【Lotus Effect】「イズク、誕生日おめでとう」
そう言ってショートは背後に隠していた右手を前に出し、二輪の花──蓮の花をイズクに差し出した。白と赤みの強いピンク色の花は大きく、たった二輪でも十分な存在感の花束になっている。
七月の半ば。今日はイズクの十五歳の誕生日だ。
その日、イズクは朝からユーエイ村の人々からたくさんの祝いの言葉や贈り物を受けていた。しかしその村人達の中に、ショートの姿だけが無い。前日の夜、夕方になったら村を見下ろせる丘に来てくれと言っていたので、多分そこにいるのだろう。多少一方的な約束だが約束は約束だ。後で必ず顔を出そうと決めて、イズクは腕を引く母に促されて主賓の席に着いた。
そうして祝われる内に時間はあっという間に過ぎ、夕方になった。まだまだ祝いにかこつけて飲み騒ぐ大人達の輪からこっそり抜け出したイズクは、約束通り丘の上へと向かう。思っていた通り、そこには傾き始めた日を背に一人佇むショートの姿があった。
一日中ここにいたのかと聞きながら、傍までやって来たイズクへの第一声が冒頭の祝辞になる。ただ祝うだけにしては随分と大仰な感じがするが、もしかしたら静かな場所でゆっくり祝いたかったのだろうか。
「わ、ありがとう!」
「イズクは十五歳になったんだよな」
「うん。一人前にはまだ程遠いけどね」
ユーエイ村では十五歳は節目の歳だ。一人の大人として扱われるようになり、互いに十五歳以上なら婚姻を結ぶ事も可能になる。イズクは成長の早い羊族なので、十歳を過ぎた頃にはもう大人達に交じって仕事をこなしていたが、それでも昨日まではまだ子供という扱いだった。
(そうだ、僕もう結婚出来るんだよな。まあ誰と結婚するんだよって話だけど……)
正直に言ってしまえば、イズクは同年代の者達と比べていわゆる『男らしさ』のような魅力がない。
一年の半分を雪で閉ざされるこの地で生き残るため、人々は強靭な肉体を欲し、いつしか獣の特徴を持って産まれ落ちるようになった。人々は狩猟に牧畜、そして僅かばかりだが農耕と、出来うる全ての手段を駆使して衣食住を確保する。そのため、狩りに向いた肉食獣を祖先に持つ者はそれだけで尊ばれ、また多くの獲物を持ち帰る優れた狩人は、力ある者として英雄視された。有り体に言ってしまえば出来る男はモテるのだ。
イズクの幼馴染のカツキや、そのカツキと向こうを張れるキリシマの腕前は言うまでもなく。親友のテンヤは狩りを苦手としているが、馬を祖先に持つだけあって足が速く、狩り場や村内の伝令という立場で貢献している。
イズクの前に立つショートもまた、優れた身体能力と他者を思いやる優しさ、そして見目の良さと雪豹族の族長エンデヴァーの息子という位の高さを兼ね備えた逸材だった。次代を担う者と期待されている彼に好意を抱く女は多いし、イズクにはその気持ちが痛いほど分かっていた。
そんな粒揃いの同世代と比べてしまうと、狩りの腕前も見た目も平々凡々なイズクはどうしても見劣りする。罠作りなら胸を張って得意と言える分野だが、戦って勝ち取るべきというユーエイの人々の感性では、戦わずして獲物を捕らえる罠の類はどうにも下に見られがちだった。両親や師匠、親友のショートとテンヤのように肯定的に捉えてくれる者もいなくはないが、それでも少数派に過ぎない。
そんなへなちょこの自分とつがいになってくれる物好きが現れるとは考え難い。成人したばかりの身で何だが、一生独り身の覚悟もしておくべきなのだろう。
「イズク? どうした?」
そんな早過ぎる将来を考えている事に気づいたのか、ショートが心配そうな顔で覗き込むように小首を傾げて来たので、慌てて何でもないと笑って誤魔化した。
「あ、この花さ、一体どこで手に入れたのかなーって気になって。蓮ってもっと南方じゃないと見かけない植物だから」
「あぁ、それか? 去年、村外れの溜め池を浚う仕事があっただろ」
「あー……あったね。途中で飽きたカミナリくんが泥を投げ始めて、頭にぶつけられたかっちゃんが激怒して、そこから泥投げ合戦が勃発したやつ……」
覚えのある話にイズクは頷く。農地用の溜め池の底に溜まった、塵や泥を女子供で掃除していた時の話だ。泥投げ合戦の詳細は今は置いておくが、最後は騒ぎを聞きつけたアイザワが参戦者全員に拳骨を落として終戦と相成っている。
その時のショートは合戦に巻き込まれるまで、少し離れた所で真面目に掃除をしていたはず……とイズクは当時の自分の記憶を掘り起こした。
「そん時に浚った泥の中から種が出て来たんだ。気になってお母さんや姉さんに聞いたら、この時期に咲く花の種だって教えて貰って、それで育てた」
「そうだったんだ。でも良いの? せっかくこんな綺麗に咲いたのに」
「良い。そもそもイズクの誕生日に間に合わせて咲かせた花だから、何も問題ねぇ」
「えっ……⁉ ぅ、あ、ありが、とう……」
上手く綺麗に咲かせるために頑張った。そんな理由も添えてショートは誇らしげに微笑む。
「イズクは蓮の花言葉って知ってるか?」
「花言葉? ううん」
「蓮の花言葉は『純粋』『清らかな心』。あと『信頼』と『雄弁』もだったか? 色によって違いもあるみてぇなんだが、大体そんな感じだ。……全部、イズクの事だと思った」
「えぇ……?」
「おいなんだよその顔」
まさか花言葉に相応しいからなんて理由で贈られたとは思いもしなかった。照れ臭くて恥ずかしくて嬉しくて、どう反応すればいいのか分からなくなったイズクは、思わず天を仰いでしまう。
(どうしよう、角まで真っ赤になってそう)
赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、今度は花の香りを嗅ぐフリをして顔を花の中に伏せる。傍から見れば何とも奇妙な行動をしているが許されたい。こういう気障な事を臆面もなく、嫌味もなく言ってのけ、やってみせるのがショートという男だ。本当にずるいと思う。
(だから、好きになっちゃったんだよな……)
イズクはショートが好きだった。その好きのカタチは親愛ではなく、ましてや友愛でもなく、恋慕の感情を抱いている。想いを自覚したのはわりと最近の事で、きっかけは思い出だせないくらい本当に些細な事だったが、一度意識してしまってからその感情は日に日に大きく膨らむ一方だった。
「……でも、やっぱりこういうのは駄目だ」
「イズク?」
「駄目だよショートくん、花束を手渡すってどんな意味なのか分かってないでしょ。僕だから大丈夫だけど、村の女の子に同じ事をしたら大変なことになるよ?」
努めて明るく、ショートが重たく捉えないよう苦笑しながら諭す。しかしショートは「ああ」と軽く頷いて答えた。
「知ってるぞ? 花束を手渡す意味、求婚の証だ」
「ンッ⁉」
ユーエイでは意中の相手に花束を渡すのは求婚の証だ。渡された相手は花束をどう返すかで返答する。求婚を受け入れるなら花を全て受け取り、拒否するなら全てを返す。短い夏の短い期間にしか花が咲かないこの土地で花束を用意する事は、それだけ想いが本気である証明になるのだ。
「分かってねぇのは、俺じゃなくてイズクの方だったみてぇだな?」
予想していなかった返答に思わず全身に力が篭ってしまい、蓮の茎をぎゅっと握ってしまう。ガチガチに固まってしまったイズクの右手へ、ショートは己の両手を包み込むように重ねると、真っ直ぐな眼差しを向けてついに言い放った。
「イズク、俺と結婚してくれ。俺のつがいになって欲しい」
「うぁ……ぇっ⁉」
結婚、つがい。今さっき自分には一生縁がないかもしれないと考えていた言葉を、今まさに想い人から告げられて、イズクは驚きと混乱で言葉にならない声を発してしまう。今度は顔どころか、角の先から尻尾の先、足の先まで全身真っ赤になっているだろう。
その様子をじっと見つめてショートは返事を待つが、口をパクパクさせて狼狽える事しか出来ずにいるイズクに、少し性急過ぎたかと眉尻を下げた。
「まだ俺は十五歳の誕生日迎えてねぇけど、俺は本気だ。本気でイズクの事、俺のつがいにしてぇって思ってる」
「な……何を、言っているんだよ……! 駄目だよ、だって君は、雪豹族を継がないといけないだろ」
まだ成人を迎えていないとはいえ、村内ではショートが次期族長になる事は確実だ。そんな彼が許しもなく自分の意思だけでつがいを選ぶ事を、それもイズクのような後ろ盾もない男との婚姻を、果たして周りが許すだろうか。そう考えている事を告げれば、ショートは不思議そうに首を傾げた。
「男だと何か不味いのか?」
「不味さしかないよ! 一応、僕らは男でも子どもを産む事が出来る身体ではあるけど、それも運が良ければ一人産めるかどうかって話だし……雪豹族を継ぐショートくんは、ちゃんとお世継ぎを作れる同族の女性とつがうべきだよ」
全ての命に等しく厳しいこの土地では種の存続、血の繋がりというものを非常に重要視していた。しかしこの極寒の土地では命を繋ぐだけでも精一杯で、何より危険が伴う。かつて祖先の人々が獣の特徴を発現した時、同時に男でも身籠れる身体になったのはそのためだ。より多くの者が子を産めるようになる事で種が生き残る確率を少しでも上げる、一種の生存戦略なのだろう。
けれどあくまでそれは運良く授かり産めた場合の話であって、やはり元々身体の構造が違う事を考えれば男が無事に出産出来る可能性は低い。ならばこそ、次期族長という立場にあるショートはその血統を絶やさない為にも、女性と結婚して子を成すべきだ。
そう説得するイズクの言葉を黙って聞いていたショートだったが、やがて深い溜息と共に苦笑を浮かべた。
「……それは俺に、雪豹族のために相手の意思もお構いなしで婚姻する親父みたいな奴になれって事か?」
「――ッ! ち、違っ! 僕、そんなつもりじゃなくて!」
「大丈夫だ分かってる。イズクはそんな意地の悪い事を言うような奴じゃねぇ。……悪ぃ、俺も意地が悪過ぎた」
ふぅと一呼吸置いて、ショートはイズクの右手から両手を離す。離れていった温もりを追いかけてしまいそうになってぐっと堪えていると、その両の掌は今度はイズクの頬に触れていた。優しく包み込むように触れられて、心の奥底に泣きたくなるほどあたたかな感情が広がる。
「親父は……確かに、族長としてはすげぇ敏腕のかもしれねぇ。けど村の事ばかりで家族を放ったらかしにして、お母さんやトーヤ兄達を顧みなかったのも事実だ。族長になる事が家族を蔑ろにする事と同意義なら、俺は族長なんかになりたくねぇって……あの日から、ずっとそう思ってた」
あの日というのはいつかショートに聞いた、彼の顔と、彼の母レイの心のそれぞれに消えない傷が生まれてしまった日の事だろう。イズクにとっては想像するしかない出来事だが、ショートにとってみれば思い出したくもない忌まわしい記憶の筈だ。それを今、あえて口に出して語る。そこに強い意志が込められていると感じて、イズクは静かに続きを促す。
「それから少し経って、俺は十二歳の誕生日を迎えた。その日はクソ親父に後継ぎだの結婚相手をどうするだのグダグダ長話をされて、せっかく姉さんが用意してくれたごちそうの美味さも激減だった」
雪豹族の後継ぎは本来なら長男のトーヤが後を継ぐ話だった。けれどトーヤは患った病の後遺症で身体が弱ってしまい、次男のナツオはエンデヴァーと反りが合わず家を出てから絶縁状態に近かったため、ショートにお鉢が回って来たのだった。
突然降って湧いた話に納得がいかなかったのはショートだけではない。後継ぎの話を無かった事にされたトーヤや彼を応援する者達は黙ってはいられず、ただでさえ不安定だった一家のバランスはそこで完全に崩れてしまった。レイも、トーヤが重い病気にかかった原因を押し付けられた事が原因で同時期に心を病み、ショートは心の拠り所だった母親から引き離された。
「俺は後継ぎになる気は欠片もねぇって返した。そうしたらクソ親父が人を呼んで、何かと思ったら今度は同族の女達が何人も家に入って来て……すげぇビビった」
「もしかして、結婚相手の候補の人達を?」
「ああ。この中から好きなのを選べって言われた」
その時の俺はまだ十二歳だったんだぞ、信じられねぇだろと憤慨するショートに思わず同情してしまう。婚前交渉はあまり快く思われていないというのに、よりによってそれを成人前の子供に強いるとは。例えエンデヴァーの側にのっぴきならない事情があったとしても、決して褒められた行為ではない。
「俺の意思も、女達の意思も無視して勝手に話を進めやがって。そう考えたらめちゃくちゃに腹が立って、気付いたら家を……というか、村を飛び出してた」
家族の不仲の原因が自分にあるのなら、いっそ自分が居なくなってしまえば良いと当時のショートは考えたのだろう。浅慮な行動にも思えるが、当時のショートは十二歳の少年なのだからそれも仕方がない。むしろイズクは、自分や兄の意思を無視して決められそうになった事に反発し、行動を起こしたショートを素直に凄いと思った。
「あ……もしかしてその話『ショートくん失踪事件』?」
「それだ。村から遠く離れた場所に一人で行っちまって、帰り道も分からなくなってた俺をイズクが見つけてくれたんだよな」
がむしゃらに走った後、ふと正気に戻って帰り道を探しさ迷ったショートの移動ルートはめちゃくちゃだった。その足跡は山を越えて谷を跳び、かと思えば覚束ない小さな歩幅でふらふら尾根を移動し、疲れからか足を滑らせて坂を転げ落ちる。後を辿るのも至難の業だったものを短時間で追いつけたのは、偏にイズクの尽力が大きい。
狩りは獲物の足跡やマーキングを見つけ、そこから獲物が今どこで何をしているか推測する推理と想像力も必要になる。イズクはその能力に秀でていて、先を読む力は村随一の技量を有していたのだ。
「懐かしいね。あの頃はまだショートくんの背が僕の肩くらいまでしかなくて、小っちゃくて可愛かったよね。同い年のはずだけど弟みたいだなって思ってて」
「……肉食獣が祖先の種族は成人前の成長が少し遅ぇんだよ」
懐かしい思い出話にイズクがふふっと声を出して笑う。告白からずっと張っていた緊張が少し解けて、いつもの花開くような柔らかい笑みが戻って来た事にショートは内心ほっとした。
しかし、体が子供だと精神年齢も引っ張られるものなのだろうか。大人に混じって捜索隊に加わっていたイズクに比べるとかなりガキだったなと、ショートは当時の軽率な行動を恥じた。その反動かは知らないが、ショートはこの三年ほどで一気に成長した。ぐんぐん伸びて逞しくなった体は、今やイズクのつむじを見下ろせるまでになっている。
「あはは、そうだったね。で、その時のショートくん、見つけたは良いけど『帰りたくない!』って怒っちゃって」
「駄々こねる俺に、粘り強く説得を続けてくれたのもイズクだった」
「そう……だったっけ? ごめん、ちゃんとは憶えてなくて」
「謝んなくていい。俺も所々憶えてねぇ所はある」
族長を継ぐという事は、いずれ自分も父のように非情な大人になってしまうのか。そうはなりたくない、そうなるくらいなら帰らないとわあわあ泣きじゃくり、イズクの差し出す手を拒み続けた。ショートの感情が昂った事で再び雪豹の力が現れ、むちゃくちゃに振り回した爪は今もイズクの右手に深い傷跡を残している。
傷つけられて右手を血だらけにしたイズクと、傷つけて血だらけになった自分の両手を見てショートはパニックに陥った。親から受け継がれて来た祖先の獣の力で他人を傷つけてしまい、こんな事になるなら生まれなければ良かったんだと泣き叫ぶショートをイズクは力強く、けれど優し過ぎる腕で抱きしめた。
「そん時にイズクが俺を押さえながら言ってくれたんだ。『君の力じゃないか』って」
「僕、そんな事言ったの?」
「言ってくれた。俺の中に流れる親父の血を忌み嫌うんじゃなく、自分の力にしていくんだ……って」
イズクは本当に覚えていないようだが、あの時の言葉がなければショートは今でも自分を責め、流れる血を呪い、父を憎み続けていただろう。呪縛に囚われたまま、きっと駄々をこねる子供から何も変わらないでいたに違いない。
イズクに抱きかかえられたま帰って来た村で待っていたのは、父からの叱責としばらくの自室謹慎だった。しかし不思議と、ショートの心は以前のようにささくれ立たなくなっていた。何か温かいものを心に貰ったような気がして、その温かさを辿った先にはイズクの存在があった。
「その時からイズクの事が忘れられなくなった。謹慎させられてる間もずっと、イズクの言葉と顔が頭から離れなくて。もう一回イズクに会いてぇ、話がしてぇって考えるだけで心臓がすげぇ熱くなって……きっとそれが、俺の初恋だったんだ」
「ちょっ……い、いきなりだね⁉」
辛い過去を聞いていたと思ったら急に初恋の話になっていて、イズクは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。先ほどどうしようもなく好きと言われ求められたはずなのだが、改まってその理由を聞かされるのは別種の緊張感と恥ずかしさがこみ上げてくる。
「族長を継げば、俺には雪豹族の事を第一に考える責任が生まれる。けどな、俺にはイズクも同じくらい大切なものなんだ」
どちらも取りたい事は事実で、けれどどちらかだけを取るような事は出来ない。そう言い切るショートのふたつの瞳はとても強く美しい輝きを宿していて、地平に沈み始めた赤い光を受けて宝石のように煌めいていた。イズクは吸い込まれるようにその二色を見返す。
「俺はイズクが好きだ。イズク以外の奴とつがいになるなんて考えられねぇし、しようとも思わねぇ」
「ショートくん……」
「これは俺の我儘だ。けど、だからイズクに、俺の我儘に付き合って欲しい。親父やトーヤ兄とは話をつけるし、その結果として俺が雪豹族を継ぐ事になったとしても、絶対にイズクを幸せにする。後悔なんて一度もさせねぇって約束する。必ず」
真っ直ぐな眼差しはイズクの心まで射抜き、力強い言葉はまるで魔法のように深く深くへと染み渡っていく。もうとっくに自分は彼に心を奪われていて、けれど想いが通じるなんて無いと考えていたのに、まさかこうして求婚されるだなんて夢にも思わなかった。
ショートに求められている。その歓びのあまり、服の下で羊の短い尻尾がぴんと張り詰めて震えていた。はしたないと思いつつも、イズクはその震えを止める事が出来ない。
イズクは一度ぎゅっと目を瞑ると、意を決して、改めてショートと視線を合わせる。
「……さっき、色でも花言葉違うって言ったよね。この花束だと花言葉ってどっちの色が何?」
「花言葉か? 確か白が『純粋』、ピンクが『信頼』だ」
「そっか。じゃあ……こっち」
そう言ってイズクがショートに返したのはピンク色の蓮だ。意中の相手に花束を渡すのは求婚の証。求婚を受け入れるなら花を全て受け取り、拒否するなら全てを返す。そして花束の半分を返す意味は『求婚を受け入れるが、今はまだ条件を満たしていないからそれまで待つ』という意思表示になる。それをイズクは『信頼』の言葉を持つ花を返して示した。
「ッ⁉ イズク、これ、本当に……⁉」
「あのね! じゅ、十五歳になると自分の天幕が貰えるよね⁉」
「お、おう」
大人になった区切りの一つとして家を出るのもこの村の慣習だ。男は十五歳の祝いに新しい天幕を用意されて、次の日にはそちらへ引っ越して一人暮らしを始める。一人暮らしというのは何かと大変であるから、女は結婚まで家を離れなくても良い事になっている。実際、ショートの姉フユミは心を病んだ母の代わりを務めるため家に残ったし、トーヤのように病で家を出られなかった、なんて例外もある。
そして住人がつがいとなる相手を見つけ迎えれば、天幕はそのまま夫婦の棲家になるわけだ。
「つがいを迎えるまでは出入りって誰でもそこそこ自由に許されているけどさ。相手を決めた人、決まった人の天幕って基本誰も立ち入らなくなるだろ。その、婚前交渉は良くないって建前ではあるけど、想いが通じ合った人達が結婚まで全く二人きりになれないってのも不自然だし」
「そう、だな?」
「……ああ、もうっ!」
「うおっ」
イズクの言いたい事がいまいちピンと来ず首を傾げる。そんなショートにしびれを切らしたのか、イズクは身体ごとぶつかるようにショートへと抱き着いた。うろたえるショートをよそに、イズクは更に言葉を続けていく。
「ぼ、僕、お母さんとお父さんと……師匠は仕方ないとして、それ以外の人は誰も僕の天幕に入れさせないようにするから!」
「お、前……それって」
半分返された花束と慣習とイズクの言葉を照らし合わせるなら、彼の言いたい事はあまりにあけすけだ。上着の裾から伸びる己の尻尾がぶわりと膨らんで、筋が一本通ったように真っ直ぐ伸び切ったのが分かった。
「一月は冬の真っ只中だから、きっととても寒いよね……だからショートくん」
頬を赤らめたイズクの顔が下から見上げて来て、ショートは思わず生唾を飲み込む。どっ、どっ、と。心臓の音とはこんなに大きかっただろうかと思うほど心拍が耳元で喚いている。無意識に半歩下がると、イズクは逆にぐっと身を乗り出して距離を詰めた。その瞳には先ほどまでの照れは無く。
祖先の雪豹を初めとしたネコ科は親しい者と鼻を近付けて挨拶をするが、これはそんな穏やかなものじゃないと本能が伝えて来る。
イズクはショートの両肩に手を置いて背伸びをして顔を寄せると、互いの吐息が唇に触れる程の距離で小さく囁いた。
――僕が寒くて人恋しくなる前に、僕の所に来てね?
夕日が沈みきる寸前、二つの影が一つに重なる。辺りが完全に夜の闇に覆われた丘の上で、赤い夕焼けより顔を赤くさせた二人が次の約束を交わしていた。
【蓮の花言葉】
白:『純粋』
ピンク:『信頼』
蓮全体:『清らかな心』『神聖』『休養』『雄弁』『沈着』『救ってください』
『離れゆく愛』なんて花言葉もあるけどこの話では採用していません、あしからず。