しなざかる ──ある日の午後。
訓練を終えた越後が、声聞士と並んで歩く。その声は弾んでいて、訓練後というのに足取りは見るも軽やかだった。
「そういえば師匠! こないだの任務……ぜんぶ最高評価だったって本当ッスか!?」
「ほんとだよ。はい、評価シート」
声聞士がさっとデバイスを操作し、越後に見せる。
「ほ、本当ッスね……。 自分でも信じられないッスけど……」
越後ははにかんだ。つられて声聞士も笑みをこぼす。
「越後の鍛錬の成果だよ。ここ最近は特に調子いいし、自信持っていいと思う」
「──はいッス!」
師匠とあれこれ話していると時間が経つのはあっという間だ、と越後は思う。
御座所の前まで来て、二人は立ち止まった。
「……じゃあおれ、この後ミーティングなんだ。また後でね、越後」
「はい。師匠、お疲れ様ッス!」
声聞士を見送り、越後は自室へ向かう。
(師匠、自分のことみたいに喜んでくれてました。なんだかこそばゆいッスね)
知らず知らずのうちに口元が緩む。
(この後は風呂で汗流して……。そうだ、定期検診の結果も出てたんでした。豊後のところにも行かないと──)
*
「劇的な変化はない──って、どういうことッスか!?」
「どうもこうもないにゃ。結果は見ての通り」
越後の身体はいたって健康、いっさいの異常も見られない……のは良いのだが。
筋肉量や骨密度などは微増。最近の絶好調に反して、フィジカル面での伸びが控えめだったのだ。
短期間で爆発的にフィジカルが強くなるようなことはいくら地魂男児でもありえない、と前置きした上で、豊後は続ける。
「データを見ると、最近調子が良いのは確からしいにゃ。普段の鍛錬の成果は十分出ているにゃ。気を落とすことはないにゃ」
「うーん……。それはそう、なんスけど……」
越後は首をひねる。
「納得いかないようだにゃ。だとしたら……メンタルのほうかもしれないにゃ」
「めんたる、ですか」
「何か最近、変わったことはあったかにゃ? 特に、自分にとってプラスになることが」
変わったこと。改めてそう言われ、越後は今まで意識をしてこなかったことに気づく。
普段通りの鍛錬。賑やかなご飯。少し不安になるような任務中の夜。そうした時間の端々で──。
「……ふとした瞬間に、師匠のことを考えているような……」
「それにゃ!!」
豊後は食い気味に言い切った。
「ぶ、豊後?」
「わ、悪い。取り乱したにゃ。……ともかく。主を意識することが越後のモチベーションになり、各方面でのパフォーマンスが向上しているとすれば妥当にゃ」
なるほど、そうかもしれない──越後は合点がいった。
師匠のことを考えると、どんなに疲れていても力が湧いてくるような気がする。さっきもそうだったように──近くで話をすると、嬉しくて、少しどきどきするのも……きっと同じことなんだ。
「……越後。これは診断じゃにゃくて憶測にゃが」
「?」
「端的に言うと──主に、恋してるのかにゃ?」
豊後のその一言に、越後は一瞬固まった。遅れて言葉の意味を理解すると、ぼっと顔が熱くなるのを感じた。きっと耳まで赤くなっているんだろう。湯気も出ているかもしれない。
「こッ──こここ、恋ッスかぁ!?」
*
それから何日か後。ロクハラ、荘園内の会議室にて。
「時間取ってもらってすみません、夏人くん」
頭を下げる越後。
「いいんだよ。越後くんたち地魂男児のサポートも、オペレーターの仕事のうち」
越後の急な相談も、夏人は快く受けてくれた。
「──まぁ、恋愛相談って聞いたときはびっくりしたけど。しかも相手が……」
「あ、あはは……。夏人くんなら、師匠と年も同じくらいですから、一番目線が近いんじゃないかと思ったんス」
それを聞いて、夏人は申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとう越後くん。でも僕、ずっと勉強一筋だったからなぁ……。一般論になっちゃうけど、それでもよければ」
「ぜんぜん構わないッス!」
「──なるほどなるほど。恋愛といっても、すたんすが色々あるんスね」
「そうだね。それに、強い信頼関係は恋愛感情と区別がつかない、って話もあるんだ」
夏人は大きく息をついた。
「──越後くんが抱いている気持ちが、恋なのかそうじゃないのか……決められるのは越後くんだけだと思う」
「決められるのは、オレだけ……」
「うん。だから──急がず、ゆっくり答えを出してみたらいいんじゃないかな」
*
──恋か、そうじゃないかなんて。そんな簡単に分けられるものなんだろうか。
(経験ある人ならともかく……オレにとっては、簡単じゃない。だからこそ、夏人くんはああ言ってくれたんス)
なら、経験がありそうな相手に話を聞いてみるべきなのか。越後は思い当たる何人かを思い浮かべる。
(恋に限らず人生経験が長そうなのは羽鳥さん。……でもどこか底知れない感じがして、そんな気軽には打ち明けられないかもッス。猫乃屋さんや百太くんは……すごく食いついてきそうですけど、噂の広がり方も尋常じゃなさそうッスね……)
結局のところ、経験に基づくアドバイスを受けてもその通りにできるとは限らない。自分なりにやれることをやるしか、答えは出せそうになかった。
(──もう少し、情報が欲しいッス。いんたーねっとに頼るのもいいですけど……)
「加賀。恋愛に関する本があったら、見せてほしいッス……」
同じ北陸道、兄弟のよしみ。越後が次に向かったのは、読書好きで知られる加賀の部屋だった。
「はぁ。恋愛、ねぇ……」
加賀は呆れたように言って、眼鏡をくいっと直す。
「──まぁ、あるにはあるけど」
「本当ッスか!?」
食い気味に詰め寄る越後。加賀はそれをぐぐ……と押し返した。
「そんな寄るなって! ……意外だと思った?」
「……わりと。加賀、そういうこと良く思わなそうじゃないッスか」
「ふん、ボクだって少しくらいは興味もあるさ。ま、凡百の指南本みたいなのは論外だけどね」
それに、と加賀はドヤ顔で続ける。
「記紀や万葉──そうした時代から、恋愛は作品の題材として取り上げられてきた。だから、人が作り上げた文化の一つと言ってもいい。ボクはそういう文化的側面に着目したいのさ」
「な、なるほど……」
「ところでさ。──相手は誰?」
加賀の刺すような視線。
「えッ……あ、えっと……」
対して越後の視線はあっちこっち泳ぐので、加賀はなんだか面白くなってきてしまった。
「……ほんっと、わかりやすいな。主でしょ? 顔に書いてある」
「か……書いてないッスよ!!」
越後は耳まで真っ赤だ。
「──適当なの借りてっていいから。ちゃんと返せよ」
「……いいんスか! 加賀、恩に着るッス!」
「──ただ、これは一つ忠告というか。当たり前のこと、なんだけどさ」
それを言うべきか、加賀は迷った。
だが──どんな道を選ぶにせよ、この先きっと向き合う必要があることだ。地魂男児としての責務だと言ってもいい。だったら、今気づいてもらう方が越後のためだ。
「……主は人間で、ボクたちは地魂男児だ。どれだけ人間に近くても──根っこの部分は違ってる。今は同じでも、いずれ違う時間を生きなきゃならないかもしれない」
越後は、ただ黙って聞き入っていた。
「それだけは分かっておいたほうがいい。じゃないと……辛いだろうから」
*
自分の抱いた感情をどうするか、越後は決めかねていた。そうこうしているうちに、気づけばひと月が経つ。未だ脳裏には加賀のあの言葉──。
(師匠は人間。オレは地魂男児……)
──加賀は加賀なりの優しさで、師匠とオレの間にはそういう覚悟が要るってことを教えてくれた。
(師匠を守る、手を離さない。そういう覚悟ならあります。でもそれって、主従の関係だから言えることなのかもしれないッス──)
だったらもう、この感情はそっとしまいこんでしまおう。名前をつける前に。オレは精一杯師匠をお守りする、それでいいじゃないか。師匠が幸せになってくれるなら、その相手は……。
「──越後。おーい、越後!」
思考の中から、越後は現実に引き戻される。
「あ……若狭」
そうだ。今は夕食中だった。正面に座る若狭は、心配そうに越後の表情を覗き込んでいた。
「……大丈夫か? 最近なんだか上の空だぞ」
「ちょっと考え事してただけッスよ。ちゃんと食べてますって!」
「そうか? ならいいけど……。あれ、ご飯おかわりしないのか?」
空になった茶碗を見て、不思議がる若狭。
いつもだったら、茶碗が空くたび白米が山のように盛られているはずなのに。
「あ……はい。ちょっと、今日は一杯で十分かなって」
「えっ」
「ごちそうさまでした。オレ、先に部屋戻ってますね」
越後は席を立つと、テキパキと皿を下げて部屋へ戻る。
「嘘だろ──」若狭は目を丸くした。
「あの越後が、一回もおかわりしないなんて……」
ざわつく一同。明らかに越後の様子がおかしいと、誰もが気づいた。
「……まずいにゃ」
「……うん。どうする、主や夏人を呼ぶ?」
心当たりのある二人──豊後と加賀は顔を見合わせる。
「いや……まだミーティング中にゃ。ここはオレたちで──」
「──あっはっは。まぁ待ちたまえよお二人さん」
振り向くと、そこには不敵な笑みを浮かべる安房がいた。
「──安房」
「──ここはひとつ、お兄さんに任せてみないかい?」
──越後の自室。
越後は床に寝転がり、物思いに耽っていた。
畳のひやりとした感触と裏腹に、頭はまだぼうっとしている。
(若狭に、悪いことしちゃいましたね。確かに一杯じゃまだ足りない。けど、胸がいっぱいで。とてもじゃないけど入りそうにないッス……)
「──越後」
襖の向こうから声がして、越後ははっとした。
「……安房?」
「豊後と加賀から、事情は聞いたよ。だからお兄さんが一肌脱ごうと思ってね。少し、話さないかい?」
別に口止めしていたわけでもないのに、豊後も加賀も噂が広がりすぎるのを抑えてくれている。安房も好奇心旺盛ではあるが、基本的にはしっかり者だ。
話せば、少しは楽になれるだろうか──。
「……どうぞ、入ってくださいッス」
*
「安房も聞きましたよね。オレが……師匠に恋してるかもしれないってこと」
「聞いたとも。この様子では、さしずめ恋わずらいといったところかな?」
安房の一言に、越後は小さく笑う。
「でも、考えれば考えるほど……オレには不相応なんじゃないかって思うんス」
「不相応?」
「師匠のことは……大好きです。守りたいって思うし、ずっと手を離さないでいたい。でも……オレは地魂男児で、師匠は人間ッス」
自問自答で、同じところをぐるぐると回り続ける。やっぱりオレではダメだ。師匠を幸せにはできない。
「だから──諦めると?」
「諦めてるんじゃないんスよ。最初から、恋なんかじゃなかったんス。一時の勘違いで、夢なんか見たオレが……悪かったんです」
「……なら、他の地魂男児が、少年と恋仲になっても良い。そういうことだね」
「──それはッ」越後は語気を強めた。
「それは……」
「おやおや、ずいぶんと虫のいい話じゃないか。自分は諦めるから、他人にも諦めろと」
安房はにやり笑った。
「そう──例えばお兄さんも少年のことが気になっていたとしようじゃないか。だとしたらこれは大チャンスだね」
「安房──」
「ふふ。なんならこの後、直接少年のところに向かったって──」
「やめてくださいッ……!」
越後は声を荒げた。震える体を抑えるように、ぎりと拳を固く握りしめて。
「──お兄さんに、これ以上言わせるなよ」
「……オレはッ」
震えている。怖い。──何が?
「──師匠のことを考えると、力が漲ってくる。オレも、師匠にとってのそういう存在になりたい。……今よりもっと側に、もっと近くで……それで!」
自分の我儘を、欲を通すのが──それを恋だと認めて、後戻りできなくなるのが。
そんな自分を受け入れるのが。
……ただ、怖かったんだ。
「オレは心の奥底で──もっとしたい、って思ってるんスよ……」
越後の両目から涙がこぼれた。
自分が情けなくて、もうぐしゃぐしゃだ。けれど……なんだか胸のつかえが取れたような。
「……不犯の誓い。難儀なものだね」
厳しい雰囲気がぱっと晴れて、安房の声色は普段の穏やかなものになっていた。
「でも心配しなくていい。君の刃は、鈍るどころかますます冴え渡るだろうからね」
越後はようやく、安房がわざと棘のある物言いをしたのだと気づいた。それもこれも、自分に発破をかけるため──。
「……安房。ありがとうございます」
越後は深々と頭を下げた。
オレのこの気持ちは、愛でもあるし、欲でもある。
だけどあえて──師匠が、初めてオレの名前を呼んでくれたように──オレはこの気持ちを、恋と呼ぼう。
「あっはっは、礼には及ばないさ。それにね、お兄さんはずっとやきもきしてたんだ」
悪戯っぽく笑う安房。
「越後と少年は、いつになったらくっつくのか……ってね」
「えッ」
越後は目を丸くした。
「その後押しができたんだから、憎まれ役くらいは喜んで買って出るとも」
越後の反応に、安房は満足気だ。
「ちょ……ちょっと待ってください。ってことは、師匠もオレのこと──」
「ふふ、それは後で本人に聞いてみるといい。じゃ、お兄さんは行くよ」
颯爽と踵を返し、去っていく安房。
そして程なく──閉じた襖の向こうから、聞き慣れたあの声がした。
「──越後?」
「しっ………しししし師匠!? どっどどどどど……どうしたんスか!?!?」
心の準備ができていない。何より、こんな涙でぐしゃぐしゃな顔は見せられない。
「ミーティング終わってさ。食堂行ったら、もう部屋に帰った、って聞いて……」
わずかな間。
「ご飯、おにぎりにしたからさ。ちょっとずつでも、食べれたら……って」
「師匠──」
越後はごしごしと涙を拭き、意を決して襖を開けた。
「ありがとうございます。いただきます!」
「越後……」
普段通りの快活な返事にほっとしたのもつかの間、声聞士は涙を拭いた跡に気づく。
逡巡し、言葉を選んで。やっとの思いで、その一言を絞り出した。
「……おれも、一緒に食べていいかな?」
越後の表情がぱっと明るくなる。
「──もちろんスよ。どうぞ、上がってくださいッス!」
*
「──ふぅ。ごちそうさまでした!」
大皿に山盛りになったおにぎりは、あっという間になくなった。
(吹っ切れたら、なんだかいつにも増してお腹が空いちゃいました)
越後は恥ずかしそうに頭をかく。
「はは、きれいに平らげたね。……よかった」
声聞士の方も今度こそ、ほっと胸を撫で下ろした。
「……師匠。心配かけて、すみませんでした」
「いいって。こういうのって、なんていうかお互い様だし」
笑顔で返す声聞士。
──深くは聞かないし、話してくれなくてもいい。誰にだって、言えないことの一つや二つある。もちろん自分にも。
だからこそ、今一緒にいられることを大事にしたいんだ。
「なら師匠も、もっとオレを頼ってくれていいんスよ?」
「頼りにしてるよ。──十分すぎるくらいにね」
……それから、心地いい沈黙が流れた。
互いにすぐそばにいることの証明に、かすかな温もり、そして息遣いが伝わってくる。
永遠に続くかと思っていたこの時間。最初に話を切り出したのは──越後のほうだった。
「……師匠。聞いてほしいことがあるんス」
越後は姿勢を正し、声聞士に向き直る。
「……なに?」
深呼吸。
「その。オレ──師匠に、恋してます」
──さぁ。あと、一息だ。
「好き……なんです。すっごく。だから、オレと付き合ってほしいんス! ──師匠は、どう……ですか?」
越後の真剣な眼差しに、声聞士ははっと息を呑んだ。
──今の関係以上のものがあるんだと。
──そして、それを求めてもいいんだと、初めて理解したからだ。
体が動く。自分でもよくわからないうちに。
「し、師匠……!」
──気づけば、越後のがっちりとした身体を抱きしめていた。
「おれで、よければ」
越後はおずおずと、声聞士の身体を抱き返してみる。
「……師匠が、いいんスよ」
「……おれも。越後がいい」
越後の抱きしめる力が、ぎゅっと強くなる。
越後に比べれば、声聞士の体格は小さい。それが、まるで越後に包まれるように感じて──。
「いでででで!! 越後、ギブギブ!!」
「──はっ。す、すみません師匠! つい感極まって……」
ぱっと手を離して、顔を見合わせ、二人は笑い合った。
「……師匠。改めて、これからも──よろしくお願いします」
「──うん。よろしくね、越後」