咲かせることだってあるからだ。
音楽はマヒアにとって潤いのうちの一つである。楽器を用いて自ら心地の良い音色を織り上げるのもいいが、人が作りだした音の世界に情緒を揺さぶられる感覚も好きだった。ポップス・ロック・レゲエ・ラテン・フォークソングなどジャンルにこだわらず波長が合ったものを発掘しては日々の合間に聴いている。その中に近頃クラシックが新たに仲間入りをした。
契機となったのが、とあるオーケストラの存在である。
オーケストラと仰々しくいっても、よくある上流階級にのみ許された格式高い嗜みとは少々毛色が異なっていた。
出会いは異邦の地でのこと。
仕事終わりの疲れた体を引きずって、どこかに休める場所はないかと辺りを見渡していると背後から「あの…」と呼び止められた。控えめに出された掛け声の方向に顔を向ければ何かのチケットを数枚ほど握り締めた売り子がほとほと参った様子で佇んでいる。いつもならこういった手合いは避けているマヒアなのだが憐れみを誘う困り眉についつい足を止めてしまった。
聞けば、巡業中である一座が主催者側の無茶な要求を受けて急きょ演奏をしなければならなくなったらしい。突発的な興行に運営スタッフは席を埋めるべく路上販売に奔走しているのだと、ざっくり言えばそんな内容の話であった。
身の上話を最後まで聞いてしまった手前、「お時間ありますか?」という泣きそうな救援信号を無視できるはずもない。子守唄にするには丁度良いかとマヒアは仕方なくズボンのポケットから財布を取り出した。
ふっくらとした厚みのある劇場のシートは眠るのに適した造りをしている。そんな埒もないことを考えつつ、あくびを噛み締めながら微睡んでいると時間になったのか幕がゆっくりと上がっていく。眠気で閉じる寸前の薄目でそれを追っていけば、ド迫力な音が大気を震わせた。
覚めるような幕開けに椅子の背からずり落ちて目をぱちくりとさせる。そこからカーテンコールに至るまでマヒアは一度も睡魔によって瞼を下ろすことはなかった。
目の当たりにしているステージから軽快な楽曲が次から次へとポンポン飛び出してきたからである。
「アルルの女」第2組曲 第4曲 ファランドール/「ハンガリー舞曲」第5番/「水上の音楽」第2組曲 第2曲 アラ・ホーンパイプ/行進曲「威風堂々」第1番/交響曲第9番「新世界より」第4楽章/「ジ・エンターテイナー」…。
派手な曲ばかりではなかった。静閑な旋律で知られる定番曲がジャズ調やポップ調などにアレンジされ生まれ変わっていく。古き良き楽譜を重んじる者が聴けば青筋を立てそうな所業ではあるが、マヒアには荘厳で優雅なだけだと思い込んでいた曲目の数々が全く違う調べに聞こえて心が色めき立った。
惹きつけられたのは選曲が明るく賑やかなものだから、というだけではない。
陽気な人柄のメンバーがそろっているのか興に乗ると体で調子良くリズムを取り始める。また、演目によってマーチングバンドのように全員が一体となってクルリと華麗にターンするパフォーマンスも組み込まれていた。指揮者は踊るように奏でる奏者達を抑制するどころか、むしろ観客を煽りに煽って更に盛り上げようとする。
聴覚だけでなく視覚でも楽しませてくれる自由な形の合奏が彼らの特色であった。
これまでマヒアの中で「クラシック」「オーケストラ」「コンサート」の三単語は技術や構成などは素晴らしいと感嘆すれど独特の雰囲気と堅苦しさで退屈な印象しか持ってなかった。しかし、こんなにも心躍る鑑賞を体験してマヒアはすっかり彼らのファンになってしまった。
ただ残念なことに、このオーケストラの演奏を以後拝聴することはなかった。初心者でも気軽に親しめるという触れ込みとリピーターの増加により徐々に人気が高まっていったからである。それに加え、小規模なマイナー楽団であるがゆえに押さえられる会場も限られており公演回数も多いとはいえない。結果、チケットが入手困難な状態となっていった。
そんな彼らが近場のホールで公演をするというらしい。これは是非聴きに行きたいと電話やラップトップの前にかじりついてチケットの購入に勤しんでみたが、気まぐれな幸運の女神様はマヒアに味方してくれなかった。
(あーあ、近くでやるなんて滅多にないから行きたかったんだけどなぁ)
戦に敗れ、マヒアはガックリと肩を落としていた。
奇しくもそんな折、全く予想だにしなかったところから思いがけない吉事が舞い込んできたのである。運んできた青い鳥はあろうことか同業者のロハンだった。
「お前、クラシックコンサートとか行くか?」
作業車の点検しているマヒアの元にふらりと現れたかと思えば挨拶もなしに本題を切り出してきた。マヒアはバインダーに挟まれたチェック項目に印を付けながら、ロハンの問いかけにピクリと眉を動かす。
クラシックコンサート。惨敗を喫した激戦を思い出し、マヒアは溜息を吐いた。興味を持ち始めたとはいえ聴きたいと熱望するのは今のところ彼らの演奏だけである。なんでもいい、というわけでもない。行けない悲しさがぶり返してきて受け答えをする声は締まりのないものになっていた。
「んー。ものによるかなぁ」
「ほう。じゃぁ、これなんかはどうだ?」
そういってポケットから無造作に抜き出された一枚。そこに印刷された文字を横目で読んでいけば、なんという偶然か。散々振られに振られまくったあの楽団の名前がはっきりと印字されていた。
「え?…それ 行きたかったやつ!!」
「なんだ、そうなのか。そりゃぁよかった」
点検シートから顔を剥がし、目を丸くして喚き立てるマヒアとは対照的にロハンは気のない表情を崩さない。心にもない「よかった」の平坦な声も興奮したマヒアの耳には入ってこなかった。
「なんで?ロハン、こういうの全然興味ないじゃん」
「知人から押し付けられたんだよ。でもお前が言う通り俺は全然まったく欠片も興味がないもんでね。だから貰ってくれると助かる」
心底うんざりした口調で言うや否や問答無用で長方形の紙をマヒアの手に握らせると、厄介払いができたとばかりに手をヒラヒラと振って去って行った。
呆気に取られながらも手に落ちてきた僥倖を表に裏にと引っ繰り返して検分する。おそらく本物で間違いない。
あの素っ気ない態度からして余程手に余っていたのだろう。片や手放したくて、片や欲している。互いの利が一致しているなら、とロハンの背に感謝して素直に貰い受けることにした。
こうしてマヒアは念願のコンサートチケットを手に入れたのである。
かくして太陽と月が交互に巡り、ついに訪れた当日。
マヒアはいそいそと鏡を覗き込み鼻歌交じりに櫛で髪を整えていた。
纏っているのは淡いクリーム色のシャツにネイビーブルーのカジュアルスーツ。迷いに迷った末、キャラメルブラウンの細身なタイ。ドレスコードのない気楽な演奏会ではあるが、気分を上げるための装いは大事である。
「でもまさか今日行けるとはねぇ」
テーブルの上にあるチケットの日付を覗いて、吐息の笑みを零した。腕に巻いた時計を見れば頃合いのいい時刻である。仕上げにコロンをハンカチにひと吹きして胸ポケットへ収めると、黄金の切符を手に家を出た。
大通りでタクシーを捉まえて後部座席に意気揚々と乗り込む。車窓から光の線となって後方に流れていく夜景をぼんやり目にしている間に車は会場入口のロータリーへと到着した。
目的地である音楽堂は名のある一団が来演するほど有名ではないが街中では相当の存在感を醸し出している。石造りの構えも趣があって印象が良い。大理石の階段を上りながらマヒアは軽やかに口笛を吹いた。
洒落たエントランスを抜けて中に足を踏み入れると、ざわざわとした囁き声の群集に包まれる。ぐるりと首を回せば結構な数の席が埋まっていた。通路には自席を探す人々がいる。その間を縫ってマヒアも席を探し始めた。
「えーっと。俺の席は、っと…」
初めは貰い物だということもあって舞台から遠い位置の席だろうと踏んでいた。しかし、案内板を前に推測が大いに外れたことを知って愕然とする。マヒアは何度も手持ちのチケットと座席の配置図を交互に見比べたが、何回確かめても書かれている指定席の番号に変わりはなかった。
「マジ?一階席のやつじゃんか、これ……」
あまりの良席にあんな軽々しく渡されていいものだったのだろうかと眉を潜める。困惑が差し迫ってくるも今日の今更で返せるはずもない。ここはありがたく使わせてもらおうと腹を括ることにした。
気を取り直して銀板に刻印された座席番号のプレートを一つ一つ指先で追っていく。規則正しく並ばれた椅子は壁に挟まれた迷路を連想させた。
その迷路の中を宝の地図を頼りに突き進み、ようやく辿り着いた終着地点。
「あれ?」
「ん?」
…のすぐ隣。着席している先客に挨拶をしようとして不発に終わった。マヒアの視点が一点に固まって挙動が完全に停止する。
何故なら目線の先には荒事の仕事でよくお目にかかる人物が驚いた顔をして座っていたからである。
「え?アイヴス?」
「……えらい奇遇だな。席は、もしかしてここか?」
不躾に人差し指を向けて顔見知りの名を口に出せば、呼ばれた当人は先に平静を取り戻して隣を指し示してきた。マヒアは目を見張ったまま首肯して用意された席へと腰を下ろす。
「ビックリしたぁ。こんなところで会うとは思わなかったよ」
「俺もだ。しかも、隣とはな」
アイヴスが相好を崩して同意する。不意の邂逅を面白がっている風でもあった。
(あ、機嫌良さそう。よかった。迷惑じゃないみたいだ)
任務時は表情筋が機能しているのか疑わしくなるほどの鉄仮面ぶりを見せるのに仕事が絡まなくなると鉄が溶けたのかと思うほど目の前にいる男は頬を緩ませる。しかも、その笑顔は気心が知れたほんの一部の人間にしか向けられない。
マヒアがここ最近得たアイヴスの機密事項である。
「チケット取れたんだ。ラッキーだったね。このオーケストラ、結構人気で中々取れないんだよ。俺なんて惨敗したんだから」
「そう……なのか?なら、悪いことしたか……」
「なにが?」
「実はな、自力で取ったわけじゃない。ホイーラーから譲ってもらった」
アイヴスはマヒアが持っているのと同様の紙片を揺らしてみせた。
曰く、雑談でこのオーケストラが話題に上がった際に興味があると軽い気持ちでホイーラーに打ち明けたのだという。その数日後、ポンとあっさり手渡されたらしい。あまりにも出来すぎた展開に催促したつもりはないと突き返すも、困ったような笑いを浮かべられて「興味がない人間が持っているより興味がある人間が持っている方が有意義だ」と押し戻されてしまったのだそうだ。
「へぇ、ホイーラーから。別にいいんじゃない?本人がいらないって言ったんだったら」
「まぁ、なんだかんだ言って結局来てるわけだしな。存分に堪能させてもらうさ。そういうマヒアは?さっき惨敗したとか言ってなかったか?」
「そっちと似た状況だよ。まさに捨てる神あれば拾う神ありってやつさ」
肩を竦めて茶化しながらマヒアは隣に座るアイヴスの様相を改めて眺めた。
上はライトグレーのジャケットに白シャツ。下は黒のズボンと味のある濃茶色の革靴。「軍服以外のアイヴスを想像しろ」と言われたら十中八九こんなイメージが完成するであろう実にシンプルな服装である。
だが、想像は所詮想像でしかない。実物から得られる衝撃は生半可なものではなかった。
鍛え抜かれた無駄のない肉体とその上に乗ってるすこぶる造形の良い容貌のおかげで飾り気のない簡素な着衣が洗練されたフォーマルになるのだから不思議なものである。事実、服自体の品質も悪くない。この外見なら豪華な催物に参加しても、ひょっとしたら赤絨毯の上を歩いたとしても、見劣りしないのではないだろうか。
「……なんだ?何かおかしいか?」
一方的な注視に据わりが悪くなったのかアイヴスが片眉を寄せる。マヒアは否定の意を示すため、すぐさま首を横に振った。
「違う、違う。そういえばアイヴスの私服姿って貴重だなぁと思って。あと、着る人が着ると服って品格まで違って見えるんだと実感してただけ」
「つまり、俺は褒められてる…のか?」
「褒めてる。褒めてる」
「そうか。そりゃどうも」
苦笑すると今度はアイヴスが仕返しするかのように、わざわざ体を引いてマヒアの頭から靴の先まで分かりやすく視線を巡らせてきた。
なるほど、これはなんとも居たたまれない。マヒアは先程までの己の行動を深く反省した。
「…自分で選んでるのか?」
「そうだよ。変?似合わない?」
「いや、センスが良いな。よく似合ってる」
冷やかしもなく、氷海を思わせるアイスブルーの瞳がまっすぐこっちを向いて賞賛を述べてきた。それを一身に浴びたマヒアはグッと息を詰まらせる。
アイヴスの質の悪さは、こうした他愛もないやりとりの中でポトリと冗談や揶揄のない混じりっけなしの本音を真面目に落としてくるところだ。
思わぬ被害を受けてマヒアは気恥ずかしさを誤魔化すために小さく咳払いをする。
「好印象でなにより。不格好だったらどうしようかと思った」
「それはないだろ。お前は眼がいい。俺は着られればなんでもいいと思って雑になるから、服まで気を使える奴は尊敬する」
もったいない、とマヒアは胸の中で間髪入れずに嘆いた。
(これだけ顔も体も良ければ、さぞかし着せ替え甲斐があるだろうに。なんでもいいって言うなら俺に選ばせてくれないかなぁ)
この美丈夫には何色が映えるだろうと仮想のアイヴスに衣装を合わせていると、開演を知らせるブザーが堂内に鳴り響いた。
客席のさざめきがみるみる引いていき、茜空から夜へ暮れていくように照明が落とされてゆく。シンと静まりかえった真っ暗な中、アイヴスが徐ろに肘掛けを乗り越えて耳元に唇を寄せてきた。マヒアも何事かと、そちらに重心を傾ける。
「先に断っておく。こういった場に慣れてない。隣で寝てたら、すまん」
耳朶に温かい息がかかるのがこそばゆくてマヒアは声を立てずにフフッと身をよじる。お返しに距離を更に縮めてこしょこしょと隣にある耳を小声でくすぐった。
「大丈夫。多分寝てられないと思う」
薄暗い場内でも顔の動きが窺えるほどの至近距離で微笑んだ瞬間、小波から大波へと広がっていく拍手に急かされて緞帳が天へと上がっていった。
※ ※ ※
終了時刻を迎えると出入口が一斉に騒然とする。大人びたレースのワンピース、ちょっぴり背伸びをした名ブランドの背広、仕事帰りの小綺麗なオフィスカジュアル、カーゴパンツに底の厚いスニーカー、お揃いで並んだ仲良しの可愛らしいスカート達。
その雑踏の中にアイヴスとマヒアもいた。
「どうだった?」
うーんと伸びをして長時間同じ体勢でいた体をほぐしながらマヒアは後ろを歩くアイヴスに振り返って感想を求めた。
「確かに寝てる暇がなかったな」
ゆったりと弧を描く口元が言葉少なに答える。要するに、お気に召したということらしい。自分の気に入ったものが懇意にしている相手に褒められるのは我が事のように嬉しかった。満足いく回答が聞けてマヒアの機嫌も上がる一方である。
夜の街は影絵でできた絵本のようだった。
店内から漏れる光が夜の黒から街の形を浮かび上がらせて目に麗しく映る。マヒアはキラキラした世界に似合う一曲を記憶のジュークボックスから引き出し、脳裏で流した。
灯りに照らされた歩道を普段とは違う身なりで歩いていると、まるで浪漫小説の登場人物にでもなったような気がしてくる。しかも今夜は上等な連れ合いが一緒だ。
素敵な夜の余韻に当てられたせいか、このまますぐに解散してしまうのは惜しく思えてくる。さて、どうやって引き止めようかとマヒアが思案し始めた矢先にアイヴスの方から声がかかった。
「悪い。すぐ済むからここにいてくれ」
マヒアが了承する前に声だけを残してアイヴスは行方を眩ませてしまった。用件も告げず、どこかへと足早に走り去る靴音が路地を打ち鳴らして遠ざかっていく。
唐突な提言に反応が遅れたが、ここにいてくれと言い置いていったのだ。彼がそう言ったのならば、待っていれば必ず戻ってくる。
(帰ったんじゃないならいいや)
胸を撫で下ろして、マヒアは見つけやすいように街灯の下に立った。
軍人気質で良く言えば簡潔明瞭、分かりやすく言うなら一言足らずなのは今に始まったわけではない。マヒアはアイヴスのそれを嫌だとも悪いとも思ったことはなかった。
根が実直で、胸に正しく誠心を宿していると知っている。だから短く発せられる言葉も準ずる行動も彼の中で考えがあってのものだと理解できた。無論、その全てがマイナスに働いたところなど一遍だって見たことがない。だから此度も言われた通りにするだけである。
様々な彩りを放つ夜の街明かりや行き交う人々を眺めながら待っていると、ものの数分で待ち人は現れた。
微かにではあるが息を乱している。きっと、道中懸命に急いでくれたのだろう。
「待たせた」
「大して待ってないよ。どうかした?」
なんとなしに消えた理由を問えば、一瞬躊躇う素振りがあった。
(おっと、訊いちゃマズい案件だったか)
お互い墓まで持っていかなければならない事情が多い職である。ましてやアイヴスはその最たる位置にいる役柄だ。他人に言えない極秘を人一倍抱えているのだろう。
即座に質問を撤回しようとした時、意を決したようにアイヴスが真っ向からマヒアを見据えた。
「誕生日なんだってな。今日」
「へ?」
思い描いていたものとは見当違いな返答がきて、マヒアは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。それを別の意味で受け取ったアイヴスが怪訝そうにしている。
「……違うのか?」
「いや、違わない。合ってる。そう。今日。誕生日。…だけど」
混乱した頭でなんとか釈明しようとするあまり、途切れ途切れの単語がバラバラと口から出た。狼狽ぶりが滑稽だったのか片笑んだアイヴスが茶々を入れてくる。
「誕生日を言い当てられるのが、そんなに驚くことか?」
「アイヴスの口から出てきたから驚いてるんだよ」
からかい混じりの指摘を受けてマヒアが形だけのひと睨みする。
そもそもアイヴスから個人的な関心を持たれているとは思っていなかった。それがマヒアの正直な心境である。
顔を合わせても深く踏み込んだ話をした覚えがない。移動中の車内でも待機している部屋の中でも、その場限りのとりとめのない会話しかしてこなかった。知っていることと言えば愛用の銃器とよく食べる好物と舌に馴染んだ酒の種類くらいなものである。
どんな家族構成で、どんなところで生まれ育って、どんな人生を歩んできたかなんて欠片も知りはしない。
だから、いくらアイヴスから声を掛けてもらえるほど距離が縮まったとしても、やはり最後の一線はきっちり引かれているのかと割り切り半分寂しさ半分に思っていたのに。
「なんで知ってるの?」
マヒアの唇からポロリと純粋な疑問が零れた。余裕のあった顔が途端にバツが悪いものへと移っていく。
「なりゆきで人に聞いた。……まずかったか?」
「ちっとも。ていうか…訊いてくれたらちゃんと教えたよ」
思っていたよりも気に掛けられていたのだと知ってマヒアは喜色を示す。対するアイヴスは決まり悪げに首裏を掻いていた。
「それで、だ。日にちを知っていて偶然とはいえその日に会ったからには祝ってやりたいと思って」
「え?いや、気持ちだけで充分…」
次の句が紡がれる前に目の前に黄色いリボンが現れた。その奥には差し出した後だというのに、まだ渋っている面相がある。
「男から貰うものとしてはどうかとも思ったんだが…」
他にめぼしい物も見当たらなくてな、と何やら言を重ねているアイヴスを余所にマヒアは手品みたいにポッと出現したものから目が離せないでいた。
「ガーベラ?」
アイヴスが差し出してきた右手には大切そうに包装されたオレンジ色のガーベラが一本あった。見ていた限りこんな華やかな手荷物はなかったはずである。
「今日誕生日の奴に贈るとしたら何がいいか、店員に尋ねたら〝これがいいだろう〟って」
「え?いなくなったのってこれを買いに?」
「あぁ、花屋があるのが見えてな」
さも当然とばかりに頷かれて、いよいよ動揺を隠しきれなくなってきた。
(仕事上の付き合いでしかない相手に、誕生日だからってわざわざ走って花を買いに行くもんなの?)
嬉しいか嬉しくないかと問われればここまでしてくれる真心を含めて大変、とても、非常に嬉しい。でも果たしてこれを率直に伝えてもいいのだろうか。下手に喜んで却って引かれたりしないだろうか。
現在の関係性でどういった反応をするのが正しいのか、マヒアが迷っているとアイヴスが微苦笑を浮かべていた。
「勢いで買ってはみたが、思えば腹の足しにもならないものだしな。別の物がいいか?」
何か勘違いをさせてしまったらしい。ハッとして手を下ろそうとするアイヴスの右手をマヒアは慌てて掴まえる。勇んで力強く握ってしまったので花が無事か、それだけが心配だった。
「これがいい」
焦った頭で出した懇願はひどく稚拙であった。我ながら必死すぎるとマヒアは顔の熱を上げる。けれども、また下げられてはかなわないと大きな手から自分に捧げられた一輪を丁寧に確保した。
「ありがとう。すごく嬉しい。誕生日に花を贈られるなんていつぶりだろ」
マヒアは手にした大輪を顔に寄せてスッと匂いを吸う。瑞々しく芳しい香りが体内に入ってきた。同時にひたひたと胸を満ちゆく想いに自然と目元が和らいでいく。
「俺も、誰かの誕生日に花を贈るのは久しぶりだ」
つられてなのかアイヴスも目を細めている。柔らかな眼差しから咄嗟に手を握ってしまったことを不快に思われていないようで、ひとまずホッとした。
それで気が緩んだのか、不意打ちの贈り物にやられたのか、アイヴスの新たな一面に触れたからなのか。マヒアは急に声を上げて笑い出したい衝動に駆られていた。このふつふつと湧き上がる、説明が付けられない欲求をどうにも抑えられそうにない。流石に人目のある道のど真ん中で奇行に走るつもりはないので自身を抱えて押さえようと試みる。だが、抗おうとすればするほど肩の揺れが大きくなっていった。
「随分と楽しそうだな」
「ごめん。いや、なんか、ちょっと、笑っちゃうくらい信じられなくて。だって、行きたかったコンサートのチケットがもらえて、それが誕生日の日付けで、来てみたらアイヴスがいて、演奏会はそりゃもう最高で、その上サプライズにお祝いの花まで贈られるなんて。すごい。ビックリするくらいすごい日だ」
呵々を挟みながら列挙していく事柄はどれもこれも良いこと尽くしである。大量のプレゼントを一気に渡されたみたいな幸福感にバグってしまった身体は持ち主の意思そっちのけで大騒ぎを繰り広げていた。
「そんな日もあっていいだろ」
突然全身を震わせてひいひいと苦しそうにしている同僚に呆れることなくアイヴスが言う。背中を擦る温かい手と共に届いた優しい低音の声もまたマヒアの中で贈り物のひとつに加算された。
ひとしきり笑ってからマヒアは目尻に溜まった涙を拭ってアイヴスに向き直る。ずっと考えていた引き止める口実をやっと思いついたからだ。
「あー…あのさ、この後ってなんか用事ある?」
「特にない」
「本当?実はさ、この辺に評判の良いレストランがあるんだって。一人で行くのもあれだし、良かったら付き合ってくれない?」
「誕生日に同席するのが俺でいいのか?」
「当たり前だろ。そうじゃなきゃ誘ってない。アイヴスがよければ、だけどね」
アイヴスはフッと笑って『行こう』と促すようにマヒアの背中を叩いた。それが答えらしい。マヒアは嬉しそうに拳をグッと握って肩を並べる。
誕生日という無敵の称号を持っている男と穏やかな笑みを湛えて祝福をもたらす男とこの世で一番美しい花が街路をゆく。
煌めかしい夜はまだまだ終わりそうもなかった。
【END】