🐟昼下がりの事務室。
魔法狂いの同僚が発表したばかりの論文を持って現れ、感想よろしく!と叫んで嵐のように立ち去ってから一時間ほど経つ。
カウチに腰掛けて読んでいたレンフレッドは、ひと段落したところで息をついて背を伸ばし、冷めたコーヒーを啜った。
長居する予定ではなかったし、温かいうちに飲み切るべきだったなと思いながら空にしたカップを置くと、視界の端で光を反射した水面がちらつく。
水槽にぼんやりと目をやっているうちに浮かんだ疑問を、レンフレッドはそのまま口にした。
「アドルフは魚が好きなのか」
キーをタイプする指の速度をさして緩めないまま、唐突な質問を投げかけられた部屋の主はうーん、と唸った。
「魚……?さかな……、が好きと言われると、どうなんでしょうか……」
「海やら川に縁がある地の出身ではなかったと記憶しているが」
ビールで有名な国の生まれである彼は、レンフレッドに酒の味を教えたその人だ。お互いに生まれのことを気安く話せるくらいには盃を交わしている。
学院の関係者に割り当てられた部屋はかなり自由がきくため、各自改装して使用するものは多い。アドルフはかなり長く学院に勤めているようだが、それにしても電子機器も書籍もある事務室に、水物をあえて置くのはどうなのだろう。
「昔から好きだったってわけじゃないですよ。でも、そうだなあ」
タン、と静かにキーが鳴り、少し置いてまた打鍵音が再開する。
「水槽の中というか、水中って………モーターや泡の音が常に響いてこう、似てるなって感じたんですよね」
瞼の裏に蘇るのは、吹雪の谷だ。
岩の間に掘られた暗がりの奥で揺れる炎と、岩壁を舐めるように動く黒い影。絶えることのない、くぐもった風の音を聞きながら過ごした日々。
「似てる?」
「まあシンプルに癒されたい、というのもあります」
立ち上がって水槽を覗き込んでいたレンフレッドは、振り返ってアドルフの背中に目をやる。
心なしか先ほどより丸く屈められた白衣の背は、何かを思い出したかのように小刻みに震えていた。
「特に年度末の作業渋滞真っ最中なんか、餌あげしながら飛び込んじゃいたい気分に……」
「限界の兆しなんじゃないのか、それは」
レンフレッドの言葉には、隠す気もない呆れがありありと表れている。
「お前はなまじこなし切れる能力がある分、全てを引き受けがちだからな……俺がどうこう言う立場でもないが」
「いやぁ、先輩が気にかけてくれるのは嬉しいんですけどね」
実質何かを変える気はない、の意が含まれたその返答に、レンフレッドは大きくため息をついた。