数ヶ月前引越してきてから行きつけになった近所の喫茶店。マスターがこだわり抜いた豆を使ったオリジナルブレンドは程よく酸味があって好みの味だ。静かで、落ち着いたクラシック音楽と時に常連さんたちの話し声がする店内は居心地が良い。
珈琲をひとくち飲んでほっと一息つくと、カランコロンとレトロな音がした。扉が開いて入ってきたのは黒髪の長身の男性だった。彼は迷うことなく奥の窓際のテーブルへ進み席についた。玲王がこの店に来る時はだいたい彼がいる。マスターと同世代くらいの常連客がほとんどの中、自分と同じくらいの歳に見える彼の姿は自然と目についた。マスターと接している様子を見ると、その砕けたフランクな話し方と親しげな雰囲気から玲王が引っ越してくる前からよく来ているらしかった。
そばを通った時にチラッと横目で彼を見た。鼻筋が通っていて男らしい顔をしている。いつも暑そうな黒いスーツを着ていて普通のサラリーマンではないんだろうな、と思った。
ある休日のことだった。いつものように窓際の席で珈琲を飲んでいると、窓ガラスにポツポツと小さな水滴がまばらについた。次第に降りつける雨粒は大きく強くなっていく。気付けば外は日中とは思えないほどに暗くなっていた。
今日は雨降るって言ってたしなぁ、と思いながらぼんやりと外を眺める。今朝見た天気予報によると、どうやらこの雨は明日まで続くらしい。雨が降り出す前に帰ろうと考えていたのに、タイミングを逃してしまった。玲王は会計を済ますと外に出た。
軒先に男が立っている。雨宿りでもしているのだろう。白いシャツが肌に張り付くほどにぐっしょりと濡れていて、下着のタンクトップが透けて見えている。あぁ、気の毒に。そう思いながらその背中を見ていると、透けて見える肌に薄く黒い模様が浮かび上がっていた。ヤバい系の人だ、と玲王は直感しその背中から目を逸らした。傘を差して何故か少し息を止めて、男の前を通り過ぎようとした。
「あ、」と思わず声が出た。チラリと見えた横顔がよく見かける男のものだったからだ。この喫茶店でよく見かける、一番奥の窓際の席、黒いスーツを身に纏った、あの常連の男。玲王の声に反応してなのか、男も「は?」と言う。完全に目が合った。
いつもと服装が違うし、雨のせいで髪も雰囲気が違うから分かんなかった。というか、刺青、入ってたよな。完全にアッチ系のヤバい人だよな。関わっちゃダメなやつだ。絶対。玲王の心の内に立てたフラグがぽきっと折れた音がした。
動揺する玲王とは裏腹に、今度は男の方が「あ、」と声を漏らした。
「ここによう来とる人でしょ!」
とにかく首を縦に振る。
「あー、やっぱり。ちょっと、ほんますんませんけど、ちょぉーっとそこまで入れてもらえませんか?」
男は玲王の持つ傘を指差して、申し訳なさそうに言った。玲王はとりあえずまた首を縦に振った。
ビニール傘に大の大人の男が二人、肩が触れるか触れないかの距離で住宅街を歩く。「悪いんで俺が持ちますわ」とスマートに玲王の傘を取った男の左肩は、おそらく濡れているのだろう。
「おにーさん、よくあっこおりますよね」
「珈琲が美味しいので」
「あー、珈琲な、美味いよなあ。あのおっさんのん」
マスターには少々失礼かもしれないが、当たり障りのない会話をして進んでいく。少しして、男が立ち止まった。
「おにーさん、ありがとうございました。俺の目的地、もうすぐそこやから、ここで大丈夫です。ほな」
男が持っていた傘をスッと差し出した。思わず腕を掴んだ。
「ん、どうしました?」
「いや、あの、えっと……」
不思議そうに男は様子を伺っている。
「あの、どうせなら目的地まで付き合います」
「あー、えっと、目的地っちゅーのが俺ん家なんですけど……「え、あ、すみません」
もちろん下心があった訳ではない。ただ、同じ場所で、同じ時間を過ごすこの男のことを、何か一つでも知りたいと思った。が、目的地、さらに言えば自宅なんて個人情報も個人情報だ。ましてやこの時代、見知らぬ奴に家を知られるなんて、プライバシーの侵害だ。
やってしまった。その場から立ち去ろうとした。今度は腕を掴まれた。
「あー、じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言って、男はまた玲王の手から傘をスッと取った。
ものの数分で足が止まる。
「到着しました。おかげで濡れずに済みましたわ、助かりました」
さっきからなんとなく、変な気分だった。喫茶店からの帰り道、いつも通るこの道を今日はこの男と並んで歩いている。なんだか不思議だなぁ。この辺は住宅街のためマンションも多い。だから同じ方向に用があってもおかしくない。でもまさか。
まさか同じマンションだなんて。
「あの、俺もここです。帰る場所」
「は?」
「いや〜、まさかあの店の常連さんとおんなじマンションやなんて偶然ですね」
エレベーターに乗り、何階?と聞かれ六階と答える。
「あら、また奇遇やな」
どうやら同じ階らしい。エレベーターを降りると、
「ほな、また」
「また」
と短い挨拶をして、男の少し後ろを歩く。
歩きながらポケットから鍵を取り出す。部屋の前で立ち止まると、一つ奥の部屋の前で男が立ち止まった。
「あのぉ、もしかしてそこ?」
小さく頷く。
「マジで? こないなことある?」
男が腹を抱えてゲラゲラと笑い出す。つられて玲王も吹き出した。男が歩み寄ってくる。
「烏です。烏旅人。よろしゅう」
「御影玲王です」
「あー、えっとまた良かったら……」
そう言って黙り込むと、びっしょりと濡れた左肩に触れる。肌に張り付いたシャツからは、相変わらず刺青が透けて見えていた。
「気にしませんよ、別に」
この言葉が正解なのか分からなかったが、烏と名乗ったその男は玲王の言葉を聞いて歯を見せた。
「また良かったら飲みましょう。お酒はいける口ですか?」
「はい、好きです」
「良かった。ほな、また」
連絡先を交換することもなく、ただ不確実な約束をして、二人はそれぞれの部屋へ入った。
次に二人が会ったのは翌週の日曜日。先週とは打って変わって、とても天気の良い昼下がりである。扉が見える位置に座っていた玲王は、カランコロンと耳心地の良い音がしてパッと顔を上げた。
「「あ」」
男と声が重なる。隣に住んでいると分かったものの生活リズムが違うのか、一週間ぶりの再会だった。軽く手を挙げると男が迷いなく足を進める。
「どーも」
「どうも」
「座ってもええですか?」
そう言いながら男は玲王の向かい側に座る。
「あぁ、どうぞ」
注文している様子はなかったが、マスターの奥さんが玲王と同じオリジナルブレンドを男の前に置いた。
「おーきに」
珈琲には手をつけず、男が話し始める。
「御影さんはおいくつくらいですか?」
「あ、えっと26です」
「お、なんや、俺のいっこ下やん。歳も近いことやし敬語やめよ。肩凝るわ」
肩凝りは関係ないのでは、と思いながら小さく頷く。
「何か読んでたん?」
玲王の手にしていた小さめのタブレットに目線をやる。
「ビジネス書を。烏、さんは」
「烏でええよ」
「烏は、本とかよみます、読む?」
「はは、めっちゃカタコト。全然読まへんなあ……あ
、でも昔なんか探偵と警察がバディ組んで」
探偵と警察のバディもの。よくある設定だ。知ってる本かな。
「謎解いて敵組織に立ち向かっていくんかと思ったら、実は警察の奴が真犯人で、みたいなやつ、なんやったかな」
あ、『弔いの森』かな、いや『暁月の時を胸に刻む』か? でもあれは探偵側が悪者だったっけな。
あ――。
「「透明のあなたはただ笑う」」
また声が揃って驚いた。
「なんで分かったん? 玲王めっちゃ本好きやん」
「いや、一時期ミステリー小説にハマってた時があって」
ナチュラルな玲王呼び。距離詰めるの上手いな。
「タイトルにつられて買ってみたんやけど、警察が犯人って分かってなんか白けてもうて。最後の方は読んでへんわ」
途中から犯人が予測できてしまったものの、白けるほどじゃなかった気がするけど。あの作者、普通に文章上手いのになあ。なんか好みじゃなかったのかな。
「そういえば、あれ映画化されてたと思う」
「そんなに人気なやつやったんや」
「あぁ、結構有名になってた。配信サイトにあった気が」
一緒に観る? そう言うべきか、言わないべきか、言ってもいいのか、言わない方がいいのか。
「へぇ、」
目線が窓の外に移ったのを見て、口にしかけた言葉を静かに飲み込んだ。
「玲王は、ここに来る以外やったら普段何してるん?」
「あ、えっと、家で本読んだり、映画みたり、あとは……ジム行ったり、かな」
「へぇ、ジムとか行ってるんや。ええカラダしとるもんな」
「そうか?」
「おぉ、引き締まってるで。身体動かすの嫌いじゃないんやったらさ、ちょっと付き合わへん?」
「え?」