優しい夜の編み方「バロックさん、来てくれたんですね!」
店の扉を開け開口一番に聞こえてきたのは短髪のあどけなさの残る青年の声だった。
青年……成歩堂龍ノ介はやってきた私を嬉嬉として奥の個室に誘導すると荷物を入れるカゴを取り戻し、私が荷物を入れ終わるのを見つめていた。
徐々に落とされる照明の中、私は寝台に横になると瞼を閉じる。
「今日もぐっすり眠れるようにサポートしますね」
そう言って耳に入って来たのは龍ノ介の柔らかく吐息混じりの声だった。
……何故、私がこの店を訪れるようになったのか。それは1ヶ月前に遡る。
night1
「バンジークスさん、お久しぶりですね。」
そう言って私は目の前の席に促されると担当心理士と挨拶を交わした。
診察終了後、いつものカウンセリングを受ける事となっていた私は予約表を机の上に置くと会話の続きを待つ。
心理士は恐らく会話の内容を記載するためのファイルを開くと片手に万年筆を持ち、質問を始めた。
「さて、今回でカウンセリングも10回を越えますが悪夢の方はどうでしょうか?」
「まだ見続けている。本日の診察でも軽度のうつ症状が現れているとの事で精神薬の投与を勧められたが一旦考えさせて欲しいことを伝えた所だった。不眠時の薬も欠かさず毎日服用はしているがせいぜい良くて3時間が限度だ。」
「そうでしたか。やはり夜間は眠れていない事の方が圧倒的に多いのですね。……悪夢の方はどうですか?内容が変わったり、具体的に頻度に変化はありましたか?」
「内容……いや、最初のカウンセリングでの聴き取りの通り内容は同じだ。暗闇の中、何処かの屋敷を彷徨うところから始まり、ある部屋に入った途端動物の荒い呼吸音と、床に散らばる血液、そして大きな犬の様な何かが人の死体を食い荒らしている場面を何度も繰り返す……それ以上でも、それ以下でもない。私はそこから逃げようとするがその獣がこちらを向いた瞬間動けなくなり、そこで目を覚ます。最近は金縛りのように身体が強ばっている事もあり理由もなく筋肉痛のおまけまで着いてきている始末だ。」
皮肉も交えそこまで語るとカウンセラーはメモを綴りながら、やがて手を止め口を開いた。
「可能性のひとつ、なのですが。何度も反芻する悪夢というものはつまり、それ程印象に残っているという事なのだと思われます。例えば幼い頃にピエロに対する恐怖を抱いた経験がある人が遊園地等でそれらに近しい対象を見て、頭では違うと分かっているのに脳が勝手に事象を紐付け、恐怖のトリガーを引いてしまう。人間の脳は良くも悪くも優秀なので関連性を見出してしまうと想像を膨らませ、そして危険を回避する為に体に様々な信号を発します。それが悪夢であったり、発作であったりするわけですが……。ここで重要なのはトラウマとはつまり、経験によって裏付けされるものだということです。」
カウンセラーはふと目線を下に向けると、ゆっくりと口を開いた。
「バロックさんはそれに近しい何かを、目撃あるいは知っているのでは?」
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いつも同じ悪夢を見る。
暗い屋敷の中、血の匂いなどそう何度も意識して嗅いだことは無いというのに直ぐに理解する。
鉄臭い錆の臭いと、暗闇の中に響く獣の唸り声。
誰かが無惨に食い殺され、その中身が暴かれている、音。
最悪な事態が起こっていることなど容易に想像出来るというのに、夢とは難解なもので大概意思というものは尊重されず、真反対の方向へと夢の主を誘う。
長い廊下の先、現代には似つかわしくない仰々しい両開きの装飾された扉が目の前に現れ、この先の状況を向こう側から聞こえるくぐもった粘着質な音が告げてくる。
その取っ手を恐る恐る握り、ガチャリと軋むような音を滲ませるとゆっくりと部屋の惨状が網膜に焼き付く。
おびただしい程のどす黒い血痕。
すえた様な、だけど何処か甘ったるい吐き気を催すナマモノの臭い。
まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が苦しくなって鼓動がやけに遠くに感じる。
醒めろ醒めろ醒めろ
私は、何も知らない。
知る筈が、ないのだ。
夢の中だというのに滑稽にも目をぎゅっと瞑り、意識の中の自分を掻き集める。
視界がシャットダウンされた事により、唯一の感覚器官となった聴覚が獣の荒い息と、ひとひたと近付いてくる足音を捉え、逃げる事を許さない。
次はお前だ、とでもいうようにゆっくり、ゆっくりとソレは近づき……………………
「……………………!ッはぁっ、……ッ」
バロック・バンジークスは自身の酸素を目一杯吸い込む音で目を覚ました。
季節は春。まだ薄暗いカーテン越しのぼんやりとした明かりを見て途端に手で目を覆った。
いい所、5時か6時か……。
4時間なら、いい方だ。
大体自分の睡眠間隔を把握出来るようになっていた私はもう一度深く酸素を取り込むと重い頭を引きずり枕から頭を上げた。
そのままリビングへと向かうと見る気もないテレビをラジオ代わりに着け、コーヒーをカップに注ぎ込むと無気力にソファへと腰掛ける。
……私ことバロック・バンジークスは不眠症に悩まされていた。
いつから、と問われれば最早期間を遡ることさえ億劫になってしまうほど前。
恐らく3年以上は経っているだろう。
ある日を境に悪夢を見るようになり、それは人間の3大欲求とされる睡眠を見るも無残に掠め取り、いつの間にか平均睡眠時間は3時間。眉間には深く皺が刻まれ、目の下には恒常的にクマが居座るようになってしまったのだ。
睡眠が削られた事で尚のこと仕事に集中せねばと身体は強張り、それに伴って不機嫌な様に見える顔面は助長され顔は良いけど怖い、と会社の社員にも専らの噂だった。
だが黙って悪夢を受け入れる寛大さを生憎持ち合わせていなかった私は、肉体的疲労を知覚させ強制的に睡眠に入らざるを得ない状況を作れば良いのでは?とジムに通い身体を徹底的に鍛えたが出来上がったのは無駄に筋肉がついた健康そのものな肉体の上に不健康そうな顔面が乗っかった酷くアンバランスな男だった。
ただでさえ目立つ長身に加えガタイまで良くなってしまったものだからこの間などハリウッド俳優ですか?などと若い女性に声を掛けられる始末だった。
つまり、何が言いたいのかというと。
民間療法では私の睡眠状態は全くといっていい程改善しなかったということである。
これには流石に頭を抱えてしまった私は最終手段として現代医療に頼ることにした。
近くのメンタルクリニックを予約し、ついでに悪夢の原因を探るべくカウンセリングも導入したが良質な睡眠というものには行き着かず、薬で何とか強制的に意識を落とす、という不健全極まりない生活を送っていた。
朗らかに朝の挨拶を告げるニュースキャスターを理不尽にも睨みつけながら味のしない高い値段を払って購入したはずのコーヒーを啜りながら、ふとスマホに目を落とす。
予定表アプリには正直このテンションでは会いたくない人物の名が間違いようもなく打ち込まれており、それにもため息を漏らしてしまう。
兎角、本日は折角の休日、ではあるが優れない体調と気分のまま私は適当に服に袖を通すと待ち合わせの場所へと向かうのであった。
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「やぁやぁ死神クン!相変わらず不健康そうで何よりだよ。今日は何人仕留めてきたんだい?」
「……減らず口を叩くなホームズ。要件だけを簡潔に述べよ」
待ち合わせ場所に着くなり持ち前の能天気さと不躾さをいかんなく発揮するこの男はシャーロック・ホームズ。この現代において探偵業というものを大真面目に生業としている変人だ。
ホームズは「相変わらず手厳しいなぁ」と全く気にも留めて居ないだろう間延びした声で返答すると両手を組み、それを顎の下に敷いた。
この者も黙ってさえすれば見栄えするというのに何とも勿体ないと頭の隅で考えながら足を組むと相手の話をとりあえず傾聴する事にした。
「最近貿易関係に勤めているとあるレディが行方をくらませていてね。キミの勤めている会社の社員の家に匿われているのではないかと噂が立っているのだよ」
「……ほう?それで」
「キミにはそれが誰かを特定してもらいたい」
唐突に語られる女性の失踪と突飛の無さに呆れから溜め息が漏れてしまった。
貴重な休日に呼び出されたかと思えば男女問題から失踪……いや恐らくは自分の意思で飛び出したのだろう。そんな人物が自社の誰の家に逃げ込んだかなど到底興味も湧かないしそもそも証拠も無いのに探せと問われても無理な話だ。
あからさまに不機嫌さを纏った私に気が付いたのかホームズは取り繕う事もせずカップの縁をつい……となぞると無駄に形のいい唇で笑みを形作ると続ける。
「なに、実は目星は何人か付いている。この5人のうち誰かの家に彼女は居るだろう。ただの家出ならばここまで躍起になる事も無かったんだがどうやら彼女。かなりの資産を有するお金持ちと婚約する予定があったみたいでね。先方から2ヶ月以内にどんな手を使っても見つけ出して欲しい、と依頼されているのだよ。」
「……そこまで検討がついているのなら、張り込みでもしていれば尻尾が掴めるのでは?」
「それが彼女、いや彼も、か。かなりのキレ者でね。核心を見せてくれないのだよ。だからこの天才に依頼が舞い込んできた、というわけだ。ちなみに5人まで絞ったのも僕だね。それまでは対象すら定かではなかった」
「彼女も成人しておりある程度のことは自分で決定できる立場にある筈だ。わざわざ捜し出し、突き出す必要性は感じないのだが?どうなろうと彼女自身の責任だろう?私の関与する所ではないな」
「まぁまぁ、そう硬いことを言わず。依頼人も別に婚約を強制するつもりは無いらしい。ただ、自ら断りを入れるのが最低限のマナーだろうと。それをせず、都合よく逃避する事が許せない、というだけらしいよ。それには僕も賛成だね」
悠々と依頼の話を進めるホームズの余裕綽々な表情に若干の苛立ちを覚えつつ、それでもだ、と期待を押し下げる様に続ける。
「私が依頼を受ける義理は毛頭ないな。そもそも、私がその女性との関係性について聞いて回るというのも不自然だろう。よって却下だ」
「いいや、別に聞き回らなくていいよ。寧ろ何もしなくていい。キミは普通の生活を送って貰って構わない」
流石に予想外の返答に思わず言葉を詰まらせる。今までの文脈から察するに調査に協力しろ、というものだと思っていたが何もしなくて良いとは一体どういう了見だ。
私の僅かな動揺を察知してか探偵はこれまたニコリと微笑をたたえるとある1枚のカードを差し出してきた。
そこには安眠サポート専門店、『羊と懐中時計』という聞いたことも無い店の名前が書かれていた。
「キミ、最近殆ど眠れていないだろう。今回の報酬はコレで宜しく頼むよ」
「おい、まだ依頼を受けると言っていない。そもそも却下した筈だが」
「別に能動的にキミに動いてもらう必要は無い。情報が転がり込んだ時に教えてくれればそれでいいよ。なので依頼を受ける受けない、では無く分かったら教える、という事だから別にキミの同意は得られなくてもいいんだ。強いて言うならこの話を聞いてもらう、というのが依頼だったのかもしれないね」
訳の分からないことを宣うこの奇人に頭痛を覚えつつ、差し出されたカードを睨みつける。安眠サポート専門点………どうやら風俗等の店ではなさそう、だが。
怪しげな目線を隠す事もせずカードを手にすると「あ、それちゃんとリラクゼーションなんたらの資格を有する人達が経営しているれっきとしたお店だから周囲の目とか気にしなくても大丈夫だよ。ほら、キミ薬とか飲んでいるけれど改善していないのだろう?なら1度試してみるのもいいんじゃないかと思ってね」と見透かしたかのように追加説明を入れるホームズに辟易としてしまう。
観察眼の優れたこの男にはなんでもお見通し、という訳だ。
私は苦々しくも睡眠に関してはほとほと困り果てていた為財布にカードを渋々入れるとうんうんと頷き、彼はコーヒーをあおった。
「……これで話は仕舞いか?」
「そうだね。どうも。御付き合い頂き光栄だったよ」
「では、私はこれで失礼するぞ」
そう言って無愛想極まりないが残念ながら今他者に対して優しさが振りまけるほどの余裕がない私はドリンクを半分残し席を立った。
どうもこの男と話していると調子が狂わされている様で心地が悪い。
そのままジャケットを羽織り伝票を持って去ろうとした瞬間、
「キミに限っては忠告するまでも無い事だけれど。」
背中に穏やかだか何処か芯の通った声が刺さる。
「人が最も無防備になるのは眠る時だそうだ。ウッカリ口を滑らせないよう気をつけ給えよ」
何に対する忠告かも分からず眉間に皺が寄る、がここで振り返ってはいけないとそのまま歩を進め、私は店を出た。
空にはいつの間にかどんよりとした雲が覆い、もうじき雨が降り出すだろう。
私はタクシーを捕まえるとそのまま駅に向かい、運賃を支払った際に目に入った例のカードを手に取った。
安眠サポート…………。
今まで様々な事を試してきた。
ストイックさには自負があった私だが流石に眠れない日々が続くのはこたえる。
最初は慣れていくかと思っていたが、やはり3大欲求のうちの睡眠が欠けているのは身体的にも辛い現状があった。
あの探偵の口車に乗るのは解せないが、確かに試してみる、というのも一つかもしれない。
出来ることは尽くす。それで少しでも効果があれば万々歳だ。
私はカードリーダーにカードを通すとそのまま自室へと転がり込んだ。
気圧も影響してか、それともいまいち意図が掴めない気持ちの悪ささえ感じる話をされたせいか。痛み始めた頭をどうにかマシにする為コップに水を注ぎ鎮痛薬を飲み込むとそのままソファにもたれこんだ。
確か来週の日曜は完全オフだったはずだ。
予約は必要なのだろうか?
横目で羊のキャラクターが描かれたカードの裏側を見ると初日は簡単なカウンセリングを行い、それから施術に入るとの事で一応連絡は入れた方が良さそうである事が伺える。
私はスマホに番号を打ち込むと、簡単に氏名と予約は取れそうか質問し、無事問題ない事を確認するとその日はそのまま残ったプロジェクトの資料の推敲を行い一応ベッドに潜り込んだ。
冷たいシーツの上、居心地悪く寝返りを打っているといつの間にか空は白み、倦怠感を引き摺りながら身体を起こす。
期待はしていなかった。が、もし眠れるならば。
私は味のしないコーヒーを啜り、出勤の支度を整えると机に置かれたカードを一瞬視界に入れると、そのまま家を後にした。
night2
あれから1週間後の日曜日。
私は怪しげな探偵に紹介された安眠サポート専門点なる店の前に立っていた。
果たして、ビル群から少しだけ離れたテナントの中にその店は存在した。
落ち着いた木を基調としたモダンな店は柔らかいオレンジの照明に照らされており、一歩足を踏み入れるとハーブだろうか?頭の痛くなるようなキツいものではなく、ごくごくふんわりと漂う程度の優しい良い香りが鼻をくすぐる。
店に入ると直ぐに店員がやって来て「ご予約の方でしょうか?お名前をお聞きしてもよろしいですか?」と礼儀正しく対応してくれた。
「バロック・バンジークスだ。先週の日曜日に予約した」
「バロック様……あぁ!はい!かしこまりました。えぇっと……」
日本人の女性は外国人の私を見て少し戸惑ったように視線をさ迷わせると少しの間思考する様に目を伏せた。
恐らく言語が通じるか不安なのだろう。
それなりに日本にはいる為心配には及ばないが確かに細かい部分では母国語の方が確実ではある事と、恐らく何かしらのルールがあるのだろうと察し安易に大丈夫、とも言えず対応を見守っていると「少々お待ち下さい」と女性はカウンターの奥へと引っ込んで行った。
そうして暫くした後に出てきたのは短髪の青年だった。
青年は一瞬だけ私を見てギョッとした顔をするとすぐに笑顔を浮かべ口を開いた。
「大変お待たせいたしました。今回サポートにつかせて頂きます。成歩堂龍ノ介といいます。よろしくお願いします」
驚いた。
彼の口から出てきた言語。
それは紛れもなく英語だった。
しかもかなり発音も良く、問題なく聞き取れるレベルの英語だ。かなり聞きやすい。
私はほんの少しだけ関心しつつ、こちらこそ、と頭を下げると一つの個室に案内される。
薄暗い照明の中、荷物を籠にしまうよう促され椅子に腰掛ける。
彼は説明用のフリップを手に取ると日本語で書かれた内容を英訳しつつ話を進めた。
「まず、施術を始める前に説明しますね。えっ、と……あのぼくの英語、大丈夫ですか?聞き取れます?」
おずおずと確認してくる彼に「全く問題ない」と返すと安堵の笑みを浮かべた彼は説明を続けた。
「このお店に関してですが、事前に調べていただいた通り眠れない方々のサポートをする事が目的となっています。施術内容に関しては耳かきやマッサージ、洗髪、本の読み聞かせ、添い寝等々が有りまして、そちらに関しては後ほどプランと共に提示させて頂ければと思います。
そして、ここからが重要な点なのですが、施術中サポーターに手を触れないようお願いします。添い寝のオプションもありますがこのお店はあくまで眠れない方に安眠を提供するためのお店です。性的接触が目的のお店ではありませんのでご理解頂ければなと思います。なお、店内は個室にも監視カメラが設置されておりますのでご承知おきください。」
「分かった」
「ありがとうございます。……では施術を始める前に……バンジークスさんの睡眠状況と本当にごく簡単なカウンセリングをさせて欲しいのですけれど、良いですか?」
「ああ」
そう言って彼は懐からペンと机の上に乗っていたカウンセリングペーパーを挟んだバインダーを取ると質問を始めた。
「眠れなくなったのはいつ頃ですか?」
「大体3年前だ」
「眠れなくなった原因は思い当たります?」
「……原因は、分からない。ただ3年前唐突に悪夢を見始めた事で眠りが浅くなってしまった」
「悪夢、ですか?……あの、話したくなければ無理に話さなくてもいいんですが……聞いても?」
「大丈夫だ。……改めて内容を語るのも少し気恥しいのだが。暗闇の中で誰かが獣に食い殺される夢を、繰り返し見ている。部屋に血溜まりが出来ていて、その獣がこちらを見て、近付いてくるところでいつも目が覚めるのだ」
「……獣……ずっと同じ夢を?」
「そうだな……内容が変わったことはない。それ故に奇妙な思いを抱いている。同じ夢を繰り返すなど、滅多にない事だと自分でも理解しているからな」
「分かりました。眠れないことに関して何か今まで取り組んで来たことはありましたか?」
「試せることは一通り。1年ほど前から精神病院にも通っている。夢の内容に関しても理解する為にカウンセリングも導入していた。」
「……だけど効果はなかった……」
「その通り」
「わかりました。最後にこのお店を知ったのは何がきっかけでしたか?」
その質問に沈黙が落ちる。
本来であれば自ら調べて来る者が殆どだろうが私の脳裏に浮かぶのは悠然と微笑むあの憎き探偵の姿だ。
今まで順調に質問に答えていた私が急に押し黙ったからか目の前の青年……ナルホドーは少し戸惑ったのちに「答えたくないなら無理して答えなくて大丈夫ですよ」と付け加えてくれる。
「……いや、知人から紹介されてきた。すまない急に黙ってしまって」
「あぁ!いえ、大丈夫です。皆さん色々な事情を抱えているでしょうから平気です。それじゃあプラン、ですけれど」
そう言ってナルホドーはメニュー表らしきものを取り出すと1個ずつ説明してくれる。
大体7つ程項目があったが最初は皆さん最初コレにしますね、と提示されたのが洗髪だった。
こういった店の知識が皆無なため無難に話に乗ると「じゃあ準備しますね!」とナルホドーは処置台の準備を始める。
その間運ばれたハーブティーと菓子に舌鼓を打っていると準備出来ました!と呼びに来てくれる。
ほんの少し、そそっかしさを感じる動きとこの店の制服なのだろう。茶色系でまとめられたシャツとベスト、そして成人男性が身に付けるには少し大きめの深いマスタードイエローのリボンが付いた制服がどこかあどけなさを残す顔と妙にマッチしておりなかなかサマになっていた。
リラックス出来る環境と英語で話せる安堵感からか不覚にも気が緩み処置台に上がる直前に「その制服、似合っている」などと、普段なら絶対に口にしないようなことを漏らしてしまいハッとする。
言われた本人はというと「エッ……そう、ですか?ありがとう、ございます」とこちらもこちらで言われ慣れて居ないのか戸惑ったように眉を八の字にしてはにかんだ。
流石に気が緩んでいたとはいえ、唐突な賛辞を述べてしまったことを誤魔化すように施術台に仰臥位になると顔に薄いペーパーが乗せられ「位置、調整しますね?」とゆっくり頭に指が通った。
囁き掛ける声に思わず聞き入る。
説明をしていた時の凛とした真っ直ぐな声から柔らかい甘い声に年甲斐もなく緊張してしまう。
こんな声も出せるのか。
そのまま位置調整が終わり「首、痛くありませんか?」という問いに「大丈夫だ」と返答したのが最後、暖かい温水が頭皮に当たり、水の音と髪を梳くように流す指先の感覚だけが取り残される。
最低限の照明と心地いいアロマの香り、優しい手つきに自分でも驚くほど瞼が重くなっていくのを感じる。
今までの苦悩はなんだったのか。
こんなにも単純に入眠しようとしている自分に複雑さを抱き、無意識に眉間に皺が寄ってしまう。
こういった時、素直じゃない自分に嫌気が差す。
しかしまともに睡眠を得ていない身体は次第に脱力しシャンプーの泡立つ音とナルホドーの「痛いところ、無いですか?」という穏やかな声に集中するのが精一杯で返答が遅れる。
「……ふ、もう眠いですか?寝てていいですよ」
もたついている返答に気付いたのかナルホドーの優しい声が振ってくる。
ああ、こんなに心地が良いのは本当にいつぶりだろうか。
次第に視界は真っ暗になり、意識が遠くに遠のいていく。
………………
………………………………
………………………………………………。
「クスさん、……バンジークスさん」
「ッ!?」
次に目が覚めたのはナルホドーが呼び掛ける声を耳にした時だった。
すっかり髪は乾かされ、施術台も角度が変えられており、タオルケットがかけられている。
隣には椅子に腰掛けたナルホドーがこちらを見詰めており懐中時計を見せてきた。
「あれから3時間、経ちました。よく眠れましたか?」
「3時間…………そんなに眠っていたのか」
自分でも途中で覚醒すること無く入眠していたということと、夢を見ないほど深い眠りに落ちれていたのだということに驚きが隠せず口許に自然と手を寄せてしまう。
まだ眠気が残ってはいるものの確実に頭重感は軽減しており、長年の悩みの解決に戸惑いすら感じてしまっていた。
ナルホドーはゆっくりと施術台から身体を起こした私を見詰めると「よかった……」と声を漏らした。
「バンジークスさん、足長いので。窮屈だったらどうしようって思っていましたが、問題なさそうですね」
「……む、そのようだな」
「まだ眠そうですね。残念ながらお時間ですがどうでした?」
「……自分でもびっくりしている。こんなにもアッサリと眠気に負けるとは……複雑な心境だ」
ありのままを語るとナルホドーは「あ、」と何かに気付いたのか私の頬にそっと触れると目の下を親指でつい……となぞった。
「……隈、すごい……」
真剣な目付きで覗き込んでくる大きな瞳に段々と眠気が吹き飛んでいく。
これは、いけない。
ナルホドーも己の行動に気がついたのか「ご、ごめんなさい!つい!あ、もう退店10分前ですね!荷物、どうぞ!」と施術中とは別人のように慌ただしく荷物の入った籠を差し出して来るとそのまま個室の入り口の扉を開けた。
私も誘導されるがまま個室から出るとそのまま会計へと足を進め要求された金銭を支払うとナルホドーが店の扉を開け見送ってくれる。
軽く頭を下げるとナルホドーは「あ、の。もし宜しければまた来てください。待ってます!」とこれまた深々と会釈を返すと店内に引っ込んで行った。
……ここがいわゆる指名を取って性的接触をメインとするような店では無くてほんとうに助かった。
でなければ確実にあの人好きのする笑顔の青年に幾らか貢ぎ込んでいたやもしれぬ。
そんな馬鹿げた事を考えながら完全に浮かれていると苦笑しつつ軽い足取りで自宅へと向かう。道中久しぶりに料理の材料を購入し、ディナーを作るとその日は身体のみ洗体しいつもの冷えたベッドに潜り込んだ。
その際髪から僅かにあの店で嗅いだアロマの匂いとシャンプーの匂いが漂いなんとも言えない気持ちが込み上げてくる。
ここで眠れてしまえばもうあの店に行く事もない。
私はそっと瞼を閉じると入眠困難感を感じることも無く徐々に意識が薄れていく。
髪を撫でるあの感覚を思い出しながら、次第に私は微睡みの中に身を投じていった。