「誤解を招くといけないから、今の気持ちを正直に、且つ丁寧に述べるよ。…これが教師として生徒を思う庇護欲のそれなのか、親や兄が抱く情の類なのか。…はたまた、それとは全く別物なのか、私には判別できないのだが、とにかく、その…どうにもキミを愛おしく感じるようになってしまったんだ」
「……!」
きまりが悪そうに俯き、静かな想いを吐き出すサイラスを前に、オフィーリアは目を丸くした。身体は硬直し、息をするのも忘れる。心臓だけが、かつてないほどの勢いで拍動していた。
サイラスは少しだけ目線を上げ、我が生徒と同年代の彼女を見た。これでもかというほど頬を紅く染める彼女の、なんと可愛らしいことか。少なくとも、この曖昧すぎる告白を嫌がられていないことは察した。
しかし十も歳が離れていることを考えると、どうもばつが悪い。…悪いのだが、ここまで話してしまったからには最後まで続けなければならない。
サイラスは軽く息を整えると、再び口を開く。
「だから、これは至極身勝手な我儘なのだが…オフィーリア君が許してくれるなら、また会いに来ても良いだろうか? 女性に対して、自らこんな想いを抱くなんてことは、これまで一度もなかったから。この情緒の意味を解明したいんだ。それに、…」
サイラスは徐に片手を持ち上げ、そっとオフィーリアの顎へかけた。
この旅で散々、プリムロゼを始め、男としての振る舞いには十二分に気をつけろと仲間たちから諭されてきた。未だ自分の容姿が整っている自覚はないが、それでも女性を多少惑わせてしまうような力があることは、曲がりなりにも認識している。
それを逆に利用してやろうなどと思う日が来るなんて。人生とは分からないものだ。
涼やかに目元を細めながら、ゆっくりと顔を近づける。額が触れるか触れないかの距離で静止すると、息を混ぜた低めの声で告げた。
「もっと、キミのことを知りたい」
オフィーリアは更に大きく目を見開く。澄んだガラス玉のような瞳が、少しだけ歪んだ。彼女は数度の瞬きをすると、僅かに眉を寄せ、切なげに微笑んだ。
「…サイラスさんのお気持ちが、私と同じだったら良いのにと…そう、思います」
そうして唇を閉じ、祈るように瞼を落とした。一粒の涙が、白い頬にすっと線を描く。その真っ直ぐな一筋は、彼女の濁りのない心を表しているようで、サイラスは胸の奥が締め付けられた。
オフィーリアは僅かに顎を上げる。
何を求められているのか、鈍いサイラスでも流石にわかる。仕掛けたのはこちらだ。そこに責任は持たねばならない。ひどく身勝手な告白を受け入れようとしてくれているこの子の、澄み切った気持ちを無下に扱うなど、許されることではない。
サイラスは、彼女の顎を捉えている手を頬へ滑らせた。なんと触り心地の良いことか。その下心にきまりの悪さを覚えつつも、軽く降りている後毛を優しく耳へかけてやる。
逡巡した末、顔を少しだけ傾け、陶器のように滑らかな頬へ、静かな口付けを贈った。
数秒の時間は、一瞬のようにも、果てしなく長くも感じた。丁寧に唇を離し、彼女の顔を覗き込む。
「…あっ……」
オフィーリアは堪えられなくなり、表情の全てを読み取られる前に、ほぼ倒れ込むようにしてサイラスへ抱きついた。瞼をぎゅっと瞑り、彼の薄い胸板へ額を押し付ける。白いタイヘ、涙が僅かに滲んだ。
サイラスは一瞬迷ったものの、彼女の華奢な肩へ長い腕を滑らせる。背中を撫でるようにして優しく抱き込むと、オフィーリアは縋り付くように強く抱き返してきた。
サイラスの心臓のあたりに、温かい何かがじんわりと広がっていく。その正体は分からないが、何とも心地が良い。
──やはり今は、愛おしいという言葉の他には思いつかないな。
想いに応えるよう、サイラスは彼女をより強く自分へ引き寄せた。
こんなことは、生徒が相手であれば絶対にしない。ならばオフィーリアの存在は、教え子のラインを優に越えているということになる。答えにひとつ、近づいた気がした。
「あ、あの、サイラスさん…」
か細い声と共に、顎下にあるオフィーリアの頭が、不意に身じろぎした。
「ん?」
「す、すこしだけ、痛い、です…」
はっとしてサイラスは身を引いた。
「すまない! 力加減をするのを忘れ…」
詫びの言葉は、図らずも尻すぼみになった。
目の前のオフィーリアは、頬を薔薇色に染め、涙で湿った大きな瞳をとろんとさせていた。半開きになった唇からは小刻みな吐息が漏れ、それに呼応して胸元が上下する。
彼女とは随分と長く濃い時間を過ごしてきたが、こんな姿は見たことがなかった。サイラスの胸の内側に秘匿してきた何かが、大きく突き動かされた。
無意識に手が伸び、オフィーリアの目尻に溜まった涙を指で掬い取る。そのまま両手で彼女の小さな顔を挟み、ゆっくりと鼻先を近づけそうになったところで我に返った。
この子に対する感情の意味を知らず、その身を縛り付ける決定的な行為をするのは失礼極まりない。先程もそう考えて、敢えて避けたばかりではないか。
サイラスはゆっくりと手を下ろすと、軽く頭を垂れる。そしてもう一度、すまなかったと蚊の鳴くような声で謝った。冷静さを取り戻した一方で、拍動は治らない。この経験したことのない感覚に、酷く混乱する。
オフィーリアは少しだけ眉尻を下げた。その残念そうな面持ちに、意中の学者は気がついていない。だが彼との距離がぐんと縮まった事実に、少し浮かれもした。
普段よりも動揺が手に取れるサイラスを可愛らしく思い、オフィーリアはいたずらっぽく笑う。そして彼の片手を、両手で丁寧に掬い上げた。
サイラスが不思議そうにしているのに構いもせず、その手をじっくりと眺める。自分よりもひとまわり大きいそれは、本のいじり過ぎで少々カサついてはいるものの、男性にしては白くて綺麗だ。指を絡ませ、手の甲のごつごつとした節をなぞると、彼はぴくりと反応した。
「私にこうされるの、嫌ではないですか?」
オフィーリアは視線を落としたまま尋ねた。一瞬の間を置いて、返事がある。
「…そうだね。嫌ではないよ。今、その理由を考えていたところだ」
今度はオフィーリアの肩が、ぴくりと反応した。胸の内側が熱くなる。手に触れることを許されただけなのに、のぼせそうになるほど嬉しい。
思わずその手を高く持ち上げる。先程まで指を這わせていた手の甲へ、己を刻みつけるようにしっとりと唇を落とした。
「…!」
緊張の抜けていたその手に、力が籠る。顔を見たわけではないのに、サイラスが目を見開いているのがよくわかった。
数秒たっぷり口付けたあと、ほんの僅かなリップ音を立てて、オフィーリアは唇を離した。
先程サイラスがそうしたように、その顔を覗き込もうとすると、彼は慌てて空いた方の手で自分の顔を覆ってしまった。
オフィーリアが目をぱちくりさせると、聞かれもしないのに言い訳紛いの言葉を紡ぎ出す。
「いや、待ってくれ。決して嫌だったわけではないのだが、その…今きっと、とても大人気ない顔をしていると思う。だから見せられなくて…ええと、つまり………申し訳ない…」
消えゆく語尾と、隠しきれていない真っ赤な耳元。それだけで、これまで感じたことのないような高揚感が、オフィーリアの身体中を駆け巡った。思わず「あはっ」と吹き出してしまう。
「さっきのお返しです。とても嬉しかったから…」
さっき、とは、頬へのキスのことだろう。サイラスとしては、ありったけの親しみを込めた、極めて冷静な口付けのつもりであったが、今となってはそれすらも居た堪れなさの理由のひとつと化してしまった。
「あまり大人をからかわないでくれ…」
「私だって大人です」
ムッとむくれたような彼女の口調が愛らしく、サイラスは顔を覆ったまま、口元をふっと緩ませた。それに気がついたオフィーリアがまた、「ふふっ」と笑みをこぼす。
そのまま互いに静かに笑い合う。その声量は少しずつ増し、せっかく人目を避けた場所を選んだはずなのに、存在がばれてしまいそうなほどになった。
だがその時のふたりは間違いなく、この上ない幸せを感じていた。
すぐに手紙を書く。野暮用を済ませたら、真っ先にキミを訪れる。
そう約束を交わし、オフィーリアの名残惜しげな視線を背に、サイラスはフレイムグレースを発った。
出会った当初は、彼女の実直で健気な姿勢に心を打たれ、目標に一生懸命な生徒に接するように見守ってきたつもりだった。
その存在が、今や己の中で大きく変化している。同時に、これまで知らなかった自分の一面を晒すことにもなった。その事実に、酔うような興奮を覚えた。この状況を的確に分析し、できるだけ客観的に追ってゆきたい。オフィーリアを傷つけることだけは絶対に許されないが、この先彼女と共にどんな道を辿るのか、非常に興味を唆られる。
手の甲にはうっすら、オフィーリアの温かな唇の感触が残っていた。そこを、反対の手でそっと撫でてみる。すると形容し難い妙な感覚が、ぞくぞくと背を這った。
思わず足早になる。早くアトラスダムへ帰りたい。この浮き足だった気持ちを、論理的に説明する書物はあるのだろうか。もしも見つけられたら、彼女へ伝えたい。
ふと我に返る。別れたばかりなのに、もう顔が見たい、話したいと考えている。
我ながら呆れるが、今日のアトラスダム平原はこれまで見た中で最も美しく、きらきらと輝いていた。