"Shield 35℃ / 27℃"
手元の新聞に書かれたその文字だけで気が滅入る。
どうりで暑いはずだと、俺はまだ室内を冷やしきれていないエアコンにちらりと目をやった。
粗悪なものではないはずだが、何せ元々の気温が気温だ。かなりのハイパワーに設定しているが、快適な温度になるまでは多少の時間を要する。
──店休日なのだから、今日の業務は自宅で片付けてしまっても良かったかもしれない、と考える。
ひとりため息を吐きながら、ソファの背もたれに体重を預けた。
ほどなくして、勢いよく入口の扉が開く。
「はよーっす……うわっ、涼しっ!」
「騒々しい、早く閉めろ」
大声を上げたのはフィンだった。せっかく下がり始めた温度が元に戻ってしまってはたまったものではない。じろりと睨みつけると、肩をすくめて「へーへー」と適当な返事をしながら後ろ手で扉を閉める。
「なんだ、レオだけか?じいちゃんは?」
「バーナードは所用で本社に呼ばれている。戻りは1,2時間後ぐらいだろう」
「ふーん。でも今日はウェンディも……ってまぁ、いつものか」
「そういうことだ」
──遅刻を"いつもの"で片付けるのはどうかと思うが、紛れもない事実なので仕方がない。
手本を示すべき新入りにまでこんな扱い方をされても治らないのだから、あいつの遅刻癖は筋金入りだ。
「まぁ、ならちょうどいいな。暑さでへばってる店長サマにいいモンやるよ」
「へばってなどいない。適当なことを抜かすな」
俺の言うことには耳を貸さず、ソファの空きスペースにどかっと座り、手に持っていた乳白色の袋をがさがさと漁るフィン。
中から取り出されたのは、手のひらくらいの大きさの袋だった。袋に付着した細かな水滴がいくつか集まり、床にぽとりと落ちる。
「……なんだ、それは」
「何って。アイスだよアイス。まさか食ったことねぇのか?」
「アイス……」
もちろん、食べたことがないわけではない。だが、市販のものをわざわざ購入して食べたことはなかった。
それに、中身も俺が知るものとは異なるだろう。フィンが手に持っているのは、おそらくアイスキャンディーと呼ばれるものだ。
「そこの店で買ったらさぁ、おばちゃんが1個オマケしてくれたんだよ。ウェンディに見つかったら面倒だし、さっさと食っちまおうぜ」
そう言って、袋をずいと突きつけてくる。けばけばしい赤で彩られたパッケージには、"cola"の文字が踊っていた。
「いらん。貴様が2つとも食えばいいだろうが」
「はぁ?2つも食ったら腹壊すだろ。いいから食えって、お前コーラ好きじゃん!」
「いらんと言っているだろうが!」
「早く食えって!溶けるだろ!」
「ぐっ……」
押し問答の末、フィンがわざわざ袋を開けて中身を差し出してきた。こうなってしまってはこいつは折れない。
根負けしてアイスを受け取ると、目の前の男は満足げに目を細めた。
「受け取ったな?ありがたく食えよ」
「……恩着せがましいな。貴様が無理やり押し付けてきたんだろうが」
こいつの態度は気に食わないが、アイスに罪は無い。
角の部分に軽く齧りつく。唇に氷が張り付く感触に少し戸惑ったが、表情に出さないように努めて、そのまま欠片を齧りとった。
──自分で思っていたよりも、暑さにやられていたのだろう。氷菓の単純な冷たさが咥内から沁みて、まだ熱の残っていた身体の芯がじわりと冷やされる。
あっという間に溶けて消えたことにどこか寂しさを覚えつつ、すぐに二口目を口に含んだ。
「美味いだろ?」
「……まぁ、悪くは、ない」
「まーたそれかよ。もうちょい素直なら可愛げもあるのになぁ」
気付けばフィンの手にもアイスが握られていた。俺が持っているものとは違い、鮮やかなライトブルーだ。おそらくはソーダ味だろう。
そういえば、クレイジー8で食事をするときには、こいつはいつも決まってソーダを注文している。よほどソーダが好きらしい。
──ソーダが好きなのに、2つのうち片方はコーラ味を選んだのか?
思い返せば、俺に押し付けてくるときに「お前コーラ好きじゃん」などと抜かしていたか。
「……貴様も大概だな」
「はぁ?何がだよ」
「『もうちょい素直なら』、だったか?人の事を言えないだろう」
テーブルに置かれた赤い袋をつまみ上げて、ひらひらと見せつけた。
間抜け面がみるみるうちに悔しそうな表情になる。こいつは感情がすぐ顔に出るので、正直見ていて退屈しない。
「お前さぁ……!そういうの、フツー気付いても言わないでおくモンだろ!」
「さぁ?知らんな」
「ほんっと可愛くねぇ……!」
こちらを睨みつけるフィンをよそに、手に持ったアイスを食べ進める。安っぽい作り物のようなコーラ味だが、不思議と嫌ではない。……それに、こんなチープな風味のコーラには、少し覚えがあった。
「あっ!お前それ!」
突然の大声で我に返る。
「なっ……急に大声を出すな!」
「お前のやつ!当たりだぞ!」
興奮気味に俺の手元を指さすフィン。
視線を落とすと、露出した木の棒に何か文字が刻まれている。まじまじと見ていると、続けて声を掛けてきた。
「知らねぇの?店にその棒持ってくとタダでもう1個もらえるんだよ。ツイてんじゃん!」
「知らんし興味もない。お前にやる」
「はぁ?何で?引き換えてくればいいだろ」
「アイスひとつの為だけに店に行く時間など俺にはないし、無料の物に釣られるほど困窮してもいない」
「コンキュー?とかそういうのじゃねぇんだって!分かってねぇな〜……」
◆ ◆ ◆
食べ終わったあと、俺から当たり棒を受け取ったフィンは、軽い足取りでキッチンへ向かった。洗って乾かした後、店舗へ持っていくらしい。
数分後、ペーパータオルで包んだ棒を手に戻ってきたフィンが、俺に声を掛けてきた。
「で?次もコーラ味でいいのか?」
「……何の話だ」
「何って、アイスのフレーバーに決まってんじゃん。ソーダがいいならソーダにするし……俺は食ったことねぇけど、グレープフルーツ味とかもあったぞ」
「何故俺の意見を聞くんだ。お前が食べたいものにすればいいだろう」
「俺は俺で好きなモン買うよ。レオが引いた当たりなんだから、これで引き換えた分はレオのモンだろ」
──普段は粗雑なくせに、変なところで律儀な奴だ。
「……昼休憩のときに差し入れを買いに行く。お前も着いてこい。そこで選ぶ」
「おっ、マジ?奢ってくれんの?さすが店長サマ!」
「調子のいい奴め……」
わざとらしいコーラ味も悪くなかったが、目の前の男が子供のような表情で食べていたソーダ味にも、興味が無いわけではなかった。そんなことを言えばからかわれるのは分かりきっているので、言葉にはしなかったが。
バーナードが不在のため、しばらくはコーヒーを飲むことができない。冷蔵庫から瓶のコーラを1本取り出して、デスクチェアに腰かける。
キャップを捻じ切って、中身を少し飲み下す。先程のアイスキャンディーのコーラ味がどれだけ安っぽかったかを実感し、つい笑みが溢れた。
「おっ、レオご機嫌じゃん。そんなにさっきのアイスがお気に召したか?」
「喧しい。さっさと仕事に取り掛かれ」
「はいはい、分かりましたよーっと」
フィンが掃除道具を手にしたのとほぼ同時に、ウェンディが店に飛び込んできた。
いつもだったら強く叱りつけてやるところだが、この暑さの中で走ったためだろう、哀れに思ってしまうぐらいの有様だったので軽い叱責だけに留めてやる。
約3時間後には、やっと涼しくなってきたこの店内を出なければならない。
いつもなら気が重くなりそうなものなのに、今日は不思議と嫌ではなかった。
次に選ぶフレーバーのことを考えながら、ノートパソコンの電源ボタンを押した。